猛将・畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦
元久二年(1205年)6月22日、頼朝亡き後の武蔵二俣川の合戦で、畠山重忠が討死しました。
・・・・・・・
畠山重忠(しげただ)は、武蔵国(埼玉県)秩父を本拠とする豪族・畠山重能(しげよし)の息子・・・大力で名を馳せた彼も、まだ初々しい17歳の頃、伊豆蛭ヶ小島で流人の生活を送っていた源頼朝が、平家打倒の旗を揚げたのです(8月17日参照>>)。
京の都で大番役という役職についていた父の影響を受け、彼は、平氏の一員として腕を揮います。
由比ヶ浜では、母の実家である三浦氏と戦い、その三浦氏の衣笠城を攻め、祖父にあたる三浦義明を死に追いやりました(8月27日参照>>)。
しかし、そんな重忠が、途中で頼朝傘下へと降ります。
すでに勇将として知られていた彼の行動で、相模国(神奈川県)の武将は次々に頼朝への帰順を表明したと言います。
寝返りっちゃー寝返りですが、それは、この先の関東一帯の情勢を見据えての行動・・・考えてみれば、頼朝は流人の身分なのですから、それまでは、皆、平氏=同族の武将であるわけで、もともとは、嫁・政子の実家のあの北条氏だって平氏なわけですから・・・(平忠常の乱の系図を参照>>)。
その事は、頼朝も充分承知・・・むしろ、「心強い男が味方に加わってくれた」とばかりに彼を重用します。
その期待に応えるかのように、重忠も、木曽義仲の討伐や平家追討に大活躍!
あの宇治川では先陣を名乗り出て、いち早く川に飛び込んだり(1月17日参照>>)、一の谷の鵯越では愛馬を背負って駆け下りたり、ことごとく対立する源義経と梶原景時の一触即発の口論の場では、二人を抑える潤滑油の役割も果たしていました。
無事、平家を倒して、源氏の世となった後に、一度、謀反の疑いをかけられた時は、正々堂々と頼朝の前に出て、揺るぎない忠誠心を見せ付けて、主君・頼朝を感動させました。
しかし、鎌倉幕府の大黒柱であった頼朝が亡くなって(12月27日参照>>)から、政情は大きく変わります。
頼朝の息子・頼家(よりいえ)が2代将軍を継ぎますが、頼朝とともに苦労して平家を倒し、現在の世を勝ち取った御家人たちから見れば、その頼家も世間知らずのお坊ちゃん・・・将軍の独裁的な政治を恐れた彼らは、選ばれた御家人13名の合議制で、幕政の重要事項を決定するという先進的なシステムをスタートさせます(4月12日参照>>)。
しかし、これが、逆に幕府をおかしくしてしまいます。
実際に、合議制がスタートすると、将軍の持つリーダーとしての価値は失われ、力の強い御家人や、外戚(母方の実家)の思惑に左右されるようになり、今度は、将軍への影響を与える者の追い落としが始まります。
まずは、生前の頼朝に最も気に入られ、さらに頼家の信頼も篤かった梶原景時が、頼朝の死からわずか1年後に犠牲となります(1月20日参照>>)。
次ぎにターゲットとなったのは、比企能員(よしかず)でした。
能員の娘・若狭の局は頼家の奥さん・・・つまり、能員は、上記の外戚で、さらに、この頼家が、嫁にベッタリなものだから、その幕府内での力は、徐々に大きくなっていきます。
嫁の実家が強くなってオモシロくないのは、ダンナの実家・・・つまり、頼朝の嫁である政子と弟・義時(よしとき)、そして父・北条時政、しかも、頼家と若狭の局の間には、一幡(いちまん)という男の子も生まれていますから、このまま、その子が次期将軍となれば、ますます比企氏の天下となってしまいます。
そこで、時政は、たまたま頼家が病気にふせった事を理由に次期将軍候補として、もう一人の孫(つまり政子の子供で頼家の弟)千幡(せんまん)を立てたうえ、能員を騙まし討ちして、その後、一幡もろとも、比企氏を滅亡へと追いやり(9月2日参照>>)、未だ歳若い千幡を、3代将軍・実朝(さねとも)とし、その後見人として初代・執権の座につきました。
ただ、この比企氏への成敗・・・裏では思いっきり時政のたくらみであったとは言え、表向きは例の合議制で決まった事になっていましたので、攻撃には重忠も加わっていました。
それが、どうやら重忠にとって、本意ではなかったのかも知れません。
幕府の決定事項とは言え、あれだけ忠誠を誓った先代の頼朝の直系である一幡を死に追いやってしまったのですから・・・
重忠は、やがて、自らの館に引きこもるようになりますが、この行動が、「次ぎのターゲット=畠山」となってしまうのです。
直接の原因となったのは、時政が娶った若い後妻・牧の方の息子・平賀朝雅(ともまさ)・・・と、息子と言っても、この人は、牧の方が時政と結婚した時に連れてきた娘の夫という事で、北条とはつながりのない人なのですが、牧の方は、この義理の息子を出世させたくてたまらない・・・さらに、親子ほど違う若い嫁にベッタリの時政は、その夢を叶えさせてやりたくてしかたがない・・・
