幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争
慶応四年(明治元年・1868年)5月15日、上野寛永寺に陣取る彰義隊へ、政府軍が総攻撃を開始・・・世に言う『上野戦争』がありました。
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鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)の後、新政府に恭順な態度を示し、上野・寛永寺にて謹慎生活を送る第15代・江戸幕府将軍の徳川慶喜(よしのぶ)・・・。
その警固のためと称し結成された彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)は、途中、幕府から、江戸の町の治安維持を任されたりもしましたが、4月11日に江戸城が明け渡され、5月1日には、江戸の治安維持の役目が幕府から新政府大総督府へと移る事が決定され、幕府は寛永寺の彰義隊に解散命令を出すのですが、なおも、彼らは上野に居座り続けます。
ついに、新政府首脳陣は、彰義隊の討伐を決定し、兵法に通じた大村益次郎を江戸へ派遣・・・度重なる軍儀にて、5月15日の上野総攻撃が決定・・・というところまで、すでに、書かせていただきました(4月4日参照>>)。
かくして慶応四年(明治元年・1868年)5月15日未明、雨の降りしきる中、新政府軍は江戸城を出陣・・・益次郎の作戦通り、上野の山を取り囲むように陣取ります。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
最も重要と思われる黒門の前には、西郷隆盛が指揮する薩摩藩に加え、鳥取・熊本の3藩。
不忍池(しのばずのいけ)を挟んだ本郷台に建つ加賀藩邸には佐賀・岡山・津の3藩。
北西に位置する団子坂には長州・大村・佐土原の3藩・・・さらに、長州藩の別働隊を用意し、その他の諸藩には江戸市中&周辺の警備にあたらせました。
・・・と、この配置を見てみると、あきらかに北東が薄い・・・実は、これも益次郎の作戦で、すべて囲んでしまわず、ある程度バレバレの逃げ道を作っておいて、敵に決死の突撃をさせないための策でした。
人間、窮地に陥ると火事場の馬鹿力を発揮してしまいますし、益次郎にとって、彰義隊の隊士一人一人を根絶やしにする必要はなく、彰義隊という団体が機能しなくなれば良いわけですから、今日の戦いに関しては、何よりも、すみやかに勝敗を決して解散してくれればそれでいいわけです。
やがて夜が白々と明け、未だ静かな上野の山を見回る彰義隊・頭並(かしらなみ)の天野八郎・・・彼が根岸のあたりにいた頃、突然響き渡る砲撃の音・・・慌てて、黒門まで駆けつけると、黒門より前に出張るように造った畳や俵の防御壁に、身を隠しながら小銃を撃ちかけている彰義隊の姿。
しかし、薩摩藩の容赦ない砲撃に、そのにわか作りの防御壁はすぐに破られ、黒門の内側に撤退して、今度はそこの土塁や胸壁に身を隠しながら銃撃し、後方の山王台からは大砲が援護・・・さすがに、こちらはにわか作りでないぶん、薩摩藩もなかなか破れません。
一方の団子坂のほうでも戦闘が開始され、谷中門をめざして進む長州藩でしたが、雨のため、途中にある藍染川の水かさが増し、なかなかその先へ進めません。
しかも、ここでは、彰義隊隊士が、民家や寺に潜みながらのゲリラ的攻撃を加えるうえ、新政府軍が用意した最新鋭のスナイドル銃の使い方がわからず、宝のもちぐされとなる始末・・・
池に面した穴稲荷門へも、新政府軍の岡山・柳川などの藩が、小舟で池を渡って攻撃を仕掛けますが、なんせ、池の位置が低いですから、逆に、岸の上から狙い撃ちされてしまいます。
しかし、この一進一退の様相が続いたのは、開始から2~3時間程度・・・それは、黒門での戦いに進展がない事で考えた鳥取藩と熊本藩の作戦変更にありました。
