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2009年6月 2日 (火)

今日は本能寺の変~信長の首は静岡に?

 

天正十年(1582年)6月2日、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を家臣の明智光秀が襲撃する・・・いわゆる本能寺の変・・・

もう、書くのも恥ずかしいくらい、毎年のように、この日は本能寺の変を書いておりますが(それぞれは【織田信長の年表】でどうぞ>>)・・・懲りもせずに、またまた・・・本日は、この日命を落す、その信長の首について・・・

・・・・・・・・・

この日、明智光秀に攻められ、本能寺で最期をとげる織田信長に関しては、ご存知のように、「首どころか、死体らしきものすら発見されていない」というのが、歴史の定説です。

だからこそ、寺というよりは、城もしくは砦の様相を呈していた本能寺には、いざという時の抜け穴が設置されており、信長は、自ら火を放って、その地下の抜け穴がら脱出した・・・なんていう生存説まで存在するわけです。

ルイス・フロイス『日本史』にも・・・
「胸に銃弾を受けたので切腹したという者も、御殿に火を放って焼死したという者もいるが、火事が大きかったので、信長がどのようにして死んだのかわからない」
てな事が書かれていますし、

小瀬甫庵(おぜほあん)『信長記』にも・・・
「首を探したがいっこうに見つからず、光秀が大いに怪しんだけれど、遺骸らしきものすら見つけられなかった」
と、なっています。

また、『大慈院旧記』には、伊勢の星合城主・星合教房(ほしあいのりふさ)の妻の話というのが書かれていて、それによると・・・

その妻が京都見物をしていたところ日ノ岡というところで、何やら人が騒ぎはじめ、見ると、市街地の中心のほうで煙が上がっていて、どうやら都で戦いが始まった様子。

とにもかくにも、戦場のほうへ向かって歩いて行くと、誰からともなく、「明智の謀反によって本能寺が攻められている」という話を聞いて、彼女は「私は、女だが、信長様は主君にあたるお方・・・見捨ててはおけない」と、お供の若い武士を連れて本能寺へ向います。

すると、今まさに、何やら絹の包みを持った男が、本能寺の塀を乗り越えて逃げようとするところに出くわします。

「おのれ!泥棒め!」
と、彼女は、その男に斬りつけて、見事討ち取った後、男の持っていた包みを開けてみると、そこには、信長の首が・・・。

彼女は、涙をこらえながら、もう一度包みを戻し、大徳寺へ運んだという・・・で、その話を聞いた羽柴(豊臣)秀吉が、その妻を大いに褒めた・・・

・・・というのですが、これは、やはり後の創作でしょう。

なんせ、ご存知のように、その秀吉が中心となって、養子の秀勝(信長の四男)を喪主に行われた10月15日の信長の葬儀・・・

大徳寺で行われたその葬儀では、信長の遺骸がなかったために、しかたなく、信長の木像を2体造って1体を燃やして灰にし、遺骸の代わりにした(10月15日参照>>)というのですから、もし、この時、本当に、かの星合の妻が、大徳寺に首を預けていたなら、わざわざそんな事する必要ありませんからねぇ。

やっぱり、「見つからなかった」というのが本当のところでしょうね。

・・・で、この「見つからなかった」、そして「今も見つかっていない」という点から、完全否定できない、もう一つのお話があります。

Odanobunaga400a 実は、静岡に存在する「信長の首塚」・・・

静岡県富士郡柴川町の西山というところにある本門寺というお寺・・・興国四年(1343年)に日代(にちだい)が開山した日蓮宗のお寺で、重要文化財の法華経も所蔵する由緒正しき古寺です。

富士宮市北山にある本門寺と区別して、通常、西山本門寺と呼ばれるそうですが、この西山本門寺の境内にある静岡県の天然記念物に指定されている大きなヒイラギ・・・そのかたわらにある首塚が、なんと信長の首塚なのだとか・・・

その言い伝えによれば・・・

信長が本能寺で光秀の襲撃を受けた時、原胤重(たねしげ)なる人物と、その息子・清安(きよやす)宗安(むねやす)の兄弟も巻き込まれ、父と兄は討死するも、弟の宗安だけは、何とか助かり、ちょうど、その時、本能寺に居合わせた本因坊算砂(さんさ・日海)(6月1日参照>>)の指示により、父と兄の首とともに、信長の首を持ち出し、炎上する本能寺から脱出したのだそうです。

そして、駿河(静岡県)まで逃亡した宗安は、信長の首を、ここ西山本門寺の境内に埋めて、その横にヒイラギを植えたのだとか・・・確かに、現在、天然記念物のこのヒイラギは推定樹齢が400年~500年という事なので、時代的には合ってます。

