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2009年5月 2日 (土)

織田信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?

 

天正十一年(1583年)5月2日、織田信長の三男・信孝が、兄・信雄に追い詰められ、尾張・内海の野間大御堂寺で自刃しました。

・・・・・・・・・

織田信孝は、永禄元年(1558年)に織田信長の三男として生まれます。

上記の通り、最終的に彼を死に追いやる兄の信雄(のぶかつ・のぶお)ですが・・・実は、彼も永禄元年生まれ。

本当は、信孝のほうが何日か早く生まれていたものの、母親の身分が低かったため、信雄を次男とし、信孝を三男としたとも言われますが、その真偽はともかく、そのような噂が囁かれるくらい、二人は同時期に誕生したようです。

信孝11歳の時、父の信長が北伊勢一帯を配下に治めた事で、その時、信長の傘下となった神戸城(三重県鈴鹿市)の城主・神戸具盛(かんべとももり)の養子となって神戸氏を継いだので、その後は神戸信孝と名乗ります。

神戸となった後も、父・信長に従い、長島や越前の一向一揆の平定に参戦したり、長兄の信忠に従って有岡城攻めも行っています。

天正十年(1582年)の本能寺の変の直前に、信長は、いよいよ四国征伐に乗り出しますが、この時、四国攻めの総司令官に任命されたのが信孝でした。

その前年の馬揃えの順番でいけば、
=長男・信忠
=次男・信雄
=信長の弟・信包・・・と、
信孝は番目となるのですが、すでに信長の後継者に決定していた長男の信忠を除けば、この中で、地方征伐の指揮官に任命されたのは、信孝のみ・・・。

母親の身分が低く、すでに神戸氏を継いでいる事で、織田家内の地位としては4番目の信孝でしたが、その武将としての力量には、父・信長も期待していた事がうかがえます。

しかし、彼が、重臣の丹羽長秀(にわながひで)とともに、大坂にて、その四国攻めの準備をしている時に、かの本能寺の変が勃発するのです。

本来なら、自らが先頭に立って、父の弔い合戦を!!・・・と行きたいところですが、四国攻めのために集めた兵が、信長の死に動揺して散り々々になってしまったため、信孝は、備中・高松城がら、奇跡の中国大返しで戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と合流して、山崎の合戦(6月13日参照>>)で、父の仇・明智光秀を倒しました。

Toyotomihideyoshi600 この山崎の合戦の時、秀吉の要請で、総大将となった信孝ですが、それが、主君の敵討ちを前面に推したい秀吉の策略である事は、すぐ後の清洲会議(6月27日参照>>)で明らかとなります。

山崎の合戦では、「ぜひ総大将に・・」と、自分を推してくれた秀吉が、信長の後継者を決める清洲会議では、信長とともに亡くなった長男・信忠の息子・三法師を推し、信孝を推した柴田勝家を押さえ込んで、織田家後継者を三法師に決めてしまったのです。

結局、美濃(岐阜県)一国・岐阜城の城主と決まった信孝・・・

とは言え、信長健在の頃でも、上記の通り、4番目という地位に納得していた信孝ですから、信長から、すでに家督を譲られていた信忠亡き後は、その息子・・・いわゆる直系の筋である三法師が後継者となる事には、まったく文句なく、おそらく、信孝自身も納得していた事でしょう。

ただ、彼が許せなかったのは、その三法師が幼い事を良いことに、好き勝手にふるまう秀吉の態度・・・で、結局、同じように、それが許せなかった勝家とともに、秀吉に対抗する事となるのです(12月29日参照>>)

これが、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(3月11日参照>>)・・・この時、越前(福井県)の勝家、伊勢滝川一益(2月12日参照>>)、そして自らの岐阜と、見事に一直線の秀吉包囲網を形成した信孝でしたが、相手の秀吉が、次男の信雄を看板に掲げて美濃の国人衆を仲間に引き入れたうえ、ご存知のように、賤ヶ岳の合戦で勝利し、勝家を自刃に追い込んでしまいます(4月24日参照>>)

