池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙
天正十二年(1584年)4月11日・・・今日は、この日づけにまつわるエピソードを一つ・・・
・‥…━━━☆
上記の日づけで書かれた、かの豊臣秀吉の手紙が現存します。
宛先は養徳院(ようとくいん)という女性・・・。
この養徳院という女性は、その昔、織田信長の乳母をやっていた女性で、信長さん誕生の日のページ(5月12日参照>>)に、その幼い頃のエピソードを書かせていただきましたが、赤ん坊の頃はたいへんなカンシャク持ちで、乳母がおっぱいを与えると、その乳首を噛み切ってしまって、しょっちゅう乳母が交代したというお話・・・。
しかし、若くて美しい一人の乳母だけには、そのカンシャクを起さなかったと・・・その乳母が、若き日の養徳院さんだったと言われています。
そのせいか、信長はことのほか彼女への情が深く、彼女が夫を亡くしてからは、その息子を武将として取り立て、家臣の1人として重用しました。
その息子というのが、池田恒興(つねおき)です。
本能寺で信長が自刃してからの恒興は、秀吉に従い、その後、秀吉と徳川家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの最初の最初に、犬山城を奪取した人物です(3月13日参照>>)。
しかし、その一連の合戦の中の長久手の戦いで、ともに参加していた娘婿の森長可(もりながよし)とともに、討死してしまいます。
その長久手の戦いがあったのは4月9日・・・(2077年4月9日参照>>)
そう、その秀吉の手紙は、その長久手の戦いの2日後にしたためられた物なのです。
「この度は勝入(しょうにゅう・恒興の事)親子の儀、なかなか、申すばかりも御座なく 候」で始まるこの手紙・・・
いつもの私的解釈で恐縮ですが・・・
「あなたの悲しんでおられる姿が目に浮かびます。
我々の軍も、もう、敵のすぐそばまで進軍していたので、彼らの不慮の出来事については、皆、たいへん悲しんでおります。
(恒興の)次男の輝政くんや、三男の長吉くんが無事だったのは、不幸中の幸い・・・悲しみの中の一筋の光です。
今後は、せめて、このお二人を取り立てて、面倒をみて差し上げたいと思います。
あなたの悲しみはたいへんなものでありましょうが、亡き恒興や長可のためにも、残されたお孫さんたちの面倒をみてあげてください。
これからは、今まで恒興の事を見ていたように、息子だと思って、僕の事を見ていただきたいと思います。
困った事があればおっしゃってください。
あなたの息子さんの代わりに、僕がなんでもしますから・・・」
以前、恒興さんとともに討死した森長可さんのページで、小牧の戦いで屈辱の敗戦をしてから、この長久手の戦いに挑む直前に書いたであろう遺言状をご紹介させていただきました(2008年4月9日参照>>)。
その手紙も涙を誘うものでしたが、今日の秀吉の手紙も、かなり泣ける手紙ですね。
戦国・・・合戦・・・と言えば、華々しく活躍する武将や、美しく散っていく武将にばかりスポットが当たりがちですが、勝った者にも、負けた者にも、それぞれの親が兄弟が、そして子供たちがいる事を痛感させられます。
生き馬の目を抜く下克上の戦国・・・ひとたび合戦となれば、明日をも知れぬ命ですから、その時代に生きる女性たちは、おそらく、それなりの覚悟はいつでもできてはいた事でしょうが・・・でも、悲しいものは悲しい・・・
この長久手の戦いの後、最終戦である蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)にも敗れ、一連の小牧長久手の戦いが負け戦となったにも関わらず、その離れ業で、見事に家康を臣下にしてしまった秀吉の事を、「人たらし」(10月17日参照>>)・・・つまり、騙す=ハメるようなやり方で人を攻略すると書かせていただきましたが、悪く考えれば、この手紙も、その人たらしの一つなのかも知れません。
手紙に書いても、そのとおり思ってるかどうかなんて、心の中までは読めませんから・・・
しかし、たとえ、それが、人たらしの天才の八方美人的な発言であったとしても、この時の養徳院さんは、おそらく、この手紙に涙し、ありがたいと思い、その悲しみが多少なりとも癒えた事でしょう。
姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。
この時、すでに70歳を越えていたという養徳院さん・・・夫にも、長男にも、娘婿にも先立たれた彼女は、その後、秀吉よりも長く生き、あの関ヶ原の合戦の後に、次男の輝政が、播磨(兵庫県)姫路52万石の大大名に出世するまでを見届けて、慶長十三年(1608年)・・・94歳で、この世を去ったという事です。
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コメント
今日から聴講生のmomokoです。
