織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺合戦
天正四年(1576年)5月3日、石山本願寺を取り囲むように構築された織田信長勢の砦を巡っての激しい攻防戦=天王寺合戦が繰り広げられました。
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織田信長に反発した第15代室町幕府将軍・足利義昭(7月18日参照>>)の呼びかけで、浅井長政・朝倉義景・武田信玄らの武将によって形勢された信長包囲網・・・
そこには、第十一世・顕如(けんにょ)の先導で、全国に一向一揆の嵐を巻き起こした浄土真宗の門徒たちも加わっていました。
現在の大阪城の建つ位置にあったとされる石山本願寺は、まさに、その一向一揆の中心の場所・・・。
そんな本願寺と信長との戦い・・・世に言う石山合戦は、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで、11年の長きに渡って繰り広げられます(11月24日参照>>)。
一時は、それこそ全員を敵に回して、ピンチの連続だった信長も、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)、義昭を追放し、信玄の死にも助けられ・・・と、一つ一つ潰していく中、天正二年(1574年)の9月には、顕如の呼びかけに連動して発起した長島一向一揆を終結させます(9月29日参照>>)。
翌・天正三年(1575年)10月には、信長と顕如の間で講和が成立し、戦いは小休止となりますが、ここは、お互いが力を蓄えるための様子見ぃの講和・・・。
この間に、信長は安土城の建設を急ぎ、顕如は鉄砲に長けた紀州(和歌山県)の雑賀(さいが・さいか)衆に声をかけ、このゴタゴタの張本人である義昭は、信玄亡き後の大物武将として上杉謙信と毛利輝元に助けを求めます。
・・・で、結局、先の講和から、わずか半年後の天正四年(1576年)4月14日、再び合戦の火蓋が切られるのです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
北東の守口、北西の野田、南の天王寺と、石山本願寺を囲むように、多くの砦を構築した織田の軍勢・・・各砦を拠点に、荒木村重・明智光秀・細川藤孝・原田直政らが、本願寺に向けて攻撃を開始しました。
この時、石山本願寺自身には、4万余りの宗徒が籠城していたと言いますが、信長自らが陣頭指揮に立ち、士気あがる織田軍の猛攻撃によって、一時は敗色が濃くなった本願寺・・・しかし、天正四年(1576年)5月3日、かねてより、顕如が声をかけていた雑賀衆の一番手が登場します。
木津川口から、逆に織田軍を包囲した雑賀衆は、数千挺の鉄砲を一斉射撃!・・・直政は討死し、村重・光秀・藤孝らは、慌てて天王寺砦へと逃げ込みます。
この日の敗戦には、さすがの信長も、一旦、若江城(東大阪市)へと退却し、態勢の立て直し・・・
やがて、5月7日、再び本願寺に迫った織田軍は、やはり戦いのプロ・・・5倍近くの数の宗徒を蹴散らし、本願寺の城戸口前まで攻め寄せます。
『陰徳(いんとく)太平記』によれば、このように、本願寺がヤバくなると、真っ赤な法衣をまとった顕如が皆の前に現れ、その姿を目にした者は、たとえ織田の兵であっても、その神々しさにひれ伏し、たちまちのうちに武器を捨てて念仏を唱えはじめ、その度に形勢が逆転する・・・てな事が書かれていますが、この文献は軍記物に分類されるものなので、かなりオーバーに書かれているとは思います。
ただ、織田軍が攻撃をやめたかどうかはともかく、顕如のお出ましによって、味方の宗徒たちの士気があがった事は間違いないでしょう・・・なんせ、プロの戦闘集団でない彼らにとって、メンタルな部分の結束は一番重要ですから・・・。
ともあれ、この天王寺合戦の後に、さらに砦の数を増やした信長・・・そのおかげで、籠城する本願寺側は、完全に孤立状態となり、確保した兵糧が無くなるのも時間の問題となります。
・・・と、ここに登場するのが、西国の雄・毛利・・・。
ようやく、重い腰をあげた輝元は、海に強いその特性をフルに生かして海路からの兵糧補給を試みます。
毛利配下の村上水軍、小早川隆景配下の小早川水軍・・・海賊時代に培ったそのゲリラ的航行術を駆使する海の民の出現に、この先、石山合戦の舞台は、大坂湾の海の上へと移動する事になるわけですが・・・
そのお話は、やはり、第一次木津川海戦が行われる7月13日へどうぞ>>。
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コメント
こんにちは。
私はその陰徳太平記にでてくる石山本願寺五十一支城の一つ、守口方面からの最後の砦、榎並城址のおそらく環濠内に住んでいます。
