第二次長州征伐~明暗分ける芸州口の戦い
慶応二年(1866年)6月14日、第二次長州征伐の芸州口の先鋒として進軍していた彦根藩・井伊隊に長州軍が奇襲攻撃・・・芸州口の戦いが開始されました。
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昨日も、周防(すおう)大島の奪回作戦について書かせていただいた第二次長州征伐・・・長州側からの名称・四境(しきょう)戦争の名の通り、朝敵・長州(山口県)は4方向から、幕府軍の攻撃を受ける形となり、それは、ほぼ同時進行で展開される事になります。
・・・で、初めてのかたは、まずはコチラ↓を・・・
●いかにして第二次長州征伐は始まったか?>>
●周防大島口・攻防戦>>
●長州の大島奪回作戦>>
すでに、読んでくださってるかたは飛ばしていただいて・・・
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・・・で、本日は、芸州口(げいしゅうぐち)の戦い・・・
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
上記の関係図を見ていただくと位置関係がわかりやすいかと思いますが、この時、幕府側の本営は広島に置かれていて、先鋒の総督を務めていたのは、紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)。
西側からの長州への進攻は、当然、下関となりますが、東側からは山陰と山陽の二つの道があります。
しかし、当時は瀬戸内という流通の要がありますから、やはり、山陽側のほうが街道も賑やかだし町も大きい・・・なので、この山陽側は攻める側に於いても守る側に置いても、最大の要所となります。
当時、広島から西へと伸びる西国街道は、大野(広島県廿日市市)へと通じ、その大野からは、山側に入って四十八坂(しじゅうはちさか)という山越えの道と、海側の港町を通って岩国へ通じる2ルートに分かれていました。
岩国城は、長州藩の支藩である吉川氏の本拠地ですから、ここが、長州・東側の最前線・・・なので、この「岩国に入れてはならず!」とばかりに、その手前の2つのルート上にある2ヶ所で、両者は激突する事になるわけです。
かくして慶応二年(1866年)6月14日朝・・・幕府軍の先鋒を仰せつかって意気揚々と街道を進むのは、彦根藩・井伊隊・・・あの井伊直政が武田から受け継いだひこにゃんでもおなじみの『井伊の赤備え(あかぞなえ)』(10月29日参照>>)でビシッと決めた一隊は、大野を越え小瀬川(こせがわ)に差し掛かります。
この小瀬川は、安芸(広島県)と周防(山口県)を分ける境界線の役目を果たす川・・・ここを越えれば、向こうは長州の領地です。
「我こそは!」と、二人の従者をともなって、先頭を切って小瀬川を渡ろうとするのは彦根藩士・竹原七郎平・・・しかし、そこへ、突然、山上に身を隠していた長州軍が、その3名を狙撃!
実は、彼ら先鋒がやって来る前に、長州の狙撃部隊は、少し上流で渡河し、すでに、山中に潜んで待っていたのです。
七郎平ら3名の死が合図であったかのように、長州軍は縦横無尽に山中を駆け巡り、微妙に身を潜めながら河畔の井伊隊に銃撃を繰り返し、井伊隊は大混乱となります。
そうです。
はなから、数で圧倒的に差のある政府=徳川幕府と戦う長州は、まともに戦っては勝ち目はありませんから、当然、奇襲の連続のゲリラ戦を行う事になるのですが、このゲリラ的作戦に供えて、軽装の軍服に、必要な物は一切持たないという身軽な状態の準備が整えられていたのです。
しかも、手にした武器は、坂本龍馬の仲介で薩摩藩から流してもらった最新鋭のミニエー銃・・・さらに、訓練に訓練を重ねた精鋭たちは、200m先に吊るされたコインを撃ち抜くという名手揃い・・・
一方の井伊隊は・・・
もはや、時代は幕末・・・関ヶ原でその名を馳せた赤備えも、今となっては・・・
馬に乗る者は横倒しとなり、海に逃げようと小舟に殺到して溺れ死ぬ者が続出する中、自慢の赤備えの具足は、逃げるに重いと、その場にうち捨てられたと言います。
そして、この井伊隊の敗走を聞いた高田藩・榊原隊・・・後方に位置していた彼らは、戦う事なく撤退する事になってしまいました。
こうして、芸州口の初戦は、長州の圧勝となり、広島へ逃げ帰った両隊は、残りの藩に大いにバカにされた・・・という事ですが、ここで、彦根藩・高田藩の名誉のためにも、一つ、つけ加えておかねばなりません。
それは、この第二次長州征伐は、長州と幕府の戦いである・・・という事です。
現在の日本という国を考えると、政府=日本で、日本という国には、日本列島のすべての地方が含まれるわけですが、江戸時代の藩というものは、あくまで独立国家であり、幕府は、それらをまとめるにすぎない物なのです。