深すぎるのでついていけるかどうかわかりません。
信長が乳母の乳首をかみ切ったエピソードは知っていましたが、その乳母がその後どうなったか、代替わりの乳母があったのかなんて知りませんでした。
そして、養徳院さんという乳母さんの存在を今日初めて知りました。
法名に院号がいいですよね。
どなたがつけたのかわかりませんが、なんとなく、信長の徳を養ったという風にも解釈されて。
徳というもの、そして信長に徳があったのかどうか不明ですが、少なくても乳母の乳首をかみ切ったり、父親の焼香場面でお香を投げつけるような部分がなくなり?、濃尾平野一帯から、果ては天下まで一統する人間になったということは凄まじい成長ですもの。
聴講生の私としては、むずかしいことはわかりませんm(__)m
でも、ミーハーの感覚で言えば(それしか持ち合わせていない(^^;))
森長可と言えば、蘭丸のおにいさんですよね。
そして森家と言えば、津山ですよね。
津山も大好きな街です。お城も行きました。
池田家と言えば、姫路城ですよね。
当たり前ですが、お城は何度も(爆)
そして、秀吉と言えば、筆まめ、人たらしの名文家。
やっとついていけたから、やっとのコメントです(^^;)
投稿: momoko | 2009年4月11日 (土) 02時39分
賤ヶ岳の合戦で柴田側から秀吉側に寝返った…前田利家が秀吉政権下で、八十数万石の大大名として、家康に次ぐ地位にあったのに比べたら、長久手の戦いで父や兄を亡くす激戦を繰り広げた池田輝政は三河吉田で十数万石の中堅大名…秀吉亡き後、輝政が家康に近付いていったのも分かる気がします。秀吉が恒興の恩義に報いると言うなら、せめて輝政に五大老並みの家禄と官職を与えてやってれば、仮に家康の娘婿だったとしても、舅の家康を諫めて豊臣家の存続に尽力してくれたのではないかと思えてしまいます。
投稿: マー君 | 2009年4月11日 (土) 03時45分
momokoさん、再びのコメントありがとうございます。
聴講生だなんて・・・
私もまだまだ、日々勉強しながらなので、たまに以前のページを見て恥ずかしくなる事も・・・恥ずかしさと同時に、ちょっとは成長しているのかな?と自分自身を慰めつつの毎日です。
投稿: 茶々 | 2009年4月11日 (土) 09時46分
マー君さん、コメントありがとうございます。
う~ん、やっぱり吉田15万2千石では足りなかったかヾ(;´Д`Aって感じですかね。
まぁ、関ヶ原の場合は、時代の風が家康に吹いている事も、確認済みだっかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年4月11日 (土) 09時51分
次男の輝政が云々て文面が気になりました。輝政は恒興の次男なので養徳院から見たら孫ですね。それと一点チョット疑問なのが、秀吉が手紙を差し出したのが恒興の妻じゃなく母って点です。上司の後家や同朋の後家、家臣の娘や嫁でも美人とみるや見境なく手を出したって噂の絶えない秀吉さん、恒興の母親は流石に老齢で性の対象にはなりえなかったから、手紙で済んでて、恒興の妻なら弱みにつけ込んで側室にナンテ考えで動いてたから、下手に手紙など書いて寧々さんの逆鱗に触れちゃあならんと…手紙が残ってないナンテ言うのは下衆の勘ぐりってモンですかね。そんな秀吉の下心を見透かした輝政が『秀吉の狒々爺めが、よくも母上に色目を使いやがって、父上無き後は母上はワシが守る。』なんて思いを抱いたなんてのは的外れな意見でしょうね。
投稿: マー君 | 2009年4月11日 (土) 18時12分
マー君さん、こんにちは
本文に書いております通り、文面は「私的解釈」ですから要約し現代語にしてあります。
もとの文面は
「三左衛門、藤三郎の儀・・・」
と通称で書かれていますので、そのままではわかり難いと変えさせていただき、輝政が恒興の息子なのは、皆様ご存知かと思い省略させていただきましたが、「輝政(恒興の次男)と長吉(恒興の三男)」としたほうがわかりやすかったでしょうか。
一応、誤解のないように(恒興の)とさせていただきましたが・・・。
投稿: 茶々 | 2009年4月11日 (土) 18時37分
こんにちは。カムバッカーです。
こちらも読ませていただきました。秀吉は人が亡くなるということの重さを他の戦国大名より分かっているのかなと思いました。
だから、逆に自分の息子に対してあんなふうになってしまったのでしょうかね。
投稿: カムバッカー | 2015年4月19日 (日) 15時01分
カムバッカーさん、こんばんは~
そうですね。
おっしゃる通りに秀吉もですが、一般的にも、戦後のフォローは殿と呼ばれる戦国武将の必須だと思います。
「武功を挙げようとして討死したら、殿様が残った家族を手厚く援助してくれる」…それが無いと、命かけて戦う気にはなれませんからね~
その代わり、裏切った時も怖いですが…(゚ー゚;
投稿: 茶々 | 2015年4月20日 (月) 03時58分