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2009年4月 6日 (月)

板垣死すとも自由は死せず~カッコよすぎの板垣退助

 

明治十五年(1882年)4月6日、自由党板垣退助が、遊説先の岐阜県にて、暴漢に襲われ負傷しました。

・・・・・・・・・

土佐(高知県)出身の板垣退助・・・幕末の戊辰戦争では、鳥羽伏見の勝利の後、二手に分かれて江戸を目指した官軍・・・西郷隆盛率いる東海道・東征軍の別働隊として、板垣は、東山道東征軍を率いて東へ向かい新撰組を再編制した甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)勝沼戦争(3月6日参照>>)で破っています。

Itagakitaisuke700a ・・・とは、言え、やはり板垣退助と言えば、あの自由民権運動の中心人物として超有名なおかた・・・今は亡き(あるかも)百円札の顔でもあった人です。

上記のように官軍の参謀として戦い、明治新政府でも重要なポストにいた板垣でしたが、やがて明治六年(1873年)10月、例の明治六年の政変(10月24日参照>>)=征韓論のゴタゴタで、西郷や後藤象二郎江藤新平らとともに政界を去る事になります。

故郷・土佐に帰った板垣は、旧友らとともに、庶民の自由や参政権を求める自由民権運動のための結社・立志社を立ち上げますが、最初の頃の立志社は、自由民権運動とはほど遠い不平士族の集まりでした。

ともに政界を去った西郷や江藤の周辺がそうであったように、当時は、四民平等の名の下、明治維新によって、その特権や職場を奪われた元武士たちの不満が爆発寸前にあった頃で、板垣も、旧土佐藩の士族たちに声をかけた以上、そこには、自由民権うんぬんよりも、「とにかく、新政府を倒せ!」という士族たちばかりが集まってくるのはしかたのないところです。

そんな士族の不満は、早くも、翌・明治七年(1874年)2月に、江藤をリーダーとする佐賀の乱(2月16日参照>>)として爆発し、明治九年(1876年)には、九州神風連の乱(10月24日参照>>)秋月の乱(10月27日参照>>)山口県萩の乱(10月28日参照>>)と立て続けに勃発・・・やがて、明治十年(1877年)1月の士族最大の反乱・西南戦争(1月30日参照>>)へと突入しますが、いずれも鎮圧され、江藤も西郷も死に行く中、もはや武士の時代ではない事を、誰しもが悟る事となります。

この間、立志社でも、「ともに戦うべき」との声が出るも、結局は挙兵する事はありませんでしたが、上記の通り、これらの反乱の鎮圧で士族が押さえ込まれた反動で、自由民権運動の中心は、農民たちへと移っていったのです。

そうです。
新政府に不満があるのは、士族だけではありません。

平等の名の下に士族は武士としての特権を奪われましたが、これで平等になるはずの農民たちの生活は、以前、江戸時代と変わらないものでした。

農民の中には、豪農と呼ばれる裕福な農民もいましたが、現時点では、いくらお金があっても、いくら勉強しても、農民が政治に関わる事はできませんが、自由民権運動の旗印は、自由と参政権・・・国会を開いて民主的な政治を行う事ですから、彼らが飛びつかないはずがありません。

各地で集会が行われるにつれ、それは一般農民にまで広まり、全国的な運動へと発展します。

しだいに自由民権運動が高まる中、明治十四年(1881年)10月に北海道開拓事業の汚職事件が発覚し、政府への不満が頂点となった時、民衆の声に推されて、政府は、しかたなく10年後に国会を開く事を公約として掲げ、その場を収めます(明治十四年の政変)(10月11日参照>>)

政府にとっては、その場を納めるための苦肉の策で、とりあえず約束だけしておいて、10年間の間に、どうにかウヤムヤにしてしまうつもりであったようですが、そうは板垣が卸しません。

わずか、1週間後の10月18日、10年後の国会開催に向けて、板垣は自由党を結党・・・その翌年・明治十五年(1882年)3月14日には、先の明治十四年の政変で失脚していた大隈重信も、立憲改新党を結党する事を明らかにします(10月18日参照>>)

もちろん、こうなったら政府も負けてはいられません・・・東京日日新聞・社長の福地源一郎(桜痴)らが、現政府を支持する立憲帝政党を結党し、4月4日には初めての機関紙・大東日報を創刊します。

そんなこんなの明治十五年(1882年)4月6日、当然のごとく、自由党の支持基盤を強固にすべく、3月下旬から東海道を下りながらの全国各地への遊説旅行を続けていた板垣は、この日、岐阜金華山のふもとにある神道中教院(ちゅうきょういん)で開かれた自由党の懇親会に参加・・・運動の中心人物を目の当たりに、狂喜乱舞する出席者相手に、約2時間の演説を終えたばかりでした。

2~3日前から体調を崩し、ちょっと熱っぽかった板垣は、演説を終えると、まだしばらくは続く懇親会の会場を後に、旅館へ向かおうと会場の玄関を出た・・・その瞬間!