おそらくというのは、伝榎並城址本丸跡と地形の名残、旧家周辺の様相、その真向かいにある浄土真宗のお寺を含めた環境をみて、その認識を持ち、GHQの空中写真と守口から京橋口まで京街道を歩くことで、確信を持ち、郭内を自分なりに、特定することができたというだけなんですが、(自信を持っています。)
また、最後に卒業した学校が旧名でいうと生玉之荘にあり、歩くことが好きなので、もう30年以上、守口~上町台地を歩くことで、自分なりの軍事拠点としての大阪城その出現から、滅亡(終戦・第四師団解体)その後の姿(司令部建物、砲兵工廠跡)を見つめています。
ただ、今、住む場所に住まなければ、石山合戦は信長が大いに手をこまねき、苦戦し、講話に持ち込めたという書物的認識で終わっていました。
守口~大阪城までの京街道沿いには、浄土真宗のお寺が点在し、うちの近くのお寺の檀徒さんは、毎月決まった日に通われ、熱心さにびっくりするほどです。
ここで住んでいたかつての人々も鍬を槍に持ち替え、この辺でも、いえ、うちの地所の中でも血に染まって倒れた人がいたんだと思うと、ライフワークの中に石山合戦も加えねばという認識が強くなっています。
父は木津川近くで生まれていますし、大阪城→木津川という公式には、敗残という言葉がつきまとい、幕軍のそれにしても歩行で逃げた人もこの地を通り、大阪城、木津川のルートは、槍を杖に替え、雪辱、無念、様々な想いで歩いたのだと思うと自分の使命はその調査にあるのでは?と大それたことを思っています。
7月の内容を楽しみにしています。
投稿: momoko | 2009年5月 3日 (日) 17時26分
momokoさん、こんばんは~
以前書かせていただいた大久保利通の「大坂遷都案」の時、明治天皇が賢所を置かれた場所が、本願寺の末寺である盛泉寺・・・やはり、石山本願寺がなくなった後も、周辺地域はもちろん、その守口あたりまで本願寺の勢力が多くあった場所なのでしょうね。
本文に入れた「石山合戦配陣図」は、大阪城天守閣が所蔵している図を参考にして起したものですが、もとの図には、本願寺の中心部の南あたりに「蓮如松」が書かれ、その東側には「生玉」の名前も見えます。
momokoさんのお住まいの場所は、きっと、そのあたりなのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年5月 3日 (日) 23時00分
茶々さん、おっしゃる通り、守口市駅から文禄堤の京街道を京方面にいき、右下に行く階段をおりると、浄土真宗としての寺院で難宗寺があります。まず、この地域の人に蓮如上人が最初に布教し、多くの人が帰依したお寺さんで西御坊と言われるお寺さんですよね。
で、次が東御坊と呼ばれる盛泉寺さんですね。
実はこの辺、息子が幼い頃のお散歩コースでした。元守口市民です(^^;)
そして、盛泉寺の明治天皇供奉には、うちの先祖がおりました(^^;)長州藩士なんです。
あと、京阪守口市駅を中心にそれらのお寺と対称位置にある町名が寺内町というのも諸に蓮如、教如を受けていますよね。
私の住まいは、生玉ではなく、京街道沿い付近ということにしておきます(^^;)
投稿: momoko | 2009年5月 4日 (月) 01時35分
momokoさん、おばんです
元禄元年(1688年)に出版された「大坂市街絵図」では、わが実家のあたりは「阿部ツノ守シモヤシキ」と書かれています。
古地図を見る限りでは、石山合戦の頃は、未だ未開発の土地のような雰囲気ですが、元禄にはすっかり都会になってる・・・天下人のおかげで大阪城周辺はずいぶん変わりましたね。
投稿: 茶々 | 2009年5月 4日 (月) 03時02分
こんにちは お久しぶりのコメントとなります。
信長に、逆らう武将でさえすごいのに、寺が出てくるなんて・・・。
それを反対に平気に攻め続けた信長もすごいです。仏を敵に回すと、バチがあたるといわれてましたし。
そういえば、関係のない話ですが、昨日宮城の方まで行き、「みちのく 伊達政宗歴史館」に行ってきました。
そこで、このブログで茶々さんがイラストまで書いた理由が分かりました。
それは、「カッコイイ」ということです。
僕、一発でファンになりました。
うそかもしれませんが、そこに行く途中の道で「ダースベイダーのモデルは伊達政宗!」
なんていうものもありました。
とても面白かったです。
投稿: 力道山 | 2009年5月 4日 (月) 14時05分
力道山さん、こんにちは~
武将としての好みは人それぞれでしょうが、やっぱ、伊達政宗はオシャレですよね。
なんで伊達男ですから・・・。
あと、伊達政宗かどうかは知りませんが、スターウォーズを作ったスピルバーグとルーカスは黒沢作品の大ファンなので、ダースベーダーが日本の戦国時代の甲冑をイメージして作ったっていうのは本当だと思いますよ。
投稿: 茶々 | 2009年5月 4日 (月) 14時19分