後に、時政は、自分の孫である実朝を廃して、この朝雅を将軍にしようとするくらいですから・・・その時は父の暴走にブチ切れた政子と義時によって、逆に執権の座を追われますが・・・
そんな朝雅は、元久元年(1204年)、3代将軍・実朝と藤原信清との娘との結婚が決定した時、かの姫を迎えに行く有力御家人の息子たちの1人として京へと上ります。
そして、重忠の息子・畠山重保(しげやす)も、そのお迎え役の1人として京に上ったのですが、その時、開かれた酒宴の席での事・・・
今をときめく時政を、義父に持った事で、何かと高飛車な態度をとる朝雅・・・昔からの御家人たちの息子に、あまりにエラそうに振舞う朝雅に腹を立てた重保が、「ええかげんにせい!」と注意をしたところ、口論となってしまいます。
まわりも、すぐに止めに入ったので、刃傷沙汰になる事もなく、祝宴の席でもあるという事で、その場はおさまりますが、お察しの通り、朝雅は、この事を義母の牧の方にチクリ、牧の方は時政に「このうっとぉしいヤツ、何とかしてぇ~」と猫なで声・・・
時政は、政子や義時の反対を押し切って、畠山父子の討伐へと腰をあげるのです。
それも、なかなか館から腰をあげない重忠を見越して、鎌倉で謀反が起こったとの情報を流しておびき寄せる作戦・・・詳細のわからぬまま、とりあえず「いざ!鎌倉!」と飛び出した父子・・・
まずは、由比ヶ浜で重保が討たれます。
その知らせを聞いた重忠・・・息子の死によって、もはや、これが謀略である事は明白です。
現に、家臣も、「一旦、本拠へ戻って、兵を立てなおしてから決戦に挑みましょう」と進言しますが、重忠は、それを聞き入れず、武蔵二俣川にて果敢に戦うのです。
元久二年(1205年)6月22日、こちらは、鎌倉に着いてから兵や武器の再編制があるものと信じてのにわか装備の軍、あちらは、しっかりと準備万端整えた軍・・・しかも、数の上でも、かなうわけはありませんでした。
畠山重忠・享年42歳・・・猛将の名にふさわしい、壮絶な最期は、郎党たちの涙を誘い、皆、彼の後を追って、その場で自刃したと言います。
おそらく、もはや源氏のものではなくなった鎌倉幕府に、未来を夢見る事はなかったのではないでしょうか。
しかし・・・
それでも、まだ、止まらない北条氏の御家人追い落とし作戦・・・やがて、暴走気味の父に代わって、2代目執権となった義時は、8年後、最後の大物・和田義盛に狙いを定めます・・・【和田義盛の乱】へはコチラからどうぞ>>
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コメント
いや~なかなか素晴らしい内容でした。
1.比企の乱の後「自らの館に引きこもるようになります」なるほど!
2.それで「なかなか館から腰をあげない重忠を見越して、鎌倉で謀反が起こったとの情報を流しておびき寄せる作戦・・・」を取るのですね。そこにいとこの稲毛重成が利用されるってわけですか。
3.平賀朝雅と畠山重保の口論「今をときめく時政を、義父に持った事で、何かと高飛車な態度をとる朝雅・・・昔からの御家人たちの息子に、あまりにエラそうに振舞う朝雅に腹を立てた重保が、「ええかげんにせい!」と注意をした」ああ、なるほどですね!
4.牧の方は同じ時に息子の北条政範(16歳)をなくしていますから、避難の矛先は当然畠山重保に向きますね。息子の病をほっといて何やってんだと。
私の疑問は畠山重忠を稲毛重成はなぜ裏切って重忠を呼び出すための手紙を書いたのかということです。
解釈がありましたらお願いします。
2009年6月22日 (月)のレスで申し訳ありません。
投稿: さちが丘 | 2011年4月27日 (水) 13時58分
さちが丘さん、こんばんは~
>疑問は畠山重忠を稲毛重成はなぜ裏切って重忠を呼び出すための手紙を書いたのか
確かに、疑問は残りますね~
ただし、本当に裏切って手紙を書いたのあれば…ですけど、
歴史は勝者が作るもの…負け組の言い分は残りませんからね。
まぁ、そこが推理のし甲斐があるという物ですが、推理するためには、もう少し史料が必要な気がします。
まだまだ知らない事がたくさんありますので…
投稿: 茶々 | 2011年4月27日 (水) 23時33分
今年の大河ドラマでの畠山重忠役の中川大志くんの「退場」を惜しむファンからは、「なんとか畠山重忠が生き延びてほしい」と願っているようです。
私は中川くんを将来の大河ドラマの主役候補と見ておりますので、次に大河ドラマに出る時には主演で、と思います。
投稿: えびすこ | 2022年8月27日 (土) 10時28分
えびすこさん、こんにちは~
殺陣のシーンでも中川くんのとこだけスローになったりするので、最期の場面は、きっと良い描き方になるでしょうね~
投稿: 茶々 | 2022年8月28日 (日) 05時25分