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2009年4月19日 (日)

道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状

 

弘治二年(1556年)4月19日、長良川を挟んで、嫡男・斉藤義龍の軍と対峙する斉藤道三が、息子・日饒に手紙を出しました。

・・・・・・・

弘治二年(1556年)4月19日付けで書かれたこの手紙・・・『道三の遺言状』とも、『信長への国譲り状』とも言われる書状ですが、現存する物は計・3通あります。

・・・とは、言うものの、一つは『江濃記(こうのうき)という史料の中に、その内容とともに、「道三の遺言状」として紹介されているもので、手紙そのものというのではありません。

残る2通は、大阪城天守閣が所蔵するものと、京都・妙覚寺が所蔵するものですが・・・微妙に文章は違っているものの、どちらも内容は、ほとんど同じ。

同じ内容の、同じ人宛ての手紙を、道三が2通書くとは思えないので、どちらかが「写し」、あるいは、両方とも「写し」の可能性もありで、中には、「写し」ではなく「偽作」との見解を持っておられる専門家のかたもおられるようですが、いずれにしても、「美濃(岐阜県)を信長に・・・」という約束のようなものが、道三と信長の間にあった事は事実であろうというのが、現在のところの定説となっているようです。

Dousanyuigon1000
斉藤道三国譲り状(妙覚寺蔵)

その手紙の内容を要約させていただきますと・・・

「今回、わざわざ、この手紙を書いたんは・・・
美濃の国の大桑
(おおが)で、“自分が死んだ後は、美濃を好きにしてえぇから”という譲り状を信長に渡したよって、お前は京都の妙覚寺に行くようにって事を、言うておこうと思てな。

子供のうち、1人が出家したら、家族全員が極楽に行けるらしいやんか。
この手紙を書きながらも、涙が止まらへんねんけど、ここにきて、すべてのこの世の苦しみから逃れて、仏さんの恩恵を得る事ができると思たら、うれしい限りやな。

明日の合戦で、俺はきっと死ぬやろうけど、終(つい)の住みかはどこになるんやろ」

・・・と、こんな感じですが、文中に「妙覚寺に行きなさい」と書かれていて、実際に、道三の息子の1人が、妙覚寺に入って妙覚寺19世となっているので、この手紙は、その19世となった日饒(にちじょう)上人に宛てたものであろうという事になってます。

文中には「明日の合戦」というのも出てきますが、以前書かせていただいたように、翌日の4月20日は、道三が、息子・義龍と刃を交えた長良川の戦い(4月20日参照>>)・・・

18日に、道三は、鶴山という場所に陣を構え、20日になって、義龍が長良川の南岸に軍を動かした事で、道三も、その北岸へ軍を移動させたと言いますので、手紙の日づけを信じるならば、まさに、その前日にしたためられた事になります。

道三の軍は約2千・・・対する義龍の軍は約1万7千。
確かに、死を覚悟せねばならない数であった事でしょう。

合戦の勝敗はその日のうちに決し、壊滅状態となった中、道三は壮絶な最期を遂げ、討死した道三の首は、鼻を削ぎ落とされたうえ、長良川の河原にさらされたと言います。

前年の10月22日の、長男・義龍による次男・三男の殺害と稲葉山城の占拠にはじまった一連の戦いは、義龍の裏切り(10月22日参照>>)・・・というよりは、道三体制を崩壊させる一門あげてのクーデター色の強いものであったようで、長良川の戦いに挑む道三が「義龍の器量を見誤った」と言ったそうですが、「見誤った」というよりは、後世の人が、一介の油売りから、身を起す道三の出世物語のせいで、あたかも道三にスーパーヒーローのようなイメージを持ってしまった(現在は親子2代の出来事というのが定説)といった感じで、多くの家臣が義龍側についている現状から考えても、実際には、道三より義龍のほうが、武将としては長けていたという事でしょう。

道三にとって、義龍は、実子ではなかった可能性もあるとは言え、主君から国を乗っ取って一国一城のあるじとなった道三も、最後には、息子に国を盗られたという事で、娘婿の信長に、美濃の将来を託したくなるのもわからないではありません。

ところで、その託された信長・・・道三が討ち取られたという事は、救援要請に答える事ができなかったという事になりますが、彼も、その救援要請をまったく無視したわけではなく、すでに軍を編制し、木曽川を越えて、戦場まで約15kmほどの大良(おおら)という場所に陣を構えていました。

