大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦
元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂夏の陣において、この日、開始された総攻撃にギリギリセーフで間に合った毛利秀元が奮戦しました。
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そもそも、西国で強大な力を持ち、豊臣秀吉の時代には五大老に1人に数えられた毛利が、大幅に領地を減らされたのは、あの関ヶ原の合戦で毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったため・・・。
以前、【動かぬ総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】(7月15日参照>>)で書かせていただいたように、この時の毛利氏の動きは・・・
西軍・総大将となった輝元は大坂城に留まったまま、従兄弟で養子の毛利秀元を名代の毛利隊の大将として関ヶ原の現地に派遣。
一方で、従兄弟の吉川広家が東軍に通じ、「関ヶ原に兵は出すものの参戦はしない」という約束を本多忠勝・井伊直政らと交わし、当時配下に収めていた8カ国の所領は安堵されるはずでした。
もちろん、これには、西軍・東軍、どちらが勝っても毛利が傷つかないという思惑があったのだろうという事も、そのページに書かせていただきました。
ところが、ご存知のように、「その約束したんは、僕やなくて、本多君と井伊君やもん!総大将やっといてお咎めなしなんか、ありえへんやろ」という、タヌキのオッチャン・徳川家康の見事なペテンで、周防・長門(山口県)の2国だけという大幅減封となってしまったわけです。
関ヶ原の合戦は、毛利にとって、合戦で敗戦したというよりは、何やら騙された感の強い遺恨を残す結果となってしまったはず・・・
そして、あれから15年・・・そんな毛利の思いを知ってか知らずか、家康は、今回の大阪の陣にあたって、毛利にも出兵の命令を出してくるのです。
まずは、現地に出兵する前に、瀬戸内を往来する船の検問から始まった毛利の大阪の陣への参戦・・・結局、前半戦の冬の陣では、住吉などの海岸線の警固を任されただけで、最後まで、大坂城を囲む最前線へ行く事はなかったのです。
ところで、以前書かせていただいた【「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢】(11月7日参照>>)のページで、先ほどの関ヶ原合戦で、輝元の名代として現地・関ヶ原へ向かった秀元の事を、「彼なしでは毛利は語れないほどの重要人物だと思う」というような事を書かせていただきましたが、この大阪の陣に於いても、やはり、秀元なしでは、大阪の陣での毛利は語れないほどの活躍をしてくれています。
そもそも、関ヶ原の時も、東軍と密約を交わしてしたのは広家で、一応、輝元と秀元は、その密約の事を知らなかったとされています。
しかも、秀元に至っては、関ヶ原であのような結果になった後も、秀頼のいる大坂城に籠って、もう一戦、家康と構える覚悟であったとも言われ、そんな彼を広家が必死で説得したなんて話もあります。
血気盛んに徹底抗戦を訴える秀元が、「領地は安堵されるのだから・・・」という広家の言葉を信じて、故郷に帰ったにも関わらず、蓋を開けたら大幅減封だったわけですから、その受けた屈辱としては、かなりのものだったはずです。
ところが、この大阪の陣では、その事を忘れたかのように、毛利の先頭を切って参戦しているのです。
冬の陣で、海岸線の警固を命じられた時も、命じられたのは輝元であって、実は、秀元は江戸にいて、彼には出兵の要請がなかったのですが、わざわざ本多正信のもとへと足を運び、「なんで、俺を先鋒にしてくれへんねん!俺の事、信用してくれへんねんやったら、このまま大坂城に行って、秀頼の味方するゾ!」と抗議したのだとか・・・。
そして、その訴えを聞いた家康から大坂へと招かれた秀元は、毛利勢の大将である輝元よりも先に、天王寺・茶臼山(ちゃうすやま)(4月14日参照>>)に本陣を構える家康のところに「がんばりまっせ!」と挨拶に立ち寄っています。
まぁ、上記の通り、この時の冬の陣では大坂城包囲には関与する事なく、そのまま秀元は長府(山口県)へと帰ってはいるのですが・・・。
・・・で、その翌年に起こった今回の大坂夏の陣・・・
早速、家康から、諸大名に出撃命令が下ったこの時、輝元は病気療養中ですでに隠居していて、その息子・秀就(ひでなり)が家督を継いでいたのですが、秀元はすぐにでも大坂に行くようにと進言・・・
しかし、なかなか重い腰をあげない秀就・・・ウダウダ言ってるうちに5月になってしまって、「これは、いかん!」とばかりに、秀元は、独自に船団を組んで海路大坂入りして参戦するのです。
実は、これが見事なグッドタイミング!
