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2009年6月11日 (木)

古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!

 

天正十年(1582年)6月11日午後、尼崎に到着した羽柴秀吉の陣に、中川清秀と高山右近が合流しました。

・・・・・・・・・・

例の明智光秀の謀反・本能寺の変織田信長が倒れた後の羽柴(豊臣)秀吉中国大返し・・・この時の、諸将の動きについては、すでにいくつか書かせていただいておりますが、同時進行でイロイロと動きまわられるので、とりあえず、流れをまとめてみますと・・・

2日 早朝 光秀 本能寺で信長を襲撃の後、二条御所の信忠を襲撃
  午後 光秀 安土に向かうが瀬田橋が落とされていたため、断念して坂本城へ入る
  家康 飯盛山(四条畷市)で本能寺の変を知り、交野にて一夜を明かす(伝承)
3日   光秀 佐和山城・長浜城など近江各地の城を平定しながら諸将に手紙を書く
    勝家 魚津城を落す
    家康 津田・穂谷を抜け宇治へと向かい宇治田原で宿泊
  秀吉 本能寺の変を知る
4日   秀吉 備中高松城を攻略
    勝家 本能寺の変を知る
    家康 信楽に到着
5日   家康 伊賀越え中
6日 夕刻 秀吉 毛利の撤退を確認し京へ発つ
  秀吉 亀山城へ到着
    家康 白子浦から乗船し海路、岡崎へ
7日   光秀 安土城の光秀のもとに朝廷からの使いが来る
    秀吉 80kmを移動し姫路城へ到着
    家康 岡崎へ到着
8日   秀吉 姫路城で軍を休息させる
9日   秀吉 姫路を発つ
10日   光秀 秀吉がまもなく尼崎へ到着の知らせを聞き京を発つ
    秀吉 移動中
11日   秀吉 尼崎へ到着

・・・てな感じになります。

個々の出来事につきましては・・・

・・・で、天正十年(1582年)6月11日、上記の通り、秀吉は尼崎に到着し、一方の光秀は洞ヶ峠に陣を置く(2007年6月11日参照>>)という事になります。

・‥…━━━☆

そして、ちょうど、この頃の事でしょうか・・・有名な『太閤記』には、京都から移動中の光秀のもとに、「チマキ」を献上に行った農民たちの話が出てきます。

「戦いに勝てますように」との祈りを込めて、農民たちが持ってきたチマキを受け取った光秀は・・・

「おぉ、みんなよぉ聞け!
主君に悪行があった時は、その主君を殺すのは、この国だけやない。
中国でも、昔、悪名高い主君を倒し、民衆を救って周王朝を開き、860年もの長きに渡って平安をもたらした者がおるんや。
俺も、京都の町に平和をもたらしたんゾ~!」

と、声高らかに宣言しますが、なんと、そのチマキの包みを開けずに、そのままパクリ!

見た目は平静を装っていても、内心はドキドキ・・・心の動揺を隠しきれなかった光秀の様子を見た農民たちは・・・

「大将がアレでは、明智は負けやなぁ。
こんな軍のところにいててもしゃぁない・・・行こ、行こ」

と、さっさと立ち去ったのたとか・・・

・‥…━━━☆

・・・と、長い長い前置きをしていましたが(前置きやったんかい!)、今日、お話したいのは、これら一つ一つのストーリーではありません。

上記の逸話の中の農民のセリフをお聞きになって、どう、思われました?

どう考えても、この先の合戦の勝敗を知っている人のセリフですよね。

Aketimituhide600 確かに、この時、すでに秀吉のところには、続々と助っ人が駆けつけ、光秀のところには地元のわずかな味方しか来ていないわけですから、その事を踏まえれば、ある程度、この先の山崎の合戦の予想がつけられるかも知れませんが、それこそ、ヘリでも飛ばして、秀吉の陣から光秀の陣までを駆け巡り、両方の様子をほぼ同時刻にでも観察しなければ、そんな事は不可能ですよね。

つまり、この逸話は、この後の歴史を知っている人が、後世に付け加えた可能性が高い・・・もちろん、すべてがウソだとは言いませんが、少なくとも、最後の農民の勝敗予想は、結果ありきの発言のように思います。

実は、この『太閤記』には、この後、織田家家臣内のトップ争いの場となる賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)のお話も出てくるのですが、そこでは、勝家の敗因として「柴田勝家の撤退命令も聞かず、先走りすぎた佐久間盛政が無謀の攻撃を仕掛けたのが敗因である」てな感じの事が書かれています。

