秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床
今や、夏の京都の風物詩ともなった鴨川の納涼川床・・・
二条あたりから五条のへんまで、ずらりと約90軒ほどが軒をつらねていて、川風に提灯が揺られるさまは、見ているだけでも涼しげです。
少し前までは、6月1日から8月16日のあの五山の送り火(8月13日参照>>)の日まで・・・というのが定番でしたが、最近では、5月1日に始まり、9月いっぱい楽しめるのが一般的となっています。
ツウの間では、5月の床を「皐月(さつき)の床」と呼び、お盆から後の床を「後涼み」、もともとの期間を「本床」と呼ぶらしい・・・
「床は、やっぱり、本床がええなぁ」って人も多いらしいですが、なかなか本格的な懐石料理に手が出ないワタクシとしては、予約もいらず、格安の値段でランチを提供してくれる5月の床はたいへんありがたい!
ちなみに、この鴨川の川床は「川床」と書いて「ゆか」と呼び、貴船・高雄では、同じく「川床」と書きますが、呼び方は「かわどこ」と呼びます。
ところで、この鴨川の川床は、いつから、どんな風に始まったのか?
もちろん、現在のような形で、お店の一部を床として、木の板を張って薄縁(うすべり・ゴザの高級なヤツ)を敷いて座敷机に座布団に・・・という形のものには、「ウチが元祖だ!」と名乗りをあげるお店もありましょうが、もともと、この鴨川の河原自体が、都の人々のお手軽リゾートであり、夕涼みの定番の場所であったという歴史があります。
現在、京都・南座の横に「阿国歌舞伎発祥の地」なる石碑が立っていますが、もちろん、現在の南座の場所のような「地」の上で、阿国歌舞伎が行われたわけではなく、阿国が本邦初でもありません。
昔の鴨川は、もっともっと幅が広く、間にはいくつもの砂州ができていて、何本にも枝分かれした鴨川がその間を縫うように走っていたわけで、そのような、だだっ広い河原や砂州に、簡単な舞台を作って、阿国歌舞伎よりも前から、猿楽などが披露されていたようです。
考えて見れば、もともと、そういった芸能は大道芸で、現在のように劇場内で披露するものではなかったわけで、都のような人のいっぱい集まるところでやりたいけど、街中でやって、予想以上に人が集まれば、近所の店屋から怒られるだろうし、かと言って、人が多く集まらないと見物料は稼げない・・・
そうなると・・・
都のすぐそばにあって、迷惑のかからないだだっ広い場所・・・う~ん、納得ですね~。
この鴨川での猿楽興行は、以前【将軍・義政の贅沢猿楽興行】(4月1日参照>>)でも書かせていただいたように、南北に流れる鴨川のあちらこちらで、阿国歌舞伎が始まる以前から行われていた事でしょう。
この義政の時は、糺河原(ただすがわら)・・・現在の、下鴨神社の近く、京阪電車の出町柳駅から橋を越えた川が枝分かれする所でしたね。
ただ、このように、以前から行われていた鴨川での猿楽興行を一変するのが阿国歌舞伎・・・それは、阿国という女性の登場と、グッドタイミングな時代の変貌が、見事に重なりあった事で、この鴨川での芸能の歴史が塗り替えられるのです。
それは、豊臣秀吉による平安京の大改造にあります。
平安京=京の都と言えば、やはり、延暦十三年(794年)に平安遷都した桓武天皇の平安京(10月22日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、現在の京都のような町を造ったのは、豊臣秀吉なのです。
この時、応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱で破壊され、昔の内裏のあたりは田んぼとなり、都は上京と下京に分断され、上下を行き交う事ができるのは室町通の一本だけという状態だったのだとか・・・(2月23日参照>>)
現在の京都市街に建つお寺で、応仁の乱以前の建物が、大報恩寺(千本釈迦堂)だけという事を考えてみても、いかに乱世の戦火がはげしかったかがわかりますよね。
そんな京都の町に、道を造り、町を造り、都らしい景観を整えていった秀吉・・・。
そして、秀吉が京都の町を造るのと同時に行ったのが、あの聚楽第(じゅらくだい)を中心に京都の町をお土居(どい)という塀で囲った事・・・(12月3日参照>>)
今や、そのお土居の跡が、とぎれとぎれに発掘されている状態で、その全貌は未だ謎ですが、おそらく、当時は、守りに弱い京都の町を、堅固な城塞都市にするがのごとく、囲まれていたわけで、そんな塀に囲まれた町から外に出るには、何箇所か作られた狭い出入口を通って外へ出なければならなかったはず・・・
ただでさえ塀で囲まれているという日頃の精神的圧迫感がある中、狭い出口を通り抜けたその先に、広々とした鴨川が流れていたら・・・もはや、それだけで、都の人々の開放感はMAXになった事でしょう。
つまり、その開放感が、たまに「多くの人が集まって芸能を見物する、都のはずれの広い場所」というのから、「一大リゾート地」へ変貌する要因になったのではないでしょうか。
そんな場所に阿国は陣取り、歌や踊りを披露する・・・阿国が最初の場所に四条周辺の河原を選んだのは、やはり八坂神社の影響があったのかも知れません。
古すぎてその歴史ははっきりしませんが、おそらく八坂神社は、平安京が平安京になる以前からあの場所にあって、八坂神社を基点に四条通りを西に伸ばした可能性が高い事を考えると、その囲われた都から、四条通を通って外に出る人の数もハンパなく多かったでしょうからね。
やがて、その開放感は、手軽なリゾートを求める人々の間で、舞台での芸能を見ながら、友人と話しながら、ゆっくりと休日を過ごす場所となっていき、そうなると、当然、そこには食事も持参する事になります。
やがて、江戸時代には、裕福な商人が、河原や砂州に床をしつらえ、取引先の接待をする・・・
その後、寛文年間(1661年~72年)に行われた大規模な治水工事で、両岸に石積の護岸ができた事で、そこに茶店や出店が出現し、現在とよく似た雰囲気に・・・
それでも、現在のような茶店の床だけでなく、河原には一般の人がしつらえた床もあり、川に足を浸しながら、夕涼みを楽しんだようです。
新撰組の前身・浪士隊を組織して、京都に乗り込んだ幕末の志士・清河八郎(2月23日参照>>)も、「京都は、食べ物の好みも、趣味もまったく肌に合わない最悪の場所」と言いながらも、この夏の鴨川の夕涼みだけは大絶賛で、「砂州をさらえて、一面に床を敷き、客を待つのはタマラン」のだそうです。
秀吉の築いたお土居が、もはやほんの少しの跡形を残すだけになった現在も、人は、開放感と涼しさを求めて鴨川に集まる・・・今も昔も変らぬ、京都の夏の風物詩です。
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