天知る地知る佐賀んもんは知る~江藤新平・英雄伝
明治七年(1874年)4月13日、この年の2月に勃発した佐賀の乱の首謀者として逮捕された江藤新平が、斬首のうえ梟首刑に処せられました。
・・・・・・・・・・・
明治七年(1874年)2月3日に、佐賀で勃発した事件をきっかけに、佐賀の不平士族への警戒を強めた明治政府・・・(2月3日参照>>)
政府の意向により、完全武装で佐賀に乗り込んできた県令(県の長官)・岩村高俊への反発が、やがて佐賀の乱となって爆発し、一時は佐賀城を占拠した反乱軍でしたが、政府による大量の鎮台(陸軍)兵の導入などにより退却を余儀なくされ、乱の首謀者とされた江藤新平は、3月29日、潜伏先の土佐(高知)にて逮捕されたのです(2月16日参照>>)・・・と、先日は、ここまでお話させていただきましたが・・・
その経緯でも書かせていただいたように、そもそもは、反乱など、まったく起す気もなかった新平・・・
天保四年(1834年)2月9日に、肥前国佐賀郡八戸(やえ)村の貧乏極まりない下級武士の家に生まれた彼は、16歳で藩校の弘道館(こうどうかん)に入学しますが、毎日、同じボロボロの着物を着て、いつもお腹を空かせていたのだとか・・・
しかし、やはり、その頃から優秀な生徒だったのでしょう・・・21歳の時には、新設されたばかりの蘭学校へ、藩の命令で入学しています。
ところが、ペリー来航から9年経った文久二年(1862年)、尊王攘夷思想に傾いた彼は、都の公家に接触しようと、脱藩して京に上ります。
・・・が、ここで、京都の尊王攘夷派の志士たちと交流を持った新平は、逆に失望して故郷に舞い戻る事になります。
そう、この頃の尊王攘夷派は、「外国を排除しなければ植民地にされるかも知れない」と、ただひたすら攘夷の決行を叫んでいた時代・・・なんせ、あの薩摩が、薩英戦争(7月2日参照>>)で外国の近代兵器のスゴさを目の当たりにするのは、この1年後ですし、長州が下関戦争(8月8日参照>>)で敗北するのは、さらにその1年後ですから・・・。
しかし、新平の描いていた尊王攘夷は、同じ尊王攘夷でも、おそらく、後に明治新政府がたどった道・・・戦って外国を排除するというこの頃の攘夷ではなく、外国の干渉を受けない独立国家という意味の攘夷であった事でしょう。
なんせ、故郷に帰った新平は、本来なら脱藩は死罪にあたる罪であるにも関わらず、蟄居(ちっきょ・謹慎)の処分となり、2年後の大政奉還で罪を許されたうえ、新政府からのお声がかりで、戊辰戦争の東征軍に加わっているのですから、やはり、捨てがたい人材であった事は確かです。
ところで皆さんも、「薩長土肥(さっちょうとひ)」というのを聞かれた事があるでしょう。
維新に貢献した藩の代表と言える4ツの藩・・・薩摩・長州・土佐・・・・そして肥前=佐賀藩という意味なのですが、薩摩はご存知、西郷隆盛に大久保利通、長州は、桂小五郎に伊藤博文に・・・土佐は、後藤象二郎に、志半ばとは言え、あの坂本龍馬と中岡慎太郎・・・と幕末に大いに活躍した人ばかり・・・で、肥前は・・・?