さらに、この西山本門寺の第18世住職が、その宗安さんの子・日順(にちじゅん)上人というのも、何やら信憑性がなくもありません。

また、変の当日、本能寺に居合わせたという本因坊算砂・・・この人は、本行院日海(ほんこういんにっかい)の名でも知られる日蓮宗の名僧ですから、彼が、知り合いの同じ日蓮宗のお寺に逃げるように指示した可能性も、大いに考えられます。

知る人ぞ知る逸話ですが、本能寺の変の数時間前、囲碁の名手でもあるこの算砂は、信長の前で鹿塩利堅(かしおとしかた)と対局し、その時、『劫(こう・交互に相手の石1個を取り返す事ができる形)が三箇所にできる『三劫』といういつまでも勝負がつかない形になった事から、勝負は無効とされ、算砂は不思議がりながら帰った・・・とされていますが、ひょっとして、上記のように勝負が長引いたのであれば、夜遅くなってしまって、泊まった可能性もなきにしもあらず・・・

果たして、その首塚の下には、本当に、信長が眠っているのか否か・・・歴史好きの心をドキドキさせてくれる話である事は確かですね。

:;;;:+*+オマケの豆知識+*+:;;;:

ある時、信長が算砂に対して、五目置いて(弱いほうがあらかじめ盤面に5つの石を置いて対局する事)打ちはじめますが、アッという間に負かされてしまい、それ以来、信長は算砂の事を「名人」と呼ぶようになります・・・つまり、算砂が囲碁の初代・名人

その後、本因坊は子から孫へと受け継がれますが、昭和二十一年(1946年)、第21代本因坊秀哉が引退した後は、世襲制を廃止し、対局による選抜になりました。

現在は、その優勝者に与えられる称号を本因坊と称します(↑「ヒカルの碁」を読んだ人なら知ってるよネ!)

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さんこんにちは、

私のイメージでは信長さんはスパッと切れる刀、抜け穴から出て生きてる感じではない。
炎に包まれて切腹=男らしいって感じです。
でもなんか執念深そうな「イメージも持ってます。

最近女性の戦国武将fan急増だそうですね。
直江兼続さんと前田慶次さんが人気だとか
テレビとゲームの影響ってすごいですよね。

投稿: エコリン | 2009年6月 2日 (火) 13時43分

こんにちは

茶々さんは『死に様がその人の生き様を表すと思う。』とおっしゃいましたよね。私も信長は『光秀にこの首は絶対に渡さない!』という強い決意を持ちながら自害して果てたのではないかと思いました。
 信長の遺体が本能寺周辺に見当たらないとすると、やはり誰かが持って出たんでしょうか。どこに消えたのか、ミステリーですよね。
 茶々さんが光秀は信長のお気に入りだったというお話をしていらっしゃったので、私はひょっとしてこの二人の間には恋愛に近いような感情が横たわっていたのではないかしらなんて、ちょっと思ったりしました。かの伊達政宗も男色にふけったとかいう話ですし、そういうこともさして突飛なことではなく、あったのではないかと想像したものですから…。そうだとすると、光秀が本能寺に攻め入った後があまりにもお粗末だったことも説明がつきますし…。ちょっと荒唐無稽過ぎましたかしら…?(笑)
 ところで信長の正室の濃姫は信長が本能寺で討たれた時、そこにいたかどうかわからないそうですね。いなかった可能性が強いとか…。でもそうだとしたら信長の葬儀に出ていないのがおかしいという話題を民法のテレビ番組で放送していました。
 御夫婦揃って最後の時のことはわからないんですね。もっともこの御夫婦はほとんど夫婦としては没交渉だったみたいですが・・・。

   

投稿: おみや | 2009年6月 2日 (火) 15時42分

エコリンさん、こんにちは~

あのゲームでの戦国武将のカッコ良さには、ホント、びっくりですよね~

前田慶次なんて、関ヶ原の時は、もう、70歳前後のお歳をめしていて、おそらく、最近のレキジョさんたちが抱いているイメージとは、かけ離れた雰囲気なんですが、もし、「天地人」に登場するとしたら、どのような雰囲気で描くのか、とても楽しみです。

ゲームの中じゃ、みんなが30歳前後から下に見えます(笑)

