浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀
治承元年(1177年)5月29日、俊寛の山荘で行われていた平家打倒の集会の場に、後白河法皇が出席・・・後に『鹿ヶ谷の陰謀』と称される会合が開かれました。
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そもそもは、仁安二年(1167年)、あの平清盛がいきなりの3段飛びの昇進で太政大臣に就任(2009年2月11日参照>>)してからというもの・・・その力はますます絶大な物となり、京の町には、髪を短く切り、お揃いの真っ赤なひれ垂を着た「禿童(かぶろ)」と呼ばれる15~16歳の少年たち300人ほどが放たれ、平家に反発する者や悪口を言う者を取り締まっていました。
彼らは、京の町のいたるところを歩き回り、反発する者を見つけては、屋敷に押し入って財産を没収し、本人を捕まえては六波羅に引き渡すという秘密警察のような役割をはたしていたのです。
京の町の人々は、その名前を聞いただけで震え上がり、道を行くのも避けて通ったと言いますから、警察というよりはならず者のようですが・・・。
しかし、そうなると、その横暴極まりない態度に、表立っては反発しないものの、影でコソコソやりたくなってくるのが人の常・・・。
特に不満タラタラなのは、大納言の藤原成親(なりちか)という人物・・・彼は、先日、欠員ができた左大将というポストを狙っていたのですが、かの清盛の采配によって、右大将だった清盛の長男・重盛が左大将へと移り、空ポストとなった右大将には三男の宗盛が、まだ中納言なのにも関わらず上位数人抜きの昇進でついてしまったのです。
もちろん、彼以外にも、平氏でありながらも主流になりきれていなかった平康頼(やすより)や、藤原家の復権を願う藤原成経(なりつね)、先の平治の乱(12月9日参照>>)で亡くなった信西の乳母の子・西光などなど・・・。
やがて、いつのほどからか、法勝寺の執行・俊寛(しゅんかん)法師の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘に、彼らは集まるようになり、夜な夜な、平家打倒の話し合いが行われるようになったのです。
鹿ヶ谷とは、京都・東山の哲学の道のあたり・・・道沿いにある霊鑑寺の横の山道を登った所に俊寛の山荘がありました・・・写真、右側の赤い柱と自転車の間にある石碑には「此奥俊寛山荘地」とあります。
霊鑑寺のくわしい場所はHPの歴史散歩のページへどうぞ>>
そんなこんなの治承元年(1177年)5月29日・・・その会合の場に、後白河法皇(ごしらかわほうおう)自らが姿を現したのです。
以前も、書かせていただいたように、もともとは、大の仲良しだった2人・・・後白河法皇は、清盛の武力を後ろ盾にその院政を強め、清盛は法皇の権力に支えられ政界に君臨する事となったわけで、お互い、持ちつ持たれつの間柄・・・。
しかし、徐々に清盛は法皇を軽視するようになり、ここに来て、両者の関係にひびが入りつつあったのです。
この日、後白河法皇のお供をして、ここにやってきたのは、信西の息子・浄憲法印(じょうけんほういん)・・・彼は、この酒宴の席に出て、はじめて、この集まりが平家打倒の集会である事に気づいてびっくりしたのです。
宴もたけなわの頃、法印は成親に話かけます。
「お宅ら、気ぃつけなはれや・・・こういう話は、いずれどっかから洩れるもんでっせ。天下の一大事を招きまっせ」
「な~に~!」と、言わんばっかりに、血相を変えて成親が立ち上がった拍子に、すぐ前に置いてあった瓶子(へいし・徳利の事)を着物の端っこに引っ掛けて倒してしまいます。
それを見た法皇が・・・
「何しとんねん」
と、言うと、成親は、慌てて座りなおして・・・
「瓶子が倒れてしもて・・・」
すると、法皇は大笑い・・・・
そうです・・・瓶子=へいし=平氏
瓶子=平氏が倒れた・・・と・・・
すると、康頼がスクッと立ち上がって
「あ~あ、瓶子(平氏)が多すぎて酔っ払ってもたがな」
(↑お前も平氏やんけ!)というツッコミがあると思いきや、そうではなく・・・
すかさず俊寛が・・・
「せやな、この倒れた瓶子(平氏)、どないしたりまひょ」
すると、西光が・・・
「やっぱ、首取りましょか~」
と、手に取った瓶子の首を叩き落としたのだとか・・・
・・・って、陰謀っていうから、どんだけの陰湿な策略を話合ってんのかと思えば、単なる悪口大会やないかい!
