加賀一向一揆の支配は、なぜ100年も続いたか?
長享二年(1488年)6月9日、加賀で本願寺門徒による一揆が勃発し、守護・富樫政親の籠る高尾城を攻め、政親を自刃に追い込みました。
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この長享二年(1488年)6月9日の守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ高尾城(たかお・たこ・たこうじょう)攻め・・・ご存知のように、この後、加賀(石川県)は、約100年間の長きに渡って本願寺門徒が支配する「百姓の持ちたる国」となるのですが、本日の高尾城の戦いを長享一揆(ちょうきょういっき)と呼び、それ以前からの本願寺門徒の戦いと(6月9日参照>>)、この後の100年に渡る本願寺門徒の支配を総称して加賀一向一揆と呼びます。
もちろん、以前書かせていただいたように、蓮如(れんにょ)さんは、「浄土真宗を一向宗と呼ぶのは間違い」とおっしゃっていますので(11月28日参照>>)、厳密には本願寺門徒の一揆は一向一揆とは呼べないのですが、歴史上その名称となっていますので、今まで通り加賀一向一揆と呼ばせていただきます。
・・・で、今日の高尾城の戦いに関しては、まだまだ書き足りないものの、一応、加賀一向一揆(6月9日参照>>)として書かせていただいていますので、本日は、この100年という歳月・・・。
加賀一向一揆は、なぜ、100年もの長きに渡って、加賀を支配する事ができたのか?について迫りたいと思います。
富樫と一揆勢との戦いの挿絵…蓮如上人御一代記図絵より部分抜粋(国立国会図書館蔵)
この加賀一向一揆・・・本日の長享一揆に代表されるように、一見、本願寺の勢力を抑えようとする守護・富樫政親と、それに抵抗する本願寺門徒との戦いのように見えますが、実際には、一揆勢の中には、門徒ではない白山衆の百姓や、地元の国人衆が多く含まれていました。
現に、当時、このニュースを聞いた京都の人々は、この一揆を百姓の土一揆と認識していたようです。
しかし、実は、そのどちらでもない大きな要素が、この加賀一向一揆を100年に渡って続かせるその土台となっていたように思うのです。
もちろん、本来は烏合の衆である彼らを、守護をも倒すほど一体化させたのは、その根底に浄土真宗という強い絆があったわけで、それなしでは、彼らは、団体行動をとる事すら難しかったかも知れません。
しかし、一揆と言いながら、この、高尾城を攻めた時の彼らは、その総大将に、同じ富樫の一族で政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)を据えています。
政親とは、親子以上に歳の離れた70歳前後の老将です。
泰高は、政親が自刃した後には、加賀の守護にもなっています。
ところが、いつの間にやら「百姓の持ちたる国」・・・守護・富樫泰高は完全に名前だけの存在になってしまいます。
同時期に起こった、あの山城の国一揆でも、わずか8年後に新たな守護が幕府から派遣され、そこで終焉を迎えているように(9月17日参照>>)、本来、このような状況の場合、幕府が新たな守護を派遣するなりなんなりして、鎮圧しなければならないのでは?
ところが、加賀一向一揆は、そうはならなかった・・・実は、ここには、当時最大の権力者である管領・細川政元(ほそかわまさもと)の思惑がからんでいるようです。
政元さんの人となりについては、そのご命日の日に書かせていただきましたが(6月23日参照>>)、彼は、初めて、管領の上司である将軍を、自分の意のままになる人物へと交代させで自らが実権を握るというクーデターを決行(4月22日参照>>)し、戦国の幕を開けた人であります。
山城の国一揆が文明十七年(1485年)。
今回の長享一揆が長享二年(1488年)。
そして、政元のクーデター・明応の政変が明応二年(1493年)です。
・・・で、先ほどの山城の国一揆の守護・・・もともと一揆が勃発した時には、その国人たちの行動を容認していたはずの政元が、クーデターを決行した途端、そのわずか4ヶ月後に、新たな守護を派遣して、終了に向かわせているのです。
要は、天下の実権を握った今、山城の国一揆は利用価値がなくなったという事でしょう。
では、加賀一向一揆は?
政元のクーデターは、第10代室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)を追放して、自分の思い通りになる足利義高(後の義澄)を第11代将軍に擁立したわけですが、この追われた前将軍・義稙が潜伏して、あわよくば京へ戻ろうと画策していたのが北陸・・・しかも、この義稙に味方していたのが、かの富樫泰高・・・。
つまり、政元は、義稙に挽回させないためにも、泰高を守護とは認めたくなかったわけです。
しかも、加賀の一向一揆の勃発直後に、その事に激怒とた9代将軍・足利義尚(よしひさ)が、蓮如に対して加賀の本願寺門徒への破門を要求した時、間に入って将軍の怒りを収めたのが政元であった事で、以来、蓮如と本願寺自身は政元に協力的な立場をとっていましたから、ここは一つ、飾り物の守護には、そのまま飾り物でいていただいて、実質的な権力は加賀一向一揆が持つ形にして、本願寺を通じて一揆の動向を見ていくって事でいいんじゃないの?
・・・てな形で、一揆を容認したという事なのではないでしょうか?
これによって、本願寺は加賀国主としての地位を得て、やがて訪れた群雄割拠の時代には、すでに戦国大名と匹敵する地位が確立されていたという事なのでしょう。
確かに、下克上の乱世ですから、地元の国人の中にも「戦国大名に成りあがりたい!」と考える者もいたでしょうが、ここまでになると、容易に手が出せるものではありません。
たとえ、加賀の一向一揆を倒しても、もはや本願寺門徒は各地に存在するわけですから、彼ら全員・・・つまり、全国の本願寺門徒を相手にしなくてはなりません。
隣国・越前(福井県)の朝倉氏も、たびたび進攻してくる加賀一向一揆と戦い、ある時は勝利したりもしますが(8月13日参照>>)、結局は、自国の領土を守るだけで精一杯で、加賀一向一揆を潰す事はできなかったわけです。
そうして100年の長きに渡って、加賀を支配した一向一揆でしたが、やがて、100年後に、全国の本願寺を相手に戦える脅威の武将が登場します。
ご存知、織田信長・・・彼は、本願寺の本拠地である大坂の石山本願寺を押さえ、第11代法主(ほっす)・顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)に、自ら全国の本願寺門徒に武力蜂起の停止を呼びかけさせる事によって、加賀一向一揆に終焉を迎えさせるのです(3月9日参照>>)。
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コメント
信長さんの政教分離が有って今日の日本があるってもんですね~。ヨーロッパは法王と諸侯の争いも有りましたが、結局、現在にまで残っています。 あ~あとは、官公の遣隋使廃止が、独自な日本文化を育んだのと思います~。世界の中でも稀な国家となった事は、このお二人のおかげの様に感じます。
投稿: 山は緑 | 2009年6月 9日 (火) 20時06分
山は緑さん、こんばんは~
政教分離に関しては、やはり、信長さんがとび抜けていると思います。
なんだかんだ言っても、この後の秀吉さんも、家康さんも、宗教への弾圧を行いますが、信長さんは、武力に対しては武力行使しますが、宗教そのものを弾圧する事はなかったですもんね。
投稿: 茶々 | 2009年6月10日 (水) 01時02分