前日の5月6日には、道明寺・誉田の合戦(4月30日参照>>)で後藤又兵衛・薄田隼人が討死し、若江・八尾の合戦では木村重成が討死する(2011年5月6日参照>>)という大きな野戦によって、本格的な火蓋が切られた大坂夏の陣・・・(布陣図はコチラから>>別窓で開きます)
翌日の元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂城を包囲した徳川方によって、大坂城への総攻撃が開始される事になるのですが、この時、先鋒となって、真っ先に大坂城へと突進していったのは、家康の孫・松平忠直隊・・・
それを迎え撃つ大坂方は、あの真田幸村隊・・・しかし、一昨年のその日のページに書かせていただいたように(2007年5月7日参照>>)、幸村の一番の目的は、後方に位置する大将・家康の首・・・なので、先鋒の忠直隊にかまってるヒマはありません。
一方の忠直隊も、一番の目的は大坂城への突入ですから、この忠直隊と幸村隊の激突は、激突というよりも、お互いを蹴散らしながら、どんどんと先へと進む・・・といった感じの戦い方だったはずなのです。
だからこそ、あれよあれよという間に、忠直隊を突破した幸村隊が、家康の本陣へと切迫し、あわや!という状況に陥ったわけです。
逆に、忠直隊のほうは、大坂城への一番乗りを果たし、数々の戦利品を持ち帰っています(9月8日【陣形と陣立のお話】参照>>)。
実は、このタイミングで、この合戦の場に駆けつけたのが、本日の主役・毛利秀元・・・(長い前置き、スンマセンどした)。
『毛利家乗』によれば・・・
「公(秀元の事)、衆に先んじ高麗橋に薄(せま)り、大に接戦す。諸部往々次を乱して破れ却(しり)ぞく・・・」
大阪の地図を見ていただければ、その位置関係がわかりますでしょう。
大阪城があり、そのまっすぐ南に天王寺・・・大坂方の先頭にいた幸村隊はこの天王寺に近い茶臼山に陣を構え、そこから、さらに南に向かって、家康の本陣へと・・・
その、今、まさに激戦最中の戦場へ、高麗橋付近から秀元登場・・・つまり、徳川方を攻撃中の大坂方の後方から攻め込んだ形となったわけです。
しかも、その状況は、バッタバッタと敵をなぎ倒し、敵は敗れ退く・・・です。
幸村隊に迫られ、一度は死を覚悟したと言われるこの時の家康・・・あわやという場面を救った秀元の大活躍は、その奮戦を目にしていた徳川方の諸将の口伝えで家康の耳まで届き、夏の陣終了後、二条城にて、家康は直接秀元に対面し、大いに喜んだと言います。
実は、この時、かの秀就が大坂に到着したのは、合戦終了から数日経ってから・・・そう、全然間に合っていなかったのですが、秀元の活躍に、家康がご機嫌だったおかげで、秀就の遅参は、まったくのお咎めなしとなったのです。
それにしても、関ヶ原であれだけ苦渋を味わったにしては、この積極的な参戦は、いったいどういう事なのでしょうか?
何が、秀元を、そこまで徳川寄りにさせたのか?
一つには、彼の奥さん・・・
実は、大坂冬の陣の前年、彼は、家康の異父弟である松平康元の娘を嫁に貰っているのです。
しかし、秀元にとっては、嫁の実家・・・というよりも、これからは、徳川の時代・・・「怨みつらみだけでは、この先、生き残ってはいく事はできない」という、冷静な判断のほうが勝っていた事でしょう。
それには、何よりも、家康からの篤い信頼を得る事・・・先の冬の陣の時の彼のセリフのように「自分を信用できないんですか!」なんて事を言わなくてもいいように、自分の忠誠心を見せつけなければならないと感じていたのではないでしょうか。
ただ、秀元がここまでして、徳川への忠誠をアピールしなければならないのには、未だ徳川から見て、毛利には疑わしい部分があったからなのですが・・・。
それは、先ほどから参照としている一昨年のページを見ていただいた方の中には、「んん?」と、すでに、その名前にお気づきになった方もおられる事でしょうが、大坂方に参戦し、幸村とともに天王寺口を守り、あの本多忠朝を討ち取るという大活躍の武将の名前が・・・毛利勝永(2015年5月7日参照>>)
ただ、彼は、同じ毛利という姓ではあるものの主家の毛利氏と血縁関係はない一族ではあるんですが、もともとは「森」という姓だったのを輝元の許しを得て「毛利」と改名したなんて話もあり・・・現に関ヶ原では秀元の指揮下で南宮山にいたので、まったくの無関係とも言えない雰囲気・・・
がしかし、家康が毛利に疑いの目を向ける、この勝永以上の人物が、もう一人・・・実は、この大坂の陣には、毛利家の重臣が大坂方として参戦していたのですが・・・
記事も長くなって参りましたので、そのお話は、燃え盛る大坂城から脱出したその者が捕らえられ、切腹の処分を受ける事になる5月21日=【陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」】でどうぞ>>
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