確かに、今日の主役である江藤新平さんは、肥前の代表格ですが・・・幕末には、何をしてたっけ?って感じがしないでもありません。
上記の通り、新平が東征軍に加わって・・・て事は、かの鳥羽伏見の戦いのあとくらいに、新政府軍に加わった・・・つまり、ぎりぎりセーフのすべり込み・・・って事になります。
しかも、この頃に新政府軍に加わったのは、肥前だけではありません・・・というより、会津など、最後まで抵抗を続ける藩以外は、ほとんどが、このあたりまでに新政府軍に加わっています。
なのに、貢献する四藩の中に・・・
実は、肥前はアームストロング砲に代表される最新鋭の武器を持っていたんです。
この最新鋭の武器が、大いに威力を発揮した事によって、新政府軍は江戸城が開城された後の、数々の戦いで優位に立つ事ができたわけで、そのおかげで、肥前は四藩の中に入る事ができ、その武器とともに新政府軍に加わった新平も、維新後は重要な役職につく事になります。
明治三年(1870年)、朝廷の命令により東京の中央政界に参加する事になった新平は、例の征韓論がらみの明治六年の政変(10月24日参照>>)で辞職するまでのわずか三年間で、すばらしい活躍を見せるのです。
特に、明治五年(1872年)に、初代・司法卿に就任してからは、明治の初年から唱えていた司法権の独立を目指して、次々と改革を進めていきます。
法律に長けた新平らしく、ヨーロッパ各国の法律をお手本に、警察機能を整え、刑法では、さらし首を廃止して斬首のみとするなど・・・
そして、司法権の独立と言えば・・・いわゆる立法・行政・司法の「三権分立」というヤツ。
確かに、明治元年に発せられた五箇条のご誓文(3月14日参照>>)を基本方針する政体書の中に、すでに三権分立は明記されていたのですが、未だ、この頃は、裁判こそが行政の役割あると考えがまかり通っていたのです。
つまり、地方の役人が民事訴訟や刑事裁判をやっていたわけで、そこには、当然のごとく甘い汁をいただこうとする輩がはびこってくるわけです。
たとえば、長州出身の井上馨(かおる)の事件・・・
話は、江戸時代にさかのぼるのですが、当時、貧困にあえいでいた南部藩(岩手県)は、尾去沢鉱山(秋田県)を所有する豪商・村井茂兵衛から、多額の借金をします。
人のいい村井は、この時、「武士が町人風情に借金するのはみっともない」と言う南部藩のプライドを理解して、証文では、「村井が南部藩から借りた」という事にして、お互いさえ理解していれば・・・という事で、暗黙の了解の契約をします。
もちろん、これは、この時だけに限らず、金銭面で、町人が上に立つようになってからは、江戸時代を通じて、よくあった事でしたが、基本、暗黙ルールは守られていました・・・武士二言は無い!ってヤツですね(だからこそ村井さんはOKしたわけですから・・・)。
ところが、明治になってから、かの井上は、この証文をたてに、村井に借金返済を要求してきたのです。
幕府=藩は倒れ、現在は明治政府となったのだから、藩にした借金は、政府に返せというワケですが、さらに村井が、悩んでいる間に、なんと、井上は、村井の所有する鉱山を没収・・・しかも、そこに「従四位井上馨所有」という看板まで立てちゃいます。
つまり、たとえ、本当に村井の借金だとしても、それは政府に返すべきものなのに、あろう事か、自分個人の物にしてしまったという事です。
しかし、こういう場合でも、それまでは、役人が罪に問われる事はなく、盗られた町人は泣き寝入り・・・だって、役人が役人を裁くわけがありませんから・・・。
ところが、ここにきて新平の改革です・・・
裁判所を設置して、「役人が人民の権利を妨げる時は、裁判所へ訴えてよい」という法令を出したのです。
当然、怒り心頭の村井は、訴えを起こします。
それからも、この事件だけではなく、市民から訴えられる役人があとをたたなかったのだとか・・・それだけ、役人や政治家の横暴がまかり通っていたとうワケですが、肝心の政治家や役人は、そんなのは棚の上で、逆に、そんな法律を出す新平に反感を持つ事になります。
現に、京都の参事である槇村正直(まきむらまさなお)も訴えられ、彼の親友だった木戸孝允(桂小五郎)などは、伊藤博文に対して「裁判所なんか廃止しろ!」と、怒りをあらわにしています。
そして、やはり、この井上VS村井の事件の時も、きっちり元長州藩のおエライさんから、圧力がかかって、なかなか事態は進展しなかったようです。
このように、腐敗政治を一掃すべく、政府の政治家・役人を相手に、孤軍奮闘する新平でしたが、ここで、この井上の事件を解決するに至らないまま、明治六年の政変で政界を去る事になってしまいます。
そして・・・わずか3~4ヵ月後に佐賀の乱・・・
騒ぎを止めにいったはずの新平は、いつの間にか、乱の首謀者として、警察に追われる事になってしまったのです。
それでも、新平は政府を信じていました。
それが、徹底抗戦を訴えた島義勇(よしたけ)との決別・・・城を枕に討死する覚悟の島らを置いて、自分の配下の兵士にだけ解散命令を出し、佐賀城をあとにしたのです。
潜伏先の甲浦(かんのうら・高知県)で囲まれた時も、逃げる・・・というよりは、寸前まで、政府首脳らに宛てた手紙を書いていたようで、逮捕された時には、三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通宛ての書簡を手にしており、その字は、慌てて書いたような乱れた文字であったと言います。