彼を一目見ようと、玄関わきに群がる群集の中から、1人の男が飛び出し「国賊!」と叫びながら、短刀にて板垣の胸を一突き!

しかし、彼は元武士ですから、もともと武道の心得があり、しかも、竹内流・小具足組打術という素手の戦いもマスターしていましたから、とっさに相手の手首を取りますが、タイミングが悪く、逆に押されて刃先はさらに奥へ・・・

身をひねって急所を避けた板垣でしたが、男はなおも刃物を振りかざし・・・それを手でかわす板垣の両手は、みるみるうちに真っ赤に染まり、「もはやこれまで!」という時、騒ぎに気づいた同志の内藤魯一(ろいち)が、男の後ろから近づき、相手の首を持って仰向けに倒しました。

続いてやって来た大勢の者が、次々と男に飛びかかり、全員で覆いかぶさって、なんとか取り押さえました。

血まみれになりながらも、おもむろに取り押さえられた男に近づいた板垣は、男に向かいあの名セリフを一言・・・「板垣死すとも自由は死せず」

・・・と『自由党史』は、あくまでカッコよく・・・

まぁ、当然と言えば当然です。
自分とこの代表をカッコよく書かないはずまありませんから・・・。

でも、皆さんお察しの通り・・・こんなヤバイ状況で、こんな名セリフを吐けるワケがない・・・(と思う)。

彼自身の回顧録には、実は、「驚きで声も出なかった」と記されているそうなので、これは、板垣自身が「カッコよく書き残してくれ」と言ったわけではなく、やはり、『自由党史』での党の宣伝効果を狙っての記述という事になりそうです。

この事件を報道する『東京日日新聞』では、あまりの出血のひどさに、周囲の者が、「もう助からない」と思い込んで泣き叫んでいた時、「諸君嘆ずるなかれ、板垣退助死するとも日本の自由は滅せざるなり」と言った・・・と、「板垣死すとも・・・」と、同じような意味の事を、板垣自身が、犯人にではなく仲間に言ったという事になっているそうです。

また、別の新聞記者の話として、あのセリフは板垣を助けにきた内藤が言った言葉であったものの、「板垣が言った事にしたほうが、カッコイイので、そのようにしといてね」内藤自身が頼んだなんて話も残っているそうです。

ただ、いずれにしても、板垣を含む、そこにた誰かが、「板垣死すとも・・・」と同じような意味の言葉を言った事は確かで、そこにいた板垣の姿も、もう死ぬ寸前に見えた事も確か・・・

このニュースがマスコミによって報道され、全国の自由民権派の仲間たちに伝わるうちに、その士気はあがり、より板垣がカッコよく伝えられてしまったようで、最初のニュースに尾ひれをつけた人々も、決して悪気はなかったようです。

なんせ、この事件は、その直後から、「板垣死すとも・・・」の名ゼリフのとこで、最高潮の拍手喝さいを浴びるお芝居としても上演されたそうですから・・・。

ところで、最初のうちは、「自由党を敵視する政府によって雇われた者ではないか?」と噂されたこの犯人ですが・・・実は、愛知県の士族出身の小学校教師で、相原直という28歳の青年でありました。

彼は、政府や組織とは一切関係ない青年で、ただ、東京日日新聞の熱狂的な愛読者であったというだけでした。

先に書いた通り、東京日日新聞の社長・福地は、政府指示の立憲帝政党を立ち上げた人・・・つまり、メチャメチャ保守的な新聞を読んでいるうちに、革新的な板垣の事を憎いと思って強攻におよんだ単独犯だったのです。

