上野戦争へのカウントダウン~大村益次郎・着陣
慶応四年(1868年)閏4月4日、新政府の要請により、大村益次郎が江戸に着陣しました。
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慶応四年(1868年)という年が始まってまもなく勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れた(1月9日参照>>)江戸幕府・第15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、自ら江戸城を出て謹慎生活に入りました。
戦争回避と徳川の存続を願って、ただひたすら朝廷に恭順な態度を示す慶喜・・・そんな慶喜の警固と徳川家の名誉回復を目的に、一橋家の家臣を中心に結成された彰義隊(しょうぎたい)・・・
その後、江戸の町の治安維持という役目を与えられて、上野・寛永寺を拠点に江戸市中を取り締まりながらも、幕府勢力の回復を模索します。
しかし、そんな時、あの西郷隆盛と勝海舟の会談(3月14日参照>>)が行われ、江戸無血開城が決定しました。
やがて、4月11日(この年は閏月で4月が2回あります)に江戸城が開け渡され、江戸の町は新政府の管理下に置かれますが、兵力にも、資金にも乏しい新政府軍は、町の治安を守る事すらできず、江戸は無政府状態のようになってしまいます。
以前の彰義隊結成のページ(2月23日参照>>)で、だいたいここらへんあたりまでお話させていただきました。
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そんな頼りない兵力の新政府軍には任せられないと、未だ、江戸の治安を守る彰義隊は、江戸の町の人々の人気を博し、大いにもてはやされますが、一方では、新政府軍の兵士とひともんちゃくを繰り返している状況・・・。
しかも、もともと江戸城開け渡しに反対していた幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、あの江戸城開城の日に、陸軍歩兵奉行の大鳥圭介らを連れて、最新鋭の軍艦・開陽丸で品川沖へ脱走し、大量の武器を持ち去ったうえ、その戦力で新政府軍と小競り合いを続けます。
そんなゴタゴタを利用しようとするのは、スミに置けない男・勝海舟・・・「ほら、やっぱり、幕府の権力なかったら治まれへんやろ?僕らの慶喜はんを、江戸に連れ戻そか?」てな話を、新政府軍に持ちかけます。
ちょうどその頃、未だ、本拠地を京都としていたため、江戸の状況がよくわからない新政府首脳らの要請を受けて、江戸にやってきた佐賀藩士・江藤新平が見たのは・・・
困り果てた末、今まさに、勝の案を受け入れて、旧幕府との融和を図ろうとしていた新政府軍・大総督府参謀の海江田信義(かいえだのぶよし)の姿でした。
「こら、アカン!」と思った江藤は、彰義隊を討伐せねば!と考えますが、いかんせん上記の通り、兵力も軍資金もありはしない新政府・・・だからこそ、江戸の治安が守れないわけですから・・・。
・・・で、この状況を何とかするために、新政府の首脳陣に出動要請をかけられたのが、天才軍略家・大村益次郎(11月5日参照>>)だったのです。
軍防事務局判事として、慶応四年(1868年)閏4月4日に江戸城に着陣した益次郎・・・しかし、江戸城内にいる新政府・大総督府の皆々は、あまり、彼を歓迎してはいなかったのです。
江戸の町を焦土と化す事なく、城を無血開城させた事は、彼らの誇りでもありましたし、今になって「戦火にさらされる事なるのか」という不安も大いにありました。
特に、先ほどの海江田は、あの西郷が京都の滞在中の今は、事実上、江戸城内のトップなわけで、そこにやってきた新参者の益次郎が、「あーだ」「こーだ」と指図する事を快く思うわけがありません。
しかし、益次郎は益次郎で朝廷からの要請で派遣されてきたわけで、そうなれば、この場所で采配するのが自分の役目・・・しかし、海江田はなかなか指揮権を益次郎に渡そうとはしません。
そんな嫌な空気を一新したのが、閏4月24日の三条実美(さねとみ)の江戸入りでした。
実美によって、徳川家を70万石の一大名として駿河へ転封する事、および彰義隊を討伐する事が、岩倉具視(ともみ)をはじめとする京都首脳陣の方針である事が伝えられ、ここでやっと、益次郎が江戸城内での主導権を握る事ができるようになったのです。
早速、5月1日、江戸の治安維持の役目を幕府から剥奪し、今後は、新政府大総督府が行う事を決定します。
このニュースを聞いた勝は、すぐさま、山岡鉄舟を上野寛永寺に向かわせ、それまで治安維持の役目をしていた彰義隊に解散命令を出しますが、もはや手遅れ・・・彰義隊が、そのままあっさりと解散するわけもなく、むしろヤル気満々です。
もちろん、こうなったら益次郎もヤル気満々!
ところが、ここまできても、まだ軍儀の席でことごとく対立する海江田と益次郎・・・しかし、京都から戻った西郷の「大村に委任する」のツルの一声で、海江田も、もう何も言えなくなり、その後は、益次郎を中心に、具体的な作戦会議が進められ、綿密な計画が立てられていきました。
さらに、ラッキーな事に、幕府がアメリカに発注していた軍艦・ストーンウォール号の受け渡しを、局外中立を守るアメリカが拒否したため、購入準備として用意していたお金が宙に浮く事となり、それを軍資金に流用できるというサプライズもありました。
そして、いよいよ・・・来る5月15日に、上野の山を取り囲み、総攻撃を開始する事が決定されたのです。
世に言う上野戦争です。
まるで、江戸城が無血で開城された事の代理の流血であるかのような、この上野戦争・・・その詳細は、やはり、総攻撃の日である5月15日のページでどうぞ>>
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コメント
こんにちは。連休中に実家から司馬遼太郎の「花神」を貰ってきて、一気に読んでしまいました(平家物語は中断してます(;д;))
読んでの感想は、勉強するって素晴らしいわ~と、なんか自分まで学んだ気にさせてもらえて・・・無性に大阪に行きたくなりました!
足は旦那任せなので、いつか行けるのかどうかもわからない身なんですけどね(゚ー゚;
ともあれ、5月15日の記事を楽しみにしています。
投稿: おきよ | 2009年5月 8日 (金) 18時15分
おきよさん、こんばんは~
いいですね~
大阪へお越しの際は、適塾と、大村益次郎・殉難の碑(現在の大阪医療センター)をぜひ押えておいてくださいませ。
投稿: 茶々 | 2009年5月 9日 (土) 01時22分