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2009年5月18日 (月)

函館戦争で敵味方の区別なく…医師・高松凌雲

 

明治二年(1869年)5月18日、先日の5月11日の函館総攻撃の日に書かせていただいたように、その翌日から始まった黒田清隆(くろだきよたか)による再三の降伏勧告に応じて、ついに榎本武揚(えのもとたけあき)五稜郭の開城を決意し、函館戦争が終結しました。

・・・・・・・・

この時、当然と言えば当然ですが、黒田と榎本は敵同士なので、この黒田の再三の降伏勧告を榎本に伝えた人・・・つまり、2人の間に入って、函館戦争の終結に尽力した人がいたわけです。

Takamaturyouun500 その人の名は高松凌雲(りょううん)・・・
幕府側の医師でした。

彼は、久留米の出身で、幕臣の養子となっていた兄・古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)を頼って、一旦、江戸に出た後、大坂緒方耕庵(おがたこうあん)に医学を学びました。

やがて、慶応二年(1866年)、当時大坂城にて病に倒れた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の治療のためにその実力を買われ、奥医師に抜擢されます。

翌年には、パリ万博への特派使節(3月7日参照>>)の1人としてヨーロッパに渡り、そこで西洋医学を直接学ぶというラッキーにも恵まれました。

ところが、そこへ勃発したのが、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

幕臣の兄の事が心配で、いてもたってもいられない凌雲は、早々に帰国の途につきますが、彼が日本に着いた時には、すでに江戸城は開城され、江戸は新政府のものとなり、心配していた兄は、江戸城開城を不服として鳥羽伏見の生き残りを召集し、衝鋒隊(しょうほうたい)という組織を結成して、関東から北に向かって行く新政府軍相手に転戦中でした。

そこで、凌雲は、その時、江戸湾を出る寸前だった軍艦・開陽丸(8月19日参照>>)にいた榎本のもとを訪ね、頼み込んで軍艦に乗せてもらったのでした。

そのまま、榎本と行動をともにしてきた凌雲は、その後、蝦夷共和国(12月15日参照>>)となった函館で、函館病院長を務めていたのです。

そして、例の明治二年(1869年)5月11日新政府軍による総攻撃が始まった時(5月11日参照>>)、当然の事ながら、新政府軍の兵士が病院内にも踏み込んで来たわけですが、健康な者にならともかく、治療中の患者にまで、「賊軍め!覚悟!」とばかりに刀を振りかざしたのです。

それを見て凌雲は一喝!

「病院は、敵味方の区別なく治療しとるんや!ケガ人や病人まで攻めるなんぞ、武士道に反する行為やろ!」と・・・

そうです。
彼は、それまでの木古内(きこない)矢不来(やふらい)の戦い(4月29日参照>>)で傷ついた兵士たちを、敵味方の区別なく収容・・・つまり、ここでは、新政府軍の兵士も治療を受けていたのです。

凌雲の一喝で、その事実を知った新政府・薩摩軍の隊長は、慌てて、この病院の玄関に『薩州隊改メ』と書かれた札を立てさせたのだそうです。

つまり、「ここは、すでに薩摩が確認したので攻撃をしないように」と・・・もちろん、その立札が立った後は、この病院が攻撃される事はありませんでした。

この一件で、新政府軍からの信頼を得ると同時に、薩摩とのパイプができた凌雲・・・で、薩摩藩士であった黒田が、この凌雲を通じて、榎本を説得したのです。

凌雲から、その人となり聞いた榎本は、黒田を信頼して大事な大事な国際法の洋書を、「このまま燃やしてしまうわけにはいかない」と彼に預け、黒田は黒田で、榎本を「このまま死なせてしまってはいけない」と、熱意の説得をしたわけです(2007年5月18日参照>>)

かくして、五稜郭・開城の前日、亀田八幡宮の近くの応接所で、2人は初対面を果たしたのですが、間に入ってくれた凌雲のおかげで、またたく間に意気投合し、明治二年(1869年)5月18日五稜郭は開城される事に決定したのです。