だからこそ、薩摩藩のように、「今回はパス!」って、参戦を断る事もできたわけです(ただ、それを、許してしまうところに、幕府の力の衰えを感じますが…)。
一つ一つの藩にとっては、今回の長州征伐は、あくまで幕府の戦いの手伝いをしてるだけであって、自分たちの戦いではないのですから、ヤバくなれば逃げて当然という事になります。
戦国時代そのままの甲冑を身にまとった時代錯誤のいでたち・・・というのも、江戸時代を通じて、城の構築や改築、新たな武器の調達などを、勝手にやってはいけない事になっていたわけですから、武家諸法度の決まりの通りにしていたなら、それもある程度仕方ない事で、厳密には、最新鋭の武器を持ってるほうが違反なのですから・・・(ただ、それを、そのままにしているところに、幕府の力の衰えを感じますが…2回目)
彦根藩や高田藩に限らず、未だ多くの藩が、心の底では戦いたくないという気持ちを持ったまま、しかたなく参戦し、火縄銃と槍で戦おうとしたり、ほら貝を吹いて突撃命令を出すといった戦いかたをやっていたのが、この第二次長州征伐だったわけです。
逆に、長州から見れば、そこに食い込むスキがあったわけです。
幕府に参戦した藩が、皆、ヤル気満々で、最新鋭の武器を持っていたなら、こんな風に応戦はできず、またたく間に周防は焦土となったはずですから・・・
・・・とは、言うものの、実は、四境(4方向)から攻められた長州は、昨日の大島同様、他の場所では、すべて圧勝とも言える勝利を収めますが、ここ芸州口だけは、一進一退の戦況となっています。
井伊隊が去った後、その勢いのまま東へと向かい、安芸へと進攻しようとした長州軍でしたが、井伊隊の後を埋めるべくやってきた紀州藩・新宮城主の水野忠幹(ただもと)隊・・・当主自らが軍を率いている事でもわかるように、ここはヤル気満々で、しかも西洋式の装備を持っていました。
6月19日、四十八坂で激突する両者でしたが、長州軍がいくら押しても水野隊は撤退する事なく応戦し、結局、この場所だけは、両者引き分けの膠着状態となり、他の場所の展開へと、その結果をゆだねる事になります。
この後は、山陰の石州口(せきしゅうぐち)と、西側の小倉口・・・へと進みます(6月16日へ>>)。
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コメント
>「我こそは!」と、二人の従者をともなって、先頭を切って小瀬川を渡ろうとするのは彦根藩士・竹原七郎平・・・しかし、そこへ、突然、山上に身を隠していた長州軍が、その3名を狙撃!
書状を携えた軍使を、作法も弁えず不意打ちにて討ち取る卑怯な振る舞いは決して褒められたものじゃないし、職務を忠実こなしただけの竹原等が、小説で嘲られ、愚か者として人口に膾炙される現状はどうにも許し難いですね。
次回、芸州口の戦いに触れる機会があったら、是非、その辺りも取り上げて竹原七郎平の名誉を回復してやってください。
投稿: 野良猫 | 2013年8月24日 (土) 03時50分
野良猫さん、こんばんは~
私は小説は読まないので、その中で竹原七郎平さんが、どのような扱いになってるのかは存じあげないのですが、史実としては、その首を取った長州藩士からもその武勇を讃えられて、手厚く葬られたと言いますから、なかなかの武将であった事は確かでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年8月25日 (日) 01時54分
渡河中の、しかもアッっという間の出来事ですからね。勇者かどうか判別付く訳もなく、「武勇云々」は長州側の「軍使」を撃ち落とすという重大な落ち度、若しくは反則を糊塗する為の言い訳に過ぎません。
「軍使を討ってはならない」
これは犯してはならない戦のルールだし、梶取を射殺した源某同様、重大な違法行為です。
>私は小説は読まないので、その中で竹原七郎平さんが、どのような扱いになってるのかは存じあげないのですが
言葉足らずとなり申し訳ございません。
「元亀天正の頃の装備」と唱える司馬のお題目の受け売りで、交渉に赴いた使者を、まる功名を焦った迂闊者扱いしているのが俗世の通説、概説(教養バラエティ)ですね。
そこで茶々様のお力に縋り、そんな半可通君達の幾許かでも啓蒙できたらなぁと考えた次第です。
投稿: 野良猫 | 2013年8月25日 (日) 04時21分
野良猫さん、こんにちは~
確かに…
竹原七郎平さんは封書を高く掲げて軍使である事をアピールしていたという話もあり、そうだとしたら、当然ですが、「功名を焦った迂闊者」では無いですし、それを撃っちゃった場合、わざとなら「重大な違法行為」ですし、知らなければ「重大な落ち度」って事になりますからね。。。
おっしゃる通りかも知れません。
投稿: 茶々 | 2013年8月25日 (日) 12時40分