いえいえ、これは『平家物語』にある一場面であって、この日以外にも、度重なる会合を開いて、ちゃんと具体的な作戦も練ってはいたようですが、いかんせん、僧や貴族中心の現状では、武力に欠けると考え、彼らは、北面の武士である多田行綱を味方に引きいれたのです。
しかし、これが命取りとなります。
軍事に精通している行綱から見れば、彼らの作戦は、とてもとても成功するとは思えない作戦・・・いや、作戦うんぬんよりも、現在の平家を倒すためには、とてつもない武力と、それを準備する日数も必要で、とてもじゃないが、おいそれと行動は起せないばかりか、自分が、この場所にいて、こんな作戦に加担してる事がバレたら、それこそ・・・
後々発覚してから処分をされる事を恐れた行綱は、すぐさま、西八条の清盛の屋敷へと駆け込み、事のすべてを暴露したのです。
この話を聞いて、怒り心頭の清盛・・・早速、兵を派遣して、彼らの逮捕に取り掛かりました。
6月1日の早朝、成親と西光が捕らえられ、西光の自供により、陰謀に参加した者が次々と芋づる式に捕まりました。
翌・6月2日、西光は拷問の末、斬首。
成親は備前(岡山県)に流罪となった後に斬られ、俊寛・康頼・成経の3名が鬼界ヶ島(きかいがしま・硫黄島だとされています)への流罪となりました。
・・・と、ここで、ひとりだけ・・・
そう、後白河法皇です。
さすがは、「日本一の大天狗」・・・うまい事、自分だけ罪を逃れましたね~。
『平家物語』では、ここで、法皇をも捕らえようとした清盛の前に、颯爽と現れた息子・重盛が・・・
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここに極まれり」
という名文句をサラリ・・・
これに感激した清盛が、法皇への攻撃を思いとどまる・・・となっていますが、以前、2009年の2月11日のページ(冒頭にリンクがあります)にも書かせていただいたように、平家物語は、かなりの重盛びいきなので、ここは、おそらくは、法皇がウマイ事、立ち回ったというところでしょう。
ひょっとしたら、この陰謀自体を、ウラで操っていた可能性もある人ですから、はなから、自分の逃げ道は作っていた事でしょう。
とは言え、結局は、ブチ切れ清盛のクーデター=治承三年の政変(11月17日参照>>)に突き進んでしまいますが・・・
ところで、この時、流罪となった3人のかたには、まだ後日談があります。
後の恩赦で、康頼と成経は許され、島を去る事ができたものの、なぜか、俊寛だけは許される事なく、その後の悲しみを、平家物語は切々と語ってくれるのですが、その俊寛さんの余生については、3月2日のページでどうぞ>>
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コメント
俊寛については、中学の国語の授業の中で古典を扱ったときに、習いました。歴史の授業では、この辺りはサラッと流されたのか殆ど記憶にないです。国語の授業で触れたと言うこともあり、歴史的背景や政治的思惑を読みとるでもなく、流罪地に於ける俊寛の苦悩とそれに対する感想を述懐する授業だったことを思い出します。
投稿: マー君 | 2009年5月29日 (金) 10時38分
マー君さん、こんばんは~
それはきっと平家物語の「足摺り」ってところですね。
俊寛さんの「その後」の時に書かせていただこうと思っています。
投稿: 茶々 | 2009年5月29日 (金) 22時11分