そうです。
彼は、自分自身が近代的に整備した警察機能によって逮捕されはしましたが、やはり、自分自身が整備した裁判所と法律によって、正しく裁かれるであろう事を信じていたのです。
ところが、東京での正式な裁判を望む新平の訴えは聞き入れられず、佐賀に護送され、裁判らしい裁判も行われる事なく、同行した判事によって、たった2日間で判決か下ります。
それも、地方裁判所の範ちゅうを越えた死刑・・・しかも、即日執行された刑は、新平が、すでに廃止したはずの梟首刑=さらし首であったのです。
政府にしてみれば、徹底した処罰によって、その不平分子を抑えようとのもくろみであった事でしょうが、このアテは見事に外れる事となります。
江戸時代に逆戻りしたような野蛮なさまを、文明開化を経験した者たちが許せるわけがありません。
あの福沢諭吉も「これは、司法卿時代の江藤への私刑(リンチ)である!」と声高々に叫び、反政府の声は鳴り止む事はなく、2年後勃発する神風連の乱(10月24日参照>>)、秋月の乱(10月27日参照>>)、萩の乱(10月28日参照>>)・・・そして、最大の決戦・西南戦争(1月30日参照>>)へと、大いに影響を与える事になりますが、何より、この新平への処分が間違っていた事に気づいたのは政治家と役人にほかならなかった事でしょう。
なぜなら、この佐賀の乱以来、明治という時代が終わりを告げるまでの間、役人の汚職事件という物がほとんど姿を消した・・・との事、本当になくなったのだとしたら、それがただ一つの救いと言えるかも知れませんが・・・。
明治七年(1874年)4月13日、処刑される寸前の新平は・・・
「ただ、皇天后土(こうてんこうど)の、わが心を知るあるのみ!」
(天と地だけが、俺の心を知っている)
と、3度、高々と叫んだと言います。
佐賀に住む人は、今も、この乱の事を「佐賀の乱」とは呼ばないのだとか・・・
「あれは、反乱ではなく戦争・・・佐賀の役」だと・・・
そして、
「江藤新平は逆臣ではなく、英雄なのだ」と・・・
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コメント
司法権の独立の理想は、どんな権力や圧力にも屈せず、正義の判断を下すことなんでしょうが、正義って何だろう、と改めて考えさせられます。
結局何が正義だったかは、後になってみないとわからないのかもしれません。
しかし、正しくないことはすぐに感じられますよね。正義が何かわからなくても、不正にはちゃんと反対できるようにありたいものです。
投稿: おきよ | 2009年4月13日 (月) 13時25分
おきよさん、こんばんは~
水戸黄門や遠山の金さんのように、善と悪がはっきりしてるとわかいやすいですが、本当は勧善懲悪といかないのが、現実ですからね~
今回は江藤さんを主役に書いてみましたが、きっと、井上さんには井上さんの言い分があるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年4月13日 (月) 23時41分
冒頭で、肥前国佐賀郡八戸(やと)村とありますが、八戸の読みに誤りがあります。
「はちのへ」と読む人がいるだろうから、正しい読みを書きたかったのでしょう。
正しくは「やえ」です。
現在の佐賀県佐賀市八戸の事ですね。
ちなみに、上記と別にもう一つ八戸があります。
それは、佐賀市鍋島町大字八戸です。
まあ関係ないですけどね。
いきなり失礼いたしました。
投稿: 佐賀市民 | 2012年5月 6日 (日) 11時57分
佐賀市民さん、ありがとうございます。
持ってる史料も「やえ」になってますので、たぶん打ち間違いですね…注意散漫、反省デスm(_ _)m
訂正させていただきました。
また、お気づきの点がありましたら、お教えください
投稿: 茶々 | 2012年5月 6日 (日) 13時25分
江藤新平の処断を主導したのは大久保利通のようですが、彼が私怨によってこの処分を断行したかというとそうではないようです。
大久保は江藤が正論を述べさせれば並ぶものがないことは認めていたものの、現在の状況が見えず理想ばかりを主張する江藤を危険視してもいたようなのです。
従って江藤は当時の日本にとって早すぎて危険というのが大久保の判断で、彼なりに日本のために江藤を処断したようです。
また渋沢栄一など江藤を直接知るものによる江藤の評価は大久保とだいたい同じなので大久保の江藤評はおおむね正しいと思われます。
まだ基礎の固まっていない明治政府の状況では江藤の処断は仕方なかったかもしれません。
実際江藤のこの佐賀の乱での行動を見ても、正義感が強い一方で、融通が利かず臨機応変の対応が得意とは言えない様子は見えますし、動乱の時代を生き残れる人物ではなかったのかもしれませんね。
投稿: ベルトラン | 2024年10月31日 (木) 21時39分
ベルトランさん、こんばんは~
世の中が変わる時代に、現在進行形で生きる人々にとって、何が1番望ましいか?の判断はなかなか難しいところがありますね~
投稿: 茶々 | 2024年11月 1日 (金) 03時46分