土方歳三の最後の命令を預かった市村鉄之助
明治二年(1869年)5月14日、新政府軍に五稜郭を囲まれ、討死を覚悟した榎本武揚は、敵・参謀の黒田清隆に対して、留学先から持ち帰った国際法に関する本『万国海律(かいりつ)全書』を送りました。
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明治二年(1869年)5月11日から始まった明治新政府軍による函館総攻撃(5月11日参照>>)・・・その後、投降する者、逆に、壮絶な自刃を遂げる者を目の当たりにし、ついに18日、榎本武揚は五稜郭の開城を決意し、ここに、品川沖を脱走してからの約9ヶ月にわたる函館戦争は終結するわけですが・・・
実は、上記の『万国海律全書』を送った話も、その五稜郭開城のお話も、すでに一昨年に書かせていただいているので(2007年5月18日参照>>)、今日は、別のお話を・・・
・‥…━━━☆
その函館総攻撃が開始された5月11日に五稜郭を脱出し、ちょうど、この14日頃も、ただひたすら南に向かって走る一人の少年がおりました。
彼の名前は市村鉄之助・・・彼は、美濃国(岐阜県)大垣の生まれで、慶応三年(1867年)、わずか15歳で兄・辰之助とともに新撰組に入隊し、その若さゆえ、即戦力というよりは、いわゆる小姓として雑用をこなしていた少年で、この時も、先の5月11日の戦いで壮絶な討死を遂げた、新撰組・副長の土方歳三の世話係として従っていたのです。
元新撰組隊士・中島登(なかじまのぼり)の記録では、その11日に行方不明となったままとされている彼・・・
また、『幕府陣歿者氏名考』では、16歳で病死したとなっている彼・・・
しかし、実は、死を覚悟した土方の命を受け、その遺品を届けるために五稜郭を脱出し、土方の故郷・日野(東京都日野市)に向かったというのです。
公式の記録には残らない鉄之助の行動・・・
それは、後に、東京の大東屋が島田魁(かい)に送った手紙に書かれています。
島田は、あの壬生浪士の時代からの新撰組仲間・・・この函館戦争でも、土方と行動をともにしていましたが、11日は、別働隊として行動していた事で生き残っていたのです。
大東屋は、その手紙の中で、「鉄之助が函館脱出後に大東屋を訪ね、土方から預かった手紙と品物を届けに来た事、土方の手紙を読んでから、その品物の一部を売った事」などを、島田に伝えています。
大東屋によれば、「上記の品物以外にも、土方は鉄之助に刀二本を預けたようだが、大東屋に着いた時には、すでに、その刀二本は無かった」との事・・・
おそらく、質屋に預けてお金に換えたのだろうという事ですが、そのすでに無くなっていた刀も、そして、遺品の一部を売ったお金も、もちろん、鉄之助の旅費となったに違いありません。
銃弾飛び交う中を脱出し、官軍の目をかいくぐってここまで来たのですから、16歳の少年のその苦労は計り知れません。
おそらく、最初に預けられた刀二本も、旅費とするために土方が渡した物なのでしょう。
その後、7月になって、ようやく鉄之助は、土方の義兄にあたる、日野の佐藤彦五郎の家にたどり着き、遺髪や写真、辞世の和歌や手紙などを届けたと伝えられています。
その土方の手紙には「使の者の身の上頼み上げ候」と書かれてあったのだとか・・・
その後、明治四年(1871年)、鉄之助が故郷・大垣に帰るまでの約2年間、その土方の遺言通りに、彼は佐藤家の保護を受けています。
おそらく、わずか16歳の少年を、自らの供として討死させる事をヨシとしなかった土方が、その遺品を故郷に届けさせるという名目で、彼を生き残らせようと考えたのでしょうが・・・
もちろん、日野の佐藤家を去ったその後の鉄之助の消息については、まったくの不明です。
ただ、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)に、西郷軍の1人として参戦して討死したという噂だけが佐藤家に届いたという事です。
もし、その風の便りが本当だとすれば、彼は、わずか22歳で、土方から託されたその命を散らした事になりますが、もし、あの世で土方と再会したのだとしたら、「主君の命令のウラにある真意を読め!」と・・・小姓としての基本を、再び教わっているのかも知れません。
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コメント
何時も拝見しています。
市村鉄之助さんが 郷里 日野に
遺髪や写真、辞世の和歌や手紙を
届けた話 興味深く読ませて頂き
ました。
何かの小説で 土方歳三の函館での
最後を読んだ記憶あります。
現在出回っている 彼の写真は
その時のものでしょうか?