鳥取藩と熊本藩は黒門での攻撃を薩摩藩に任せ、自らは迂回して寛永寺の東側に回りこみ、建物の2階から銃撃・・・思わぬ方向からの攻撃に、彰義隊は、少し、足並みが乱れます。
さらに、加賀藩邸に設置されていた佐賀藩の誇るアームストロング砲での攻撃が、ここにきて本領を発揮し始めます。
以前、江藤新平さんのご命日のページでチラッと触れましたが(4月13日参照>>)、この佐賀藩が持ってる最新鋭の武器は、とにかくスゴかったんです。
そのアームストロング砲が、寛永寺の吉祥閣(きっしょうかく)という象徴的な建物に命中し、炎に包まれて燃え上がると、さすがに周囲の者たちには動揺が走ります。
ここで、西郷の突撃許可により、薩摩藩が黒門へ殺到すると同時に、グッドタイミングで、長州の別働隊が動きます。
実は、この別働隊・・・団子坂から谷中門を目指していた長州藩の部隊とは、別に組織されていた部隊で、見た目はまるっきり会津藩の格好をした部隊・・・「会津から来た援軍です」と、堂々と新黒門から進入し、奥に入ったところで、いきなり会津の旗を降ろして、長州の旗を掲げ、鉄砲で攻撃をしたのだとか・・・
さすがに、これには彰義隊も大混乱し、アッと言う間に薩摩藩に黒門を突破され、敗走する兵で、あたりはさらに混乱状態となります。
それでも、中央に位置する根本中堂付近で、最後の決戦をしようと、わずかの兵が残っていたのですが、それも、この場を指揮する大久保忠宣(ただのぶ)が銃弾に倒れるに至って、「もはやこれまで!」と、歴代将軍のお墓の前で割腹する者や、燃え盛る堂搭にその身を投じる者が続出します。
もちろん、益次郎の考えた通り、多くの者は北東の根岸方面へと敗走していきました。
その中には、かの天野八郎も・・・。
江戸城西の丸にて、「夕方には始末がつきますよ」と語っていた益次郎のもとに、戦勝の知らせが届いたのは、まさに、夕方5時頃だったと言います。
こうして、上野戦争は、わずか一日で決着がつく事になりました。
旧幕臣で結成した彰義隊が、散り行く者の最後の意地を見せた江戸の死守・・・が、しかし、これで彰義隊が終ったわけではありませんでした。
敗走した者の中には、後にあの榎本武揚とともに北上する者、そして、もう一人・・・そうです、途中の方針転換で、袂を分かったとは言え、彰義隊結成当時は、頭取を務めた男・渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)がいます。
新たに、振武軍(しんぶぐん)を結成し、旧友の窮地に加勢しようと動いていた彼のもとへと上野から命からがら逃げて来た者たち・・・
次ぎに、新政府軍は、彼ら振武軍を相手にする事になるのですが、飯能(はんのう)戦争と呼ばれるそのお話は、5月23日のページでどうぞ>>。
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コメント
こんにちは。
幕末はいろいろな人材が現れたけれど、大村さんは中でも極端な人だと思います。まさに天才。でも付き合いにくそうだな~(゚ー゚;
彰義隊の見せた意地、諦めきれない気持ちがわかるような気がします。時代の変わり目に居ながら、何もできないなんて悔しいですもの。
ところで、長州の別働隊の作戦、確か、木曽義仲の横手河原の戦いにあったような・・・
投稿: おきよ | 2009年5月15日 (金) 13時45分
おきよさん、こんばんは~
>長州の別働隊の作戦、確か、木曽義仲の・・・
そうです、そうです。
木曽義仲の作戦の同じですね~。
これに関しては、明治政府は否定しているので、公式な記録は残っていないようですが、当時の瓦版に「官軍のほうが騙まし討ちのような姑息な手段を使った」的な事が書かれ、慌てて政府が、その瓦版を回収して発売禁止にしたなんて記録があるようなので、本当の事ではないか?と思って書かせていただきました。
投稿: 茶々 | 2009年5月15日 (金) 18時37分