尊王と敬幕と…攘夷の魁・天狗党の模索
元治元年(1864年)4月10日、天狗党のメンバーが日光東照宮に参拝し、全国に向けて声明を発表しました。
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さて、元治元年(1864年)3月27日、藤田小四郎の呼びかけによって結成された天狗党(3月27日参照>>)・・・。
その目標は倒幕ではなく、尊王攘夷を決行するよう幕府に求める・・・あくまで、幕府の方針転換を願うための筑波山での挙兵でした。
しかし、筑波山では何かと不便・・・という事で、軍儀の結果、日光に立て籠もる事になります。
なんせ、日光は東照大権現=徳川家康を神とする幕府の聖地ですから、幕府側もおいそれと攻撃できるものでもなく、プラス、仲間も集まりやすいであろうとの算段でした。
4月3日に筑波山をあとにした集団は、一旦、宇都宮に入ります。
・・・というのも、この宇都宮藩の中老・県勇記(あがたゆうき)が、根っからの尊王派なので、彼に天狗党へのお誘いをかけるためだったのですが、残念ながら、あっさりと断られてしまいます。
しかたなく、予定通り東照宮に籠るため、日光に向かう一行でしたが、ここも、ピッシリと門を閉じ、強引に占拠しようと試めば、一戦交えんばかりの反発を喰らってしまいました。
やむなく、東照宮占拠を諦めた天狗党は、元治元年(1864年)4月10日、メンバー全員が順々に東照宮に参拝した後、その場で、全国の同志に決起を呼びかける挙兵声明を発表したのです。
東照宮に参拝した事、その参拝で士気があがった事、そして、その場で声明を発表した事でもわかるように、彼らは、幕府に刃向かうつもりは一切なく、その声明には、敬幕を、尊王とともに重視している事も盛り込まれていたと言います。
やがて、彼らは栃木の太平山に本拠を構え、4月半ばから1ヶ月半ほど滞陣し、この地で同志を募りました。
その呼びかけに答えて、全国から集まる同志たち・・・ここでの人数は約400名に膨れ上がります。
その中心は、やはり、大将となった田丸稲之衛門(いなのえもん)や小四郎のような武士でしたが、中には農民も多く・・・いえ、むしろ、数字的には半分以上が農民出身者で占められていたのです。
・・・というのも、水戸藩の先代の徳川斉昭が、かなり革新的な人で、いち早く天保の改革を推しすすめた際、水戸学を学ぶための弘道館を設置しただけでなく、その弘道館で勉学を学んだ者たちが教師となって、さらに下層の武士や農民・町民に学問を教える郷校(ごうこう)なる物を設置し、誰もが教育を受けられるようになっていて、農民たちにも、尊王攘夷思想なるものが、どのような物であるかが理解されていたからなのです。
しかも、優秀な者は、その身分に関わらず能力による人材登用の道も開かれていて、たとえ農民であっても、その才能次第で、武士並みの待遇で重く取り立ててもらえる場合もあり、後進の育成政策がかなり充実していたのです。
そこに、あのペリーの黒船来航騒ぎとなり、農民たちの心にも火がついた!・・・今まで、ただ年貢を納めるための単調な人生が、努力次第では上へ上へと上りつめる事だってできるかも知れないわけですから、多くの農民たちが、その革新的な尊王攘夷思想に、自らの人生を変える事を夢見たとしてもおかしくはないわけです。
あの新撰組が、もともと武士だった者より、農民出身の者のほうが、より武士らしく生きたいと模索したように、彼らも、むしろ農民出身者のほうこそが、その熱意は高く、だからこそ、この先、無謀とも思える幕府相手の戦いに挑んでいく天狗党に、最後までつき従ったのかも知れません。
しかし、尊王攘夷思想を理想に、幕府の改革を目指す天狗党ですが、徐々に、その理想から外れた道へと歩む出来事も起こってきます。
それは、軍資金です。
やはり、挙兵し、幕府を相手に戦う・・・さらに、上記のように、その同志が増えれば増えるほど軍資金は必要となりますが、理想だけでは飯が食えない事は明らか・・・。
滞陣や、移動を繰り返す中、移動先の豪商や豪農などから軍資金を調達していた彼らですが、人数が増えるにつれ、その調達が、より強引に、より強制的になっていってしまうわけです。
そして、ちょうど、この太平山での滞陣中の頃、事件は起こります。
水戸藩医の家に生まれ、小四郎たちとは同門で勉学を学び、その優秀さの誉れも高かった田中愿蔵(げんぞう)・・・彼は、筑波山の最初の決起の際からの天狗党在籍者で、その後も200余名の田中隊を率いていましたが、彼らが栃木町で軍資金の調達をした際に、断られたはらいせに住民を殺害し、さらに放火して、町の大半を灰にしてしまう大火事を引き起こしてしまったのです。
さらに、真鍋村・中貫村(茨城県土浦)でも強奪や放火をくりかえし、周辺住民からは大変恐れられる存在となります。
結局、これらの事がきっかけで、天狗党を除名される愿蔵ですが、彼らの態度が、幕府や水戸藩の中の保守派の者たちへ、天狗党を弾圧する大義名分を与えてしまった事は確かのようです。
水戸藩では、保守派の市川三左衛門を中心に、天狗党に対抗する諸生(しょせい)党を結成し、「天狗党討伐」の建言書を提出する事になります。
一方、太平山に未だ滞陣する天狗党の本隊に、活動中止を説得に来る者もいました。
大将の稲之衛門の兄で水戸藩・目付け山国兵部(やまくにひょうぶ)・・・もちろん、水戸藩の命によって、彼らを説得しに来たわけですが、以前から書いています通り、もともとは、尊王攘夷は、亡き先代・斉昭の遺志・・・ペリーのゴリ押しに屈して開国を約束してしまった幕府こそ方針転換をすべきだというのは、多くの藩士の思うところで、以前から敵対している保守派の連中以外の藩士の中には、天狗党を正義とする考えもたくさんあったのです。
結局、この時も、天狗党の彼らと充分に話し合い、その真意を理解した兄・兵部は・・・
「やるなら、筑波山へ戻ってやれ!水戸藩の元で天下に義を唱えろ!」
そう、ここ太平山は宇都宮藩・圏内・・・やるなら、水戸藩の地で!・・・と、むしろ、応援するようなコメントを残して去っていきました。
この進言を聞き入れた彼らは、6月の初めには、再び筑波へと戻り、そこを拠点とし、いよいよ天狗党討伐をあらわにした、かの諸生党+幕府との全面衝突を迎える事になるのですが、
そのお話は、やはり激戦が行われる7月9日【下妻夜襲】へどうぞ>>。
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コメント
茶々さんの記事を読む度に、益々ドラマ化してほしいなぁって気持ちが強くなります。幕末の佐幕派と尊皇派との戦いは攘夷推進派や開国推進派の動きと複雑に絡まり合ってて、歴史好きの僕でも少々苦手な部分です。ただ、この天狗党について見れば…ドラマにすれば白虎隊や新撰組に負けるとも劣らないだけのクォリティーの高いドラマが期待できそうなんで、幕末苦手な僕でも楽しく見られるんじゃないかと思います。
投稿: マー君 | 2009年4月11日 (土) 03時23分
マー君さん、こんにちは~
そうですね~
幕末と言えば、幕府と散り行く白虎隊や新撰組が、日本人の判官びいきを刺激して、より美しく描かれますが、維新の魁でありながら、未だ時が熟していなかったために散っていった彼らも、かなり判官びいきを刺激される素材だと思います。
投稿: 茶々 | 2009年4月11日 (土) 09時38分