結局、無期懲役の判決を言渡され、北海道集治監に送られ、北海道開拓の強制労働に従事させられた犯人・相原でしたが、実は、彼と板垣には、まだ後日談が残っています。

明治のこの時期に小学校教師をしていたというだけあって、彼は、獄中ではたいへん真面目な模範囚であったようで、無期とはされながらも、明治二十二年(1899年)、大日本帝国憲法発布の恩赦によって罪を許され、出獄とあいなったのです。

そんな彼が、出所後、真っ先に向かったのは、かの板垣のところ・・・。

「すわ!もう一度!」
と、思いきや、なんと、謝罪に訪れたのだとか・・・

それを知った板垣は、快く彼に会い・・・
「君も国の未来を思っての事やから、もう、怒ってないって。
ただ、襲う前に、もうちょっと、僕の事、知ってて欲しかったなぁ。
そしたら、国賊やない事もわかったやろに・・・。
これからは、僕の事、よう見てな、ほんで、この先、もし、やっぱおかしいわって思たら、もっかい襲いに来たらええがな

と言ったのだそうな。

板垣退助・・・カッコイイ~ヽ(*≧ε≦*)φ惚れてまうやろ~・・・て、まさか、これも別人が言うたんやないやろなww

ところで、この青年・・・板垣との面会の後、「今後は、北海道の開拓に一生を捧げます」と言って、北海道行きの汽船に乗ったそうですが、なぜか、遠州灘のあたりで、姿を消したのだとか・・・

単に、船から落ちたとか・・・
板垣に会って、その人物の偉大さに感銘するとともに、逆に襲った事への後悔の念にさらされ、飛び込み自殺したとか・・・
金品を奪われた末、海に投げ込まれたとか・・・
実は、本当に政府の関係者であったため消されたとか・・・

・・・と、様々な噂が流れ、結局、この事件は、板垣のさわやかな名ゼリフとはうらはらに、後味の悪い不可解な結末となってしまいました。
 

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コメント

はじめまして。今日って教科書にも出てくる「板垣死すとも自由は死せず」の日だったのかぁ・・・出来過ぎだとは思ってましたが、真相はなんだぁって感じです・・・まぁそんなに死ぬか生きるかの瀬戸際の人間が発する言葉にしたら仰々しいですよね。

投稿: システムトレード | 2009年4月 6日 (月) 07時31分

システムトレードさん、おはようございます。

人間、こういう時って、たいてい「痛~っ!」くらいしか言えないですもんね。

さすがの板垣さんでも、しかたないと思います。

投稿: 茶々 | 2009年4月 6日 (月) 08時19分

板垣さんが今の世の中を見たら、ワシが命がけで訴えてきた、市民参政権はどうなっちまったんだぁ…って悲しむんじゃないですかね。統一選挙を始め各自治体の首長選に議会選挙、その何れもが年々投票率が低下してるってんですから、あの世の板垣さんもきっと、みんな選挙にはちゃんと投票に行かなきゃ駄目だぞぉ!。って怒ってることでしょう。

投稿: マー君 | 2009年4月 8日 (水) 00時06分

マー君さん、こんばんは~

せっかく参政権があるのに投票へ行かない有権者・・・

気合の入った有権者も減る一方ですが、気合のの入った政治家もいなくなったような気がします。

投稿: 茶々 | 2009年4月 8日 (水) 00時50分

「龍馬伝」に板垣が出ないまま終わるのは残念。政治的には坂本龍馬の遺志を継いだと思うんです。明治30年以降は「土佐人」として、数少ない政府長老になる人なんですが。

番組を見ると福山さんふんする龍馬が25歳を過ぎたあたりから、あたかも「自分の死期」を知っている(坂本龍馬当人は知るわけがない)かのように、やたらセカセカ動いてるように見えます。先日もご指摘がありましたが、言動に矛盾があるのは相変わらず…。
同世代の板垣にも一筋のライトを当ててもいいと思うんですよ。

投稿: えびすこ | 2010年8月25日 (水) 09時07分

えびすこさん、こんにちは~

歴史ドラマで、よく陥りがちなパターンですよね。

戦国や幕末など、動乱の時代は、常に死を覚悟しながら生きているという事がありますが、死を覚悟しているのと、死期知っているのとは、当然、違うわけです。

けれど、そこの描き方が、死を覚悟しながら生きていない現代人には難しいのでしょうね。

板垣さんにも出ていただきたいですが…

投稿: 茶々 | 2010年8月25日 (水) 11時35分

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