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2009年5月21日 (木)

陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月21日、大坂夏の陣の後、逃亡先の京都で捕縛された佐野道可こと内藤元盛が山城国・鷲巣寺にて切腹しました。

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徳川家康が豊臣家を滅亡へと追い込んだ最後の戦い・大坂の陣・・・慶長十九年の冬の陣と慶長二十年の夏の陣の二度に渡って行われたこの合戦の経緯について、このブログでは、すでにいくつものエピソードを書かせていただいていますので、一つ一つに関しては【大坂の陣の年表】>>で見ていただくとして、先日、5月7日のページで書かせていただいた毛利秀元の奮戦・・・(5月7日参照>>)

そのページで、この秀元のただならぬ奮戦ぶりは、それだけ、家康が、彼ら毛利に対して、疑いの目を向けていたからではないか?てな事を書かせていただきましたが、それは、毛利家にとって、まさにただならぬ人物が、大坂方として参戦していたから・・・と書かせていただきました。

その、ただならぬ人物というのが、本日の主役・佐野道可(どうか)こと内藤元盛なのです。

内藤元盛の内藤氏は、もともと中国地方一帯に勢力を誇った守護大名・大内氏の家臣

元盛の祖父・内藤隆春は、大内義隆に仕えて家老にまで上りつめた人物で、その隆春の姉は義隆の養女となった後、毛利元就の長男・隆元に嫁いでいます(8月4日参照>>)

つまり、毛利輝元の叔父さんになるわけです。

また、その隆春の娘が毛利一門の宍戸元秀に嫁いて生まれたのが元盛・・・その人、という事で、ややこしいですが、つまりは、毛利の家臣と言えど、れっきとした血縁関係のある重臣という事になります。

とにかく、そのような人物が、大坂城に入って采配を振っていたわけですから、事は重大です。

その事を、徳川方がどの時点で知ったのかは、定かではありませんが、事が公になるのは、やはり、大坂城の落城後、京都に潜伏していた元盛が、徳川方に捕らえられた時・・・。

きびしい取調べに対して、元盛は、その素性だけは自白しますが、あくまで、「豊臣家に恩義を感じていた自分の意志によって独断で大坂方に走ったのであって、輝元以下、毛利家は、何も知らない事である」と主張し続けます。

しかし、もちろん、徳川方は、すぐには納得できません。

取調べ役となった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(3月26日参照>>)は、元盛の2人の息子・内藤元珍(もとよし)粟屋元豊(あわやもととみ)を呼び出し、彼ら兄弟にも尋問しますが、「俺ら兄弟は、もともとオヤジとは仲悪いんで、最近は話もしてませんし、ぜんぜん知りません」と主張します。

彼らの言い分に一貫性があって、信用のおけるものだったのか・・・とにかく、徳川方は、納得して、これ以上、毛利への追及はしませんでした。

確かに、例の関ヶ原の合戦の後の大幅な減封で、周防長門(山口県)の2国に押し込められた事に不満を持った毛利の家臣たちが出奔して豊臣に走るという事があったのも事実で、元盛も同様に思われのでしょう。

・・・で、結局、その元盛が、慶長二十年(元和元年・1615年)5月21日、山城国・鷲巣寺にて切腹し、後に『佐野道可事件』と呼ばれるこの出来事は一件落着となるのですが・・・

やっぱり、そこに、毛利家としての関与があったのか?なかったのか?気になるところではあります。

なんせ、以前書かせていただいたように、毛利は、あの関ヶ原でも、東西どっちが勝ってもいいように画策していたのではないか?(9月28日参照>>)と思われるふしがあるわけですから、今回の大坂の陣でも、豊臣×徳川・・・どっちが勝っても生き残れるように考えていた可能性大です。

後世の歴史を知っている私たちから見れば、もう、この大坂の陣の頃の家康の勢いは止めようがなく、もはや豊臣は風前の灯のようにも見えますが、よ~く考えてみたら・・・そうです、家康の年齢です。

