北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意
慶応四年(明治元年・1868年)5月13日、信濃川を挟んでの北越戊辰戦争のプロローグ・朝日山争奪戦が行われました。
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慶応四年(明治元年・1868年)が明けてまもなく、鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争は(1月9日参照>>)、江戸無血開城の後、東北・北陸へと舞台を移します。
旧幕府勢力の強い会津藩・庄内藩をターゲットにし、それに同調する東北・北陸の諸藩を倒すべく、東征を開始した新政府軍・・・
対するは、佐幕派の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)・・・。
そんな中、新政府から、「会津藩への出兵か」「3万両の軍用金の献納か」の二者択一を迫られた長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は、その返答を棚の上にあげたままの5月2日、新政府軍が本営を置く小千谷(おぢや)へと向かいました(4月25日参照>>)。
後に、「小千谷会談」と呼ばれる事になるこの日の会見に臨んだのは、長岡藩側は継之助ひとり、新政府側からは軍監・岩村精一郎以下、淵辺直右衛門(ふちべなおうえもん)、杉山荘一郎、白井小助の4名。
継之助は、まずは、先の二者択一の返事をしなかった事を謝罪した後、会津や桑名などの列藩同盟に参加している諸藩から再三の参戦要求を受けている事や長岡藩の藩内でも、列藩同盟とともに立つべきという意見と新政府に恭順すべきと意見が分かれている事などを包み隠さず話しました。
そして、「少しの時間の猶予をもらえたならば、藩内を幕府・新政府のどちらにもつかない中立の立場という意見にまとめる事、その上、東北・北陸の諸藩を新政府に恭順するように説得し、長岡藩が、その仲介役となりたい」と訴えたのです。
しかし、この思いは継之助の一方通行・・・会談は、わずか30分で決裂してしまうのです。
この時、未だ血気盛んな23歳の若者だった精一郎は、後に、「あの時、河井の事を夢見物語のアホ家老だと思っていた」と語った事でもわかるように、まったく継之助の事を信用しおらず、彼の言い分を、単なる時間稼ぎだと思い込んでしまったのです。
結局、失敗に終ってしまった小千谷会談・・・継之助は、2日後の5月4日に、列藩同盟への参加を表明し、新政府軍との開戦を決意します。
継之助ら、長岡藩が本拠とする長岡城から、信濃川と並行に走る三国(みくに)街道を南へ下ると、榎(えのき)峠・朝日山という軍事的要所があります。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
そこから、信濃川を挟んで向かい側は、新政府軍の本営のある小千谷・・・この時、榎峠と朝日山には、すでに新政府軍が駐留していましたから、まずは、ここを落し、その後、小千谷を攻撃するという作戦を立てます。
慶応四年(明治元年・1868年)5月10日、長岡城下を出陣した彼らは、途中、列藩同盟軍の本営のある摂田屋(せったや)村に立ち寄って合流した後、三国街道を行く隊と、山側を迂回する隊の2隊に分かれて南下します。
そして、長岡藩軍事掛(かかり)・萩原要人(かねんど)率いる街道南下部隊が正面から、川島億二郎率いる迂回部隊が搦(から)め手から・・・同時に、榎峠の新政府軍に攻めかかりました。
翌・11日には、対岸の小千谷本営からの援軍も参加し、少しは踏ん張る新政府軍でしたが、列藩同盟軍の勢いに勝てず敗退・・・この日、列藩同盟軍は朝日山の占拠に成功します。
実は、この時、すでに敵陣の動きを察していた総督府下参謀の山県有朋(やまがたありとも)は、急ぎ、柏崎から小千谷に向かってひた走っていたのですが、遠く、榎峠から聞こえる銃声を耳にして、「すわ!合戦が始まった!」と、さらに、その足を速めて本営へと向かいました。
そころが、いざ、本営に着いてみると、精一郎以下、現地の幹部らは、思いっきりのんびりと食事中・・・
「対岸で合戦始まっとるのに、何しとんじゃ!」と、怒り爆発の有朋は、すぐさま彼らをクビにし、奇兵隊の同志だった時山直八(ときやまなおはち)を連れて、最前線を視察して、朝日山奪回の秘策を練ったと言います。
かくして、迎えた慶応四年(明治元年・1868年)5月13日・・・この日、その有朋は、更なる援軍を連れてくるため、持ち場を離れていたのですが、ここしばらくの間、あたりを覆っていた霧が晴れた事で、留守を守っていた直八が、「絶好の機会である」と判断し、朝日山への総攻撃を開始したのです。
奇兵隊の200名を引き連れて、信濃川を渡る直八・・・
迎え撃つは、立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)(3月6日参照>>)率いる桑名藩・雷神隊・・・
一進一退の攻防を繰り返す両者でしたが、途中で直八が銃弾に倒れるに至って、大将を失った新政府軍は、しだいに西岸へと敗退していき、最終的に、この日の戦いは、新政府軍の死者・46名、列藩同盟軍の死者は、わずか9名という列藩同盟軍側の勝利となりました。
鳥羽伏見の戦いで決起して以来・・・ほとんど無傷のまま進んできた新政府軍にとって、この日の負け戦は、手痛い一戦となりました。
結局、このまま信濃川を挟んで、こう着状態が続く事になる両者・・・
やがて、この状態を打開すべく、継之助は、さらに北の前島に主力を集結させ、信濃川を渡って、小千谷の敵の本営を攻撃する作戦を立てます。
一方の有朋も、北側から信濃川を渡って長岡城を攻める作戦・・・
神のイタズラか悪魔の仕業か、この二人の作戦は、ともに、来る5月19日に決行する事に決まるのですが・・・そのお話は、やはりその5月19日のページでどうぞ>>。
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