戦争終了後の凌雲は、未だ治療が必要な88人の患者とともに江戸(東京)に移動・・・やがて、やっと最後の患者が退院の運びとなった10月下旬になって、阿州藩(徳島県)預かりの身となります。

・・・と、ここで、簡単に阿州藩と言いましたが、これの決定が意外と難航したのだとか・・・

と、言うのも、負けた幕府の奥医師なので、賊軍の人間として「預かり」の処分という罪人扱いなわけですが、彼が、優秀な医者である事はすでに超有名・・・「預かる=自分の藩に来てくれる」わけですから、どの藩も、彼を預かりたくてしかたがないわけですよ。

取り合いの末、凌雲を勝ち取った阿州藩でしたが、翌年の3月には、その罪が許され、晴れて自由の身となった時、当然、「この地に留まってくれるように・・・」と、彼を説得するのですが、凌雲は、「主君である徳川家が静岡なので・・・」と、その話を断り、もちろん、その後にやってくる他の藩からのお誘いも、そして、新政府からの出仕の要請もすべて断るのでした。

それには、やはり、お世話になった徳川家への義もあったのでしょうが、実は、かの函館戦争で、総攻撃の翌日の5月12日、敵の砲弾を受けた兄・佐久左衛門が、その4日後に亡くなってしまったという事があり、それも影響しているのかも知れません。

彼は、浅草で開業し、町医者として貧しい人々の治療をする道を選びます。

やがて、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)で、またまた、名医の凌雲へ、声がかかります。

しかし、それも、断ります。

博愛の精神のもと、敵味方の区別なく治療をした凌雲も、兄の命を奪った戦争という敵には、もう、接したくなかったのかも知れません。

ところが、その後、その西南戦争での病院施設の劣悪な環境を、人づてに聞いた凌雲・・・自ら、手伝いを申し入れ、その環境の改善にあたっています。

ケガ人の事を考えると、やっぱり、じっとしていられなかったんでしょうね。

その後、仲間と一緒に、貧困にあえぐ人々を無料で診察する同愛社という組織を設立し、大正五年(1916年)10月12日81歳でこの世を去るまで、貧民施療一筋に尽力しました。

その日、彼が亡くなった事を知らせる新聞記事には、「それまでに治療した患者の数は111万人を越える」と書かれていたのだとか・・・。

医は仁術・・・彼もまた、函館戦争において「このまま死なせてしまってはいけない」人物だった事は確かです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

医は仁術を地で行った名医が、小説じゃなく実際に居たんですな!。救急患者の受け入れ拒否、医学界と政界の癒着による医療制度改悪の弊害の多発、戦後の自由主義の横行による医者のモラルの低下等々が叫ばれる昨今、彼のような医者が維新に於いて活躍した事実はドラマにして放映してほしいですね。二時間ドラマにすれば中々の傑作になるように思います。

投稿: マー君 | 2009年5月18日 (月) 18時05分

マー君さん、こんばんは~

凌雲さんのドラマ・・・見てみたいですね。

投稿: 茶々 | 2009年5月18日 (月) 18時30分

素晴らしいお医者さんですね、だからドラマより歴史は面白いですね。

投稿: minoru | 2011年5月18日 (水) 14時31分

minoruさん、こんにちは~

まさに、事実は小説より奇なり…ですね。

投稿: 茶々 | 2011年5月18日 (水) 18時05分

思わず書き込んでしまいました。

何っていい話なんでしょう('∀`)

まるでJINそのものですね。

明治の頃にはこういった純粋な方も沢山いらっしゃったのでしょうね。

投稿: shin | 2012年12月15日 (土) 04時57分

shinさん、こんにちは~

そうですね。
お医者さんはもちろん、政治家や実業家や商人…幕末&明治を生きた人々は、皆、純粋で熱心で世のために、、、感激しますね~(*^-^)

投稿: 茶々 | 2012年12月15日 (土) 13時43分

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