この時、秀吉側について、北伊勢で戦っていた信雄は、勝家死すのニュースを聞いて、すぐに軍を美濃へと移動させ、信孝の岐阜城を包囲しました。

取り囲まれた城からは逃げ出す者が続出して、最後まで信孝のもとに残ったのは、わずか27人だったとも言われていますが、この状況に、さすがの信孝も、岐阜城・開城に踏み切ります。

岐阜城開城の時点では、その命を保証されていた信孝でしたが、その後、尾張国・内海(愛知県知多郡)の野間大御堂寺(おおみどうじ)に移され、天正十一年(1583年)5月2日兄・信雄に切腹を命じられたのです。

この後の時代の流れを知っている私たちから見れば・・・
「信雄!なに、秀吉の思う壺にハメられとんねん!兄弟で潰し合ってる場合か!」
と、思ってしまいますね。

なんせ、ご存知のように、結局は、信雄を後継者にする気なんてさらさらない秀吉との間で、この信雄さんは小牧・長久手で戦い(3月13日参照>>)最終的に取って変わられる事になってしまうわけですからね。

ただ、この時期の信雄さん・・・信長の弟や、自分の妹の徳姫など、織田一族を庇護下に置いており、自分自身も、そして周囲も、織田家の惣領=信長の地位の継承者としての認識があったようなのです。

実際に、天正十四年(1586年)7月23日付けの書状で、父・信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)という、信雄のハンコが押された物が滋賀県で発見されており、どうやら、天下統一の意思が・・・というより、この信孝の死後、しばらくは、信長の後継者として、信雄が、実際に活動していた可能性があるのです。

・・・と、なると、秀吉に踊らされたというよりは、「後継者になりたい」という野望があって、自ら率先して弟・信孝を死に追いやったという事なのかも知れません。

これまで、小牧長久手の戦いは、天下を狙う秀吉と、それを阻止したい徳川家康が主流で、信雄は、あくまで、家康が秀吉と戦う大義名分のために用意した看板であったかのように思われており、このブログでも、散々、そのように書いてきましたが、実際には、信雄のほうがヤル気満々だったのかも・・・ですね。

小牧長久手の戦いが天正十二年(1584年)で、その年の11月に、信雄は、家康にナイショで単独講話(11月16日参照>>)して戦いが終結・・・さらに、その翌年の2月に信雄が上洛して秀吉と面会し、7月に秀吉が関白に・・・

しかし、上記の書状の日づけを見る限りでは、それでも、まだ、天下への夢は捨てていなかった?のかもしれませんね。

ただ、あの15代室町幕府将軍・足利義昭が、信長に京都を追放された後も、しぶとく生き残り、後に、秀吉の説得で将軍職を辞任した後も、秀吉から「室町内府公」なんて称号で呼ばれて、朝鮮出兵の時には、喜んで名護屋まで出陣していますので、それこそ、人たらしの秀吉のワザで、淡い夢を見させられていただけなのかも知れませんが・・・

かくして、兄から切腹を命じられた信孝・・・有名な辞世が残っています。

♪昔より 主をうつみ(内海・討つ身)の 野間なれば
   報
(むく)いを待てや 羽柴筑前♪  信孝・辞世

これは、その昔、あの平治の乱に敗れた源義朝が、家来の長田忠致(おさだただむね)を頼って来た時、恩賞に目がくらんだ忠致が、風呂に入っていた義朝を騙まし討ちするという話(1月4日参照>>)・・・その舞台が、この野間という場所だったのです。

結局、後に平家を倒した義朝の息子・源頼朝によって、この忠致は処刑されるわけですが、その話になぞらえて・・・

「昔から、主君を裏切る地であった野間・・・そのうち報いが来るだろうから待っていろ!羽柴秀吉め!」

てな、感じの、まさに、強烈な怨み節なわけですが、さすがに、こんなモロに名指しの歌を詠んで、そのまま、それが後世に伝えられるとは、とても考えられないですから、おそらく、豊臣家が滅亡した後の、江戸時代に作られたものでしょうね。

