島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い
天正十五年(1587年)4月17日、豊臣秀吉の九州征伐の最後の戦いとなった高城・根白坂の戦いがありました。
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織田信長亡き後、柴田勝家を破り、徳川家康を傘下に収め、今や天下に一番近い男となった羽柴秀吉・・・さらに、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めて四国を手に入れた秀吉にとって、未だ手付かずなのは九州でした。
そこへ、かつては豊後(大分県)の王と呼ばれ、一大キリシタン王国を夢見た大友宗麟(そうりん)が、薩摩(鹿児島県西部)の島津勢に来襲され、秀吉に救援を求めてきます(4月6日参照>>)。
天正十四年(1586年)7月には、傘下にある岩屋城を落され(7月27日参照>>)、もはや、大友は風前のともしび・・・秀吉とて、今では九州全土を手に入れんが勢いの島津を、このままにしておくわけにはいきませんし、コレ幸いと、九州征伐に乗り出します。
しかし、平定したばかりの四国勢中心の秀吉軍は天正十四年(1586年)11月の戸次川の戦いで手痛い敗北を喫してしまいます(11月25日参照>>)。
その翌月の12月に、太政大臣となって豊臣の姓を賜った秀吉は(12月19日参照>>)、明けて天正十五年(1587年)3月、自ら20万(12万とも)の大軍を率いて、九州征伐に出陣します。
まずは軍勢を2隊に分けて、一つは自らが率いて肥後(熊本県)から薩摩へと・・・、もう一隊は、弟の豊臣秀長が率いて、豊後・日向(宮崎県)から大隅(鹿児島県東部)へ入る事にします。
「さすがに、この大部隊とまともに戦ってはマズイ!」とばかりに、とりあえず九州北部を放棄した島津は、日向&薩摩を徹底的に守る作戦に出ます。
その最前線で食い止める防波堤の役割を荷ったのが、日向高城(たかじょう)城主・山田有信です。
そう、ここは、かつて、耳川の戦いの舞台となった場所・・・その時、有信は、わずかの城兵で、宗麟の大軍勢から、この高城を守り抜き、駆けつけた島津勢は、秘策・釣り野伏(のぶせ)で、大友勢に多大な損害を与えて大勝したのでした。
(耳川の戦い・初日:11月11日参照>>)
(耳川の戦い・2日目:11月12日参照>>)
逆に、この敗戦によって陰りが見えはじめた大友が、坂道を転げ落ちるように衰退の道をたどる事になった戦いでありました。
そんな運命の場所を攻める事になったのは、豊後から日向へと南下してきた弟・秀長率いる8万の軍勢・・・まずは、数にものを言わせて高城を囲み、攻撃を仕掛けます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
その数の差の多さにしては、よく守った有信ですが、さすがにコレは差がありすぎ・・・兵糧の補給路も断たれ、間もなく陥落寸前となるのですが、もちろん、島津も黙って見ていたわけではありません。
すぐに高城の救援へと向かう島津勢・・・しかし、島津が高城の救援へと向かう時に、必ず通るであろうと予想した野白坂には、すでに豊臣配下の蜂須賀家政・黒田孝高・藤堂高虎らが配置され、行く手を阻みます。
しかも、豊臣勢は、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城(攻撃用の仮の城)を構築し、すでに完全な包囲網を築きあげていたのです。
数に劣る島津が、この包囲網を破るには、奇襲しかありません。
かくして天正十五年(1587年)4月17日、島津義弘(義久の弟)率いる一軍が、根白坂に布陣する豊臣勢に夜討ちをかけました。
本来なら、油断していた兵士が、突然の奇襲に驚き、総崩れとなる・・・ところなのでしょうが、もはや、数々の激戦をこなしてきた豊臣勢は、数だけではなく、そのすべてにおいて島津勢を圧倒していたのです。
彼らが敷いたのは、包囲網だけではなく、情報網も・・・この義弘の奇襲は、事前に豊臣の知るところとなっていて、むしろ、彼らが待ち構えているところへ突入するかたちになってしまった奇襲軍だったのです(3月25日参照>>)。
そうなったら、ひとたまりもなく、島津勢は大打撃を受けてしまいました。
この時、慌てふためく島津勢に対して、豊臣勢がいかに冷静で余裕があったかのエピソードが『菅氏世譜(かんしせいふ)』という文書に語られています。
戦いも終わりを告げようとする頃、1人の逃げ遅れた島津の足軽を発見した黒田配下の一隊は、われ先にその者を討ち取ろうとしましたが、その中の菅正利(かんまさとし)なる人物が、「あれは味方だ!討ち取るな!」と言った事で、皆、追撃をやめ、その足軽も、そのまま姿を消しました。
しかし、戦いが終ってから、やはり、あの足軽は敵であった事がわかり、皆が「アイツを逃したのはお前のせいだ」と言って正利を責めたのですが、その時、正利は・・・
「あの足軽を討ち取るのが一番な事は確かやけど、足軽のような身分の低い者を討ち取ったところで戦況が変わるわけやあれへん・・・けど、あれ以上追い込んで、もし、窮鼠猫を噛むで、あの足軽が向かってきたら、あの鉄砲で何人かは撃たれてたかも知れんやろ?
敵1人のために味方数人の損害が出たらアカンと思て、皆を止めたんや」
それを聞いて、皆、彼の冷静な判断に感心したという事です。
結局、この高城・根白坂の戦いで、もはや抵抗しがたい事を悟った総大将・島津義久は、薩摩に戻り、泰平寺にて剃髪し、秀吉に降伏の申し入れをします。
一方、援軍の見込みもなくなった高城でしたが、さすがは勇将の誉れ高き有信・・・その後も、しばらく抵抗を続け、豊臣の再三の降伏勧告にも屈せずにいましたが、ついに義久がじきじきに開城命令を出すに至って、やっと有信も降伏を決意したのでした。
こうして、九州の雄・島津を配下とした秀吉・・・この後は、関東の北条と、東北が残るのみとなりました。
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