ジャニーズ系のいい男で 東京ー京都
ー甲府ー福島ー仙台ー函館と転戦した
彼にとっては何故 此処まで頑張ったか
興味 深々です。
投稿: zoot | 2009年5月16日 (土) 15時42分
zootさん、こんばんは~
>現在出回っている 彼の写真は・・・
私が知っているのは2枚あります。
どちらも、「土方歳三史料館」にあるものですが、zootさんのおっしゃているのは、そのうちのどちらかだと思います。
どちらも洋装で短髪でイスに座っている写真ですが、一枚は刀に手をかけた凛々しい表情、もう一枚は刀から手を下ろして膝に置き少し穏やかな表情のものです。
市村鉄之助さんが届けたのは後者の穏やかな表情のほうの写真で、厳しい追手から守り、一刻も早く届けようとしたのか、くっきりと歯形がついているそうです。
感動モンですね。
投稿: 茶々 | 2009年5月16日 (土) 19時31分
こんばんはっ
とても、興味深い記事を見つけ、ここに参りました。
すごく、新選組の記事が詳しく書かれていてとても、嬉しい気持ちでいっぱいです。
鉄之助は日野の佐藤家を目指したのですが、その当主の名前は彦次郎ではなく、彦五郎です。
投稿: Vermilion | 2011年4月17日 (日) 21時01分
Vermilionさん、こんばんは~
ぎょぇ~~~
ホントです…彦次郎になってますね(#^o^#)
ありがとうございました。
早速、訂正させていただきますo(_ _)oペコッ
また、見つけられましたらお教えください。
投稿: 茶々 | 2011年4月18日 (月) 01時28分
市村鉄之助が届けた、歳三の写真があるのは、日野宿日野宿本陣の裏にある、佐藤彦五郎新選組資料館です。5月の「ひの新選組まつり」の時だけ、限定公開しています。
歳三は11歳頃から佐藤家で暮らしていたので、京都からいろいろな物を佐藤家に送っていました。最期に鉄之助に遺品を託して、鉄之助の身柄を頼んだのも、佐藤家でした。
土方史料館の主な資料などは、昭和の始め、佐藤家から送られたものです。歳三の全身像の写真は、土方史料館にありますが、明治20年頃、函館に旅行に行った親戚が、お土産として売られていたものを買い求め、寄贈したものです。
実家には手紙の一通も書いていないし、寄りつかなかったそうです。
投稿: yoshitoyo | 2011年5月28日 (土) 10時55分
yoshitoyoさん、こんにちは~
>市村鉄之助が届けた、歳三の写真があるのは、日野宿日野宿本陣の裏にある、佐藤彦五郎新選組資料館
そうなんですか~
史料集などに「土方歳三史料館蔵」と書いてあるものですから、その写真が届けられた写真かと思っていました。
情報をありがとうございましたo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2011年5月28日 (土) 12時23分
こんにちは。
5月12日日野に行って来ました。
「佐藤彦五郎新選組資料館」に行って、
歳三写真と愛刀を見てきました。
近くに井上源三郎資料館もあって、
子孫の方が館長さんです。
今は平和で「薄桜鬼」のファンの女の子が
いっぱい来るけど、明治維新の頃は子孫や縁者は逃亡生活です。
投稿: やぶひび | 2013年5月15日 (水) 12時01分
やぶひびさん、こんにちは~
そうですね~
おっしゃる通り…
小説が出て、ドラマの主役になってスポットが当たるようになりましたが、明治の頃は、縁者の皆さまは隠れるように暮らしておられましたからね~
大変だったと思います。
投稿: 茶々 | 2013年5月15日 (水) 13時59分
初めまして。いつも勉強させていただきながら拝見させて頂いております。
さて、件の鉄之助の最後ですが、佐藤彦五郎記念館の館長様が教えて下さった話によると、鉄之助は故郷に帰り、その地で早死にしたとの事です。なんでも市村家は元来心臓に弱いを家系のようで、鉄之助もそのせいで若死にしたとの事。
鉄之助が帰郷して後年、親族の方から佐藤家に手紙で訃報が届いたそうです。
市村の最期についてよく、薩摩の話が出ていますが、それは講談や小説からの引用が殆ど。現地で調べると歴史人物の実像が分かってきます。書物で調べる歴史も大変尊いとは思いますが、現地でしか分からない事も沢山あります。その事に胸を当て、謙虚に歴史と触れ合おうと日々、思っております。
貴方様のこれからの執筆活動に期待しております。
投稿: 鍬次郎 | 2016年9月13日 (火) 23時46分
鍬次郎さん、こんばんは~
そうですか。。。
討死の話は、薩摩に伝わっているお話なのですね。
情報ありがとうございます。
そうですね~
現地へ行きたいです~
大阪在住なのと仕事の関係で10年間北陸にいたので、近畿と北陸はけっこう網羅していて「京阪奈ぶらり歴史散歩」>>という史跡巡りのサイトも運営してるんですが、遠方へはなかなか行けてませんね。
お金も時間もかかるし、健康面もありますしね。
フットワーク軽く現地に行ける鍬次郎さんがうらやましいです。
投稿: 茶々 | 2016年9月14日 (水) 03時18分
もし西南戦争で死んだのが本当なら、ずっと死に場所を探してたんだろうな。
投稿: 静岡茶 | 2020年10月24日 (土) 07時33分
静岡茶さん、こんばんは~
そうですね。
16歳の少年にとっては、それまで「これが正しい!と信じて命かけて守ろうとした物」が全部ひっくり返された世の中になったわけですから、動乱の時代を生き抜くのも、並大抵では無かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2020年10月25日 (日) 04時05分