投稿: 茶々 | 2009年6月 2日 (火) 17時02分

おみやさん、こんにちは~

濃姫については、信長さんとの結婚記念日の2月24日>>に書かせていただきました~
もし、まだでしたら、読んでいただけるとウレシイです。

信長が美濃を攻略した時点、あるいは斉藤道三が亡くなった時点で、用なしになったので、美濃に返されたとか、殺されたとかって話もあるらしいですが、やっぱり、政略結婚とは言え、若い二人ですから、それなりの愛おしさが生まれていてほしいですね~

私、個人的には、信長さんは、今年の大河ドラマの直江兼続より、はるかに愛溢れる人だと思っていますので、やっぱり、濃姫には、「結婚して幸せだったわ」って言ってもらいたいです~

投稿: 茶々 | 2009年6月 2日 (火) 17時12分

思い切ってその首塚と言われる所発掘してくれないかな。骨が出てきたら‘織田信成クン’に協力してもらってDNA鑑定してみる・・・なんて思いましたが謎に包まれてるところが信長らしいのかな。私も信長みたいな人ほど‘愛’あふれる人だったのでは・・・と思います。ホンと、魅力的なお方だわ・・・

投稿: Hiromin | 2009年6月 2日 (火) 21時02分

Hirominさん、こんばんは~

やっぱ、謎に包まれてるところが、また、魅力的なんでしょうね。

いろいろ妄想できますし(#^o^#)

投稿: 茶々 | 2009年6月 2日 (火) 23時44分

こんばんは
2月24日の記事は拝見しておりました。ありがとうございます。
本能寺で信長のそばにはおのうという女性がいたんですね。でもその女性が濃姫かどうかはわからないんですよね。正室ならそのように記されているような気もしますけれど、本当のところはわからないのでしょうね。
信長という人は短気ですぐカッとなり、家来を足蹴にするような人だと思っていたら、そういったことは後世の創作が多いとお聞きして信長に対する見方が少し変わりました。(笑)
歴史小説家の方が信長は桶狭間で今川義元に勝利した戦いについて、あの時は運が良かったのだと冷静に分析し、終生、その勝利をおごることがなかったと話していたのを聞いて感心したことがありました。
茶々さんが信長が直江兼続よりよほど愛溢れる武将だとおっしゃっているのは、何かきっと、それを想わせるエピソードがあるのでしょう。いずれまた、機会がありましたら御披露頂けると、嬉しいです。

投稿: おみや | 2009年6月 3日 (水) 01時30分

おみやさん、こんばんは~

濃姫のページは見ていただいていたんですね・・・失礼しましたo(_ _)o

>何かきっと、それを想わせるエピソードが・・・

手紙とかイロイロ見てそう思うんですが、一番のエピソードは、やっぱり、本日の「本能寺の変」ではないでしょうか。

戦国という乱世に、天下を掌握した人が、これほど手薄な警固で・・・他に、そんな人はいないんじゃないでしょうか?

おそらく血で血を洗う戦国に生きた武将なら、皆が声をそろえて「アホやなぁ」って言ってるような気がします。

私には、それだけ信長さんが「いい人」だったような気がするのです。

投稿: 茶々 | 2009年6月 3日 (水) 02時54分

茶々さん、
本論でなく本因坊の方が興味を持っています。
実はしないのですが碁は好きです。
川端康成の名人を愛読しています。
本因坊の称号は今大阪が所持していますね。
戦後も一度大阪が所持したのでよく似ているなと思いました。
私が幼少期は坂田藤沢時代の頃なので今と感じが違うなと思いました。
お金と時間があったら碁を学びたいと思います。

投稿: non | 2017年1月28日 (土) 17時16分

nonさん、こんにちは~

本因坊の話は、確か「本能寺前夜」にも書いたと思いますが、あとは「ヒカルの碁」でしか知らないです。
中学の時に囲碁部に入りましたが、馴染めず…ソッコーでやめてしまいました(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2017年1月28日 (土) 18時09分

茶々さん、
実は五目並べが好きなのです。オセロも好きでそういう観点から囲碁が好きになりました。
それなので坂田と言いますと王将の坂田さんでも吉本の坂田さんでもなく本因坊だった坂田栄男永世本因坊を思い浮かべるのです。

本題の静岡ですが関西からは時間がかかりますね。こだまの各駅停車でないといけません。のんびりとしたときはよいですが急いでいるときには無理ですね。車で行くのはそれ以上に時間がかかるので関西からだと不便だなと思いました。

投稿: non | 2017年1月28日 (土) 19時05分

nonさん、こんばんは~

静岡は富士山と伊豆半島くらいしか行った事ないですね~

投稿: 茶々 | 2017年1月30日 (月) 03時37分

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