まもなく桶狭間~今川義元・出陣の理由は?
永禄三年(1560年)5月1日、今川義元が、全軍の出陣命令を発しました。
・・・・・・・・・
駿河(静岡県東部)の戦国大名であった今川義元・・・
永禄三年(1560年)の今日、5月1日に出陣命令を出し、実際に駿府(すんぷ・静岡市)を出立するのは5月12日・・・
その後、
13日には掛川城、
14日・引馬城(ひくまじょう・浜松市)、
15日・吉田城(豊橋市)、16日・岡崎城、
17日・池鯉鮒城(ちりゅうじょう)と、すでに今川配下となっていた遠江(とうとうみ・静岡県西部)から三河(愛知県東部)の城を移動し、
18日には、尾張(愛知県西部)との国境を越えて、近藤景春の沓掛城(くつかけじょう・豊明市)に入っています。
その先には、今川最前線の鳴海城と大高城・・・
そして、さらに、その先には・・・織田信長の清洲城。
そうです。
この時の義元の行軍に、信長が仕掛けるのが、あの桶狭間の合戦です。
以前は、この時の義元の出陣は、上洛が目的であり、桶狭間の戦いは、その途中に起きた一つの合戦であるとされていましたが、最近では「上洛目的ではない」という説のほうが主流になりつつあります。
・・・というのも、以前、桶狭間の合戦のその日のページ(5月19日参照>>)にも書かせていただきましたが、この時の義元の軍勢が、総勢2万5千ほど・・・
確かに多いですが、たとえここで信長を蹴散らしたとしても、上洛するとなれば、その先には美濃(岐阜県)の斉藤氏もいますし、近江(滋賀県)の六角氏もいますから、これらを倒しての上洛は、おそらく、この数では不可能な気がします。
もちろん、上洛には、もう一つ、平和的な上洛もあり得ます。
以前、書かせていただいた上杉謙信の上洛(4月27日参照>>)・・・彼の2度の上洛は、天皇や将軍に拝謁する事を一番の目的としたものだったわけですが、こういう場合は、当然、通っていく他国の者に対して、事前に、その事を通達しておかねばなりません。
もちろん、目的地である京都にも、誰に会うのか?どこに滞在するのか?の打ち合わせも必要になってきますが、この時の義元は、それをやっていなかったようです。
天下を狙う上洛にしては軍勢が少なく、平和のための上洛にしては根回しがない・・・よって、今回の出陣の目的は、上洛ではなかったというのが、いまのところ主流の見解となっています。
では、何のために、義元は出陣を決意したのでしょうか?
実は、信長の父・織田信秀の時代から、取ったり取られたりの領地争奪合戦を繰り返していた織田と今川・・・ここに来て、その最終段階を迎えようとしていたようなのです。
そもそも、この少し前、群雄割拠していた戦国武将の中で、力をつけてきていたのが、駿河の義元であり、甲斐(山梨県)の武田信玄であり、相模(神奈川県)の北条氏康・・・お互いの国境を接して、こちらでも争奪合戦を繰り返していた三国でしたが、彼らも、敵はこの3人だけではありません。
義元が信秀と争っているように、信玄には越後(新潟県)の謙信というライバルがいますし、氏康も隣接する上野(こうずけ・群馬県)や下野(しもつけ・栃木県)へと手を伸ばしたい・・・。
そこで、3者の思惑が一致します。
天文二十一年(1552年)、義元は、信玄の息子・義信に自分の娘を嫁がせて今川×武田の同盟を成立させ、翌年には、信玄が、氏康の息子・氏政に娘を嫁がせて武田×北条の同盟が成立・・・さらに、その翌年、氏康が、娘を義元の息子氏真(うじざね)に嫁がせて今川×北条の同盟も成立・・・ここに、甲相駿(こうそうしゅん)三国同盟が成立し(3月3日参照>>)、お互い、気になっていた他の隣国への攻略に全力を傾ける事ができるようになったわけです。
一方の織田家は、駿河にちょっかいを出していた信秀が、天文二十年(1551年)に亡くなり(3月3日参照>>)、後継者となった信長は、とりあえず、先に、尾張国内の統一に力を注ぐのです。
そう、信長が後を継いだ頃は、まだ織田家は、尾張下4郡の守護代・織田大和守(やもとのかみ)家の、さらに家臣という立場で、さらに、上4郡の守護代・織田伊勢守(いせのかみ)家もいたのですから、外にちょっかいを出すより、織田家の中でトップになる事のほうが先決だったわけです(11月26日参照>>)。
ただ、国内を統一しようとして、争い事が激化すると、多くなるのが、その配下の国人たちの離反・・・やっぱ不安ですからねぇ。
ちょうど、この織田家内のゴタゴタの頃に、織田から今川へ寝返ったのが、大高城を奪ったばかりの鳴海城主の山口教継(のりつぐ)(4月17日参照>>)や沓掛城の近藤景春・・・つまり、ここが、今のところの今川の最前線だったわけです。
・・・で、現在では、義元の出陣は、信長の尾張そのものに対しての出陣であったであろうとの見方がされています。
・・・と言いますのも、上記の鳴海城と大高城が、今川の物となってしまった事で、信長は、これらの城に対して付城(つけじろ)を構築しているのですが・・・
付城とは、狙いを定めた城に対して、攻撃をしやすいように、あるいは、監視しやすいようにと、すぐ近くに造る砦・城の事ですが、鳴海城には丹下・善照寺・中島の3つの砦、大高城には鷲津・丸根の2つの砦・・・計・5つの砦を構築しています。
(桶狭間の時の布陣図を見ていただくとわかりやすいです=別窓で開く>>)
つまり、この時の出陣は、この二つの城に付けられた砦を潰すためだったのではないか?というわけです。
実を言うと、かの2万5千という大軍ではありますが、それを皆、義元自身が率いていたかと言えば、そうではなく、各城に散らばって配置され、義元の側にいたのは2~3千だったとも言われ、そうなると、単に2つの城の砦を潰すための出陣であった可能性も充分考えられますね。
また、ご存知のように、この時の義元は、馬ではなく、輿に乗っての出陣・・・
以前は、この輿での出陣が、公家のマネをして軟弱化した姿と、義元を愚将扱いする格好の材料となっていたわけですが、今では、この輿に乗っての出陣は、力のある大名が将軍家から許された特権であった事がわかっていますので、馬ではなく、あえて輿で出陣した義元としては、抗う織田の青二才に、今川との差を見せつけながら、周辺の砦をぶっ潰して最前線の城を救援する=ここまで、僕の物やから・・・という線引き的な事だったのかも知れませんね。
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