それを、見事に証明してくれるのが、先の「威加海内」のハンコ・・・上記の通り、あの日づけの時点でも、信雄がこのハンコを使用していたとなると、信孝が、この切腹の時点で怨むべき相手は、秀吉ではなく、信雄ですからね。

後に、秀吉が天下を取る事を知っている人しか、この歌は詠めません。

ただ、この歌を作った人も、悪気はなく、「おそらく、とてつもない怨みを抱いて死んでいったのだろう」という思いからの創作であった事でしょうが・・・。
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コメント

こんにちは。
ほぼ地元なのに、信孝自刃の地としてはあまり有名ではなく、しかも野間の大坊が大御堂寺という名前だと知ったのは最近のこと。あ~恥ずかしい(;´д`)トホホ…
しかし、言い訳になりますが、信孝さんの話はほとんど聞いた事がないのに、義朝さんの討たれた話は小学1年から教えられていました。
このアンバランスは一体・・・(゚ー゚;
あと、すいません、今調べて知ったのですが、実際に自刃したのは近くの安養寺だそうで、大御堂寺には信孝さんのお墓があるそうです。(そういえばあったかな、というくらいの扱いだったような気がしますが。)

投稿: おきよ | 2009年5月 2日 (土) 12時18分

おきよさん、こんにちは~

確かに・・・
「我に木刀一本あれば・・・」と言って亡くなったという逸話から、義朝さんのお墓に、たくさんの小太刀が奉納してある写真を見た事があります。

きっと義朝さんのほうが有名なんでしょうね。


>実際に自刃したのは近くの安養寺・・・

そうでした!そうでした!
安養寺には、自刃した短刀や血染めの掛け軸だったか何だったかが残っているという話を聞いた事がありました・・・ありがとうございます~

投稿: 茶々 | 2009年5月 2日 (土) 13時25分

こんばんは。
やっと、ゆっくりコメントをさせていただく時間ができました。
また、今回のはとても興味深く拝読し、勉強になりました。

というのは、この時期、織田氏で括れば、有楽斎も暗躍し、信雄は(浮薄な)総領意識だけで間抜けな感じもしていました。


けれど、茶々さんの徳姫もその庇護下にあったという記述で初めてその事実を知り、信康自刃の真相はどうあれ、やはり、兄として不憫な妹という感覚あれば、また、他の同族をも自分が総領として支える、、あるいは認知されないと…という意識があるなら、その持ちうる才覚で、やる気まんまんというのが、今まで信雄を追った文章からしても、納得いくものに思えました。

信孝自刃のお話なのに、そっちに興味がいってしまいました(^^;)

投稿: momoko | 2009年5月 3日 (日) 03時11分

momokoさん、こんにちは~

私も、信雄の「威加海内」のハンコの話を知ったのはけっこう最近の事で、それまでは、あの清洲会議の後は、秀吉が天下に一番近い人物になったんだろうなと漠然と思っていたんですが、信雄が、その時期にあのようなハンコを使って各地に書状を送っていたとすれば(滋賀県の物は検地に関する書状のようです)、意外と、まだまだ秀吉は織田家の家臣で、信長→信孝→信雄と、その地位が継承されていっていたのでは?と思うようになりました。

投稿: 茶々 | 2009年5月 3日 (日) 16時34分

確認しました。なるほど、信雄は「天下布武」に似た判子を使っていますね。織田一族の世話も見ていますしね。
清洲会議での領地分配(事実上の臣下委譲)も、「織田家の領地から恩賞を与える」名目と言うのなら、天下人への野望はあるともいますね。でも、領地はともかく「宙に浮いた」天下を織田に戻す事ができませんでした。
無念の思いで死んだ信孝は、武将として偉大な父の信長の様になりたかった様です。
豊臣家が徳川を向こうに回して、報いを受けたのはこの32年後ですね。

投稿: えびすこ | 2010年2月21日 (日) 13時23分

えびすこさん、こちらにも飛んでいただいてありがとうございます。

個人的には、才覚があったのは、やはり信孝のほうかな?
と思いますが、本能寺直後の采配に失敗してしまったような気がします。

投稿: 茶々 | 2010年2月21日 (日) 17時11分

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