ただ、それ以上深く美濃へ入る事は、やはり、できなかったのでしょう。

なんせ、この時の信長は、未だ尾張を統一する事すらできていませんから、同族の岩倉織田家が常にスキをうかがっている状態でしたし、何より、一家の中に、弟・信行派という反対勢力が存在する(11月2日参照>>)状況でしたから、美濃と尾張の両方を見据える事ができる位置にまでしか、軍を進められない事は、いたしかたないところであります。

結局、この長良川の合戦の時は、道三を討ち取った義龍軍が、その勢いのまま信長のところまでやって来て、陣を襲撃しはじめ、未だ、道三の死を知らなかった信長軍が、それに応戦するというかたちで合戦がはじまるのですが、やや、織田軍劣勢になったところで、すでに道三が敗死しているとの知らせが届いたうえ、岩倉織田軍が、信長の居城である清洲城に攻め込んだとの情報も入り、信長は自ら殿(しんがり)を務めて軍を退却させという事です。

後に、この譲り状を大義名分に掲げて、美濃に攻め入る信長ですが、道三に託された美濃を落すのには、この先、11年の歳月を要する事になります(8月15日参照>>)

それも、名将だと思われる義龍が当主の間には、攻め落とす事ができず、彼が35歳という若さで亡くなってくれる事で、信長は美濃を攻め落とす事ができたという気もします。

「美濃を譲る」という約束事が、道三と信長の間に交わされていたであろう、そして、今回ご紹介した手紙の内容が本物であろうという根拠としては、上記の美濃を攻める大義名分として使われた事だけでなく、後に、信長が上洛してから、ことのほか妙覚寺を重用するという事でもわかるような気がします。

ほら、あの本能寺の変の時、信長が宿泊していたのは、もちろん本能寺ですが、跡取り息子の信忠が宿泊していたのは妙覚寺(6月2日参照>>)・・・何となく、道三と信長の絆が見えるような気がします。
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コメント

いつも勉強させていただいているのだけど、今回は非常に勉強になりました。
道三側から歴史をみることは皆無だったし、小説(もちろん、それは小説でしかないけど)も国盗り物語を読んだけど、それは道三が主役で描かれ、、、

義龍の能力について書かれたものを読んでいなかったから、初めて兵力の差とか知って、もうちょっと勉強したくなりました。

私なんか日の当たったところの影の部分を真実をって、それに滅ぼされたところを見ることが少ない。
滅ぼされたのでも自分に関係あったり、悲劇として有名どころばかりだもん。

茶々さんのように今日は何の日?ということにスポットを当てるとこういうこともわかっていくから、いろいろ、知ることもできますね。
勉強させていただきます。

投稿: momoko | 2009年4月19日 (日) 12時38分

momokoさん、こんにちは~

以前、義龍のクーデターの事を書いた10月22日にも、チョコッと書かせていただきましたが、家中の内紛で、これだけの兵力差が出るという事は、やはり、道三よりも義龍のほうが家臣からの信頼が篤かったからだと思っています。

ここだけを見れば、あの武田信玄が父を追い落としたのと、同じケースのように思いますが、信玄の場合は信玄が主役で描かれ、義龍の場合は、父・道三が主役で描かれるので、人物に抱くイメージが違うのだと思うのです。

投稿: 茶々 | 2009年4月19日 (日) 16時00分

然し義龍さん…中々どうして、道三さんが思ってたより随分と鋭かったようですなぁ。それにしても兵力差の大きさには驚きます。これも義龍さんが早々に弟達を討ち取ったからじゃないですかね。弟達付きの家臣たちは主君の仇を討つ事より、斎藤の家名存続に重きを置いて、老い先短い道三ではなく、若くて土岐氏の血脈を受け継いでる可能性の高い、義龍に与力したんじゃないでしょうかね。僕が思うに義龍の方が道三より人望があったと言うより、出来が悪かろうが歴とした跡取りがありながら、次男坊・三男坊を溺愛し、長男を廃嫡しようとし、あまつさえ娘婿に領地を進呈しようとした道三に愛想を尽かした家臣が多く居たってことなんじゃないですかね。

投稿: マー君 | 2009年4月19日 (日) 23時06分

マー君さん、こんばんは~

「国盗り物語」というすばらしい小説のおかげで、現在は、道三のほうが断然人気が高いですが、「信長公記」をはじめとする史料のほとんどが、義龍の名将ぶりを伝えているところをみると、やっぱり、義龍のほうが家臣から慕われていたのでは?と思ってしまいますね。

主君を追いやっての国盗りですから、未だ主君の家臣もたくさんいたでしょうしね。

投稿: 茶々 | 2009年4月19日 (日) 23時22分

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