この時の家康の年齢は73歳・・・戦国の世の寿命から見れば、もう、明日をも知れぬ年齢です。

夏の陣の大坂城総攻撃の日に、真田幸村「家康の首さえ取れば、戦況が変わるかも・・・」と、とにかく、家康の本陣めがけて突っ込んでいった話をさせていただきましたが、それと同じです。

大坂の陣の前でも後でも、途中でも、家康が亡くなってしまった時点で、徳川家の勢いが、どう変わるかは、わかったもんじゃありません。

なんせ、徳川に味方している武将の中には、多くの元豊臣家臣が含まれているわけですから、脅威に感じる家康が亡くなって、逆に、向こうには、秀吉の遺児・秀頼がいる・・・となると、彼らの心情に変化が起こる可能性も無きにしもあらずです。

そこで、輝元と秀元は考えます。

徳川には、秀元が思いっきり奮戦して忠誠心を見せつけ、一方で、豊臣方にも人を送ろう・・・しかし、輝元やその息子・秀就(ひでなり)では、完全に毛利が豊臣についた事になってしまうので、それはムリ・・・・かと言って、中途半端な人物では、豊臣に対して信用が得られない・・・

そこで、白羽の矢が立ったのが、血縁関係のある重臣・内藤元盛・・・彼なら、輝元&秀就の分身として充分に役目を果たせます。

元盛は、その名を佐野道可と改め、軍資金・大判500枚を手土産に、10人の家臣を従えて大坂城に入ります。

もちろん、勝利のあかつきには、旧領の6ヶ国の返還という条件を持たせて・・・

・・・と、これは、『萩藩閥閲(ばつえつろく)など、萩藩の複数の史料に登場するお話ですが、これに関しては、合戦後100年ほど経ってから書かれている事から、後世の創作ではないか?という疑いもあります。

ただ、道可=元盛という毛利の重臣が大坂方にいた事は事実ですから、その事実に、後々、先祖のカッコイイ話として付け加えたのでは?という事なのですが、それにしては、もう一つ、萩藩の家老・福原広俊吉川広家に宛てた手紙というのも残っているのです。

それは、大坂夏の陣の直前に書かれたとされる手紙なのだそうですが・・・

その広俊は、冬の陣の最中に、豊臣方に元盛がいるという噂を聞きつけますが、その時は、単なる噂として一蹴していたのを、夏の陣の直前になって、本当に元盛がいる事を確信し、秀元にその事を聞いたところ「俺、知~らない」とトボけたのだとか・・・で、その内容は、

「家老の俺にナイショで、勝手な画策してからに、どうせ、輝元はんと秀元はんがやってるんやろけど、これが萩に知れたら、地元で留守を預かってる重臣らもカンカンでっせ」という、怒り爆発な内容だそうで、この手紙がホンモノだとすると、やっぱり、輝元の名代として元盛を送り込んだという事になります。

また、その事がどこかから洩れて噂となっている事で、いつしか、その噂が徳川方に伝わる事を考え、逆に、秀元が異常に奮戦したという納得のいく結果が得られる事にもなります。

さらに、この事件の後、疑いが晴れて帰国した元盛の息子・元珍に、7月5日付けで、輝元から、「息子が家督を継いでも良い」というお許しが出ているのですが、もし、元盛が、毛利を出奔して豊臣方についたのなら、受け継ぐ家督など無い事になりますから、やはり、ここでも、元盛が、毛利家の指示のもと、大坂城に入った可能性が高いと言えます。

しかし、わずか、その3ヵ月後に、輝元の態度は急変します。

Mouriterumoto500a 慶長から元和に元号が変わった10月19日、輝元は、元珍・元豊兄弟に、いきなり切腹の命令を出し、2人は、周防・滝谷寺にて自刃させられてしまいます。

おそらくは、何やら新たな証拠らしきものが見つかって、またまた、毛利に疑惑が浮上した・・・ってところなのでしょうが、元盛の大坂城送り込み作戦自体が、仮説の域を出ないものである以上、これも、想像でしかありません。

何やら、ウサン臭さ満載の、悲しい結果となってしまいましたが、2人の兄弟の死をもって、『佐野道可事件』は、本当の結末を迎える事になったのです。
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