そのため、今、現在でも盛政は愚将扱いされ、さらに、部下をちゃんと管理できなかった勝家の評価までもが低いのが現状です。

しかし、以前、【前田利家の戦線離脱】(4月23日参照>>)のところでも書かせていただきましたように、私自身は、賤ヶ岳での勝家の敗因は、中国大返し並みのスピードで秀吉が美濃から戻ってきた事と、その利家の戦線離脱にあると思っています。

特に、利家の戦線離脱によって柴田軍の足並みが乱れ、形を整えたままの撤退が出来なくなった事が大きいように思います。

しかし、『太閤記』には、そうとは書いてない・・・

実は、この『太閤記』を書いた人・・・小瀬甫庵(おぜほあん)という人なのですが、この人は、この『太閤記』を書いた時は、前田家に籍を置いていた人なのです。

そうなんです。
出版社なんてない昔は、不特定多数の読者を対象にして本を書く・・・なんて事はないわけで、大抵は、この甫庵さんのように、どこかの大名に仕えて、その大名をスポンサーとして書くわけです。

たとえば、昔の画家の場合も、自分で好きなものを好きなように描いて、その絵が高く売れてプロとして生計を立てられるなんてのは、ごく一部の有名な画家さんだけで、それができない場合は、好きな絵を描きつつも、貴族やお金持ちの注文を受けて、その肖像画を描いたりして報酬を得るわけです。

当然、そういう場合は、相手をメッチャ男前、あるいは美人に描かなくては、高くは買ってもらえないわけで、実際よりは、数段、美しく描く事になります。

つまり、このような書物にも、そういう脚色がしてあるのでは?・・・いや、おそらくしているものと思って見てよいと思います。

確かに、利家は、勝家の家臣ではなく、織田家の家臣・・・ともに織田家の家臣である秀吉の味方をしようが、勝家の味方をしようが自由なわけですが、最初っから秀吉に味方していたならともかく、戦場に出てからの、いきなりの撤退は、なんとなく、ルール違反の臭いがします。

裏切り・寝返りとまではいかないまでも、やっぱり、コスイというかズルイというか・・・そんな印象が拭えません。

だから、利家の撤退の事はサラッと書いて、「最大の敗因は盛政と、それを止められなかった勝家」という事にしておかなくてはならないのです。

そして、もちろん『太閤記』ですから、そのご主人様である利家が味方した秀吉も、強くかっこよく書かなければ・・・そうなると、自然と、敵である光秀をかっこ悪く書かなくてはならないわけです。

これらの歴史的文書というものは、この『太閤記』に限らず、そして、この時代に限らず、たとえ、一級の史料と称されるものでも、その時代背景と、書いた人物の立場というものを踏まえながら、読み解いていく事が重要なのです。

たとえば、冒頭に書いた本能寺の変の後の7日の出来事・・・安土城にいた光秀のもとに朝廷からの使者がやってきています。

この事は、その使者であった吉田兼見(かねみ)の日記に書かれているのですが、「訪問して談笑した」という事以外は、すべて削除されているのです。

おそらくは、そこには本能寺の変が謀反ではなく革命の類であるとか、光秀を新たなトップとして認めようかといったような内容が書かれていたからこそ排除しなければならなかったのではないでしょうか。

このように、日記でさえ、後世に力を持った人間によって書き換えられるのですから、古文書というものも、やはり・・・。

以前、【信長とキリスト教】(4月8日参照>>)でご紹介したフロイスの見た信長・・・果たして本当に信長は神になろうとしていたのか?

また、【比叡山焼き討ちは無かった?】(5月12日参照>>)で書かせていただいたように、信長の魔王のような殺戮は、敵である延暦寺の僧が流した噂を書いただけではないのか?

かと言って「そんなんだったら、何も信用できない!」・・・というのではありません。

必ず、その中には真実の部分もあります。

書いた人物の立場から、時代の背景から、何が本当で、何が違うのか?を読み解く・・・

特に、敗戦後、その地位も名誉も失くしてしまった、信長・光秀・勝家、関ヶ原後の豊臣家などに関しては、注意深くその真意を探っていきたい!

それこそが、歴史を楽しむ醍醐味のような気がします。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

う~ん ほんのチョット前の、日中戦争とか、朝鮮統治とかも一緒ですね~。情報が錯綜して、ほんとのことを云っているのは誰~?って感じです。(本当のことは解らないのかもしれないですね~)

投稿: 山は緑 | 2009年6月11日 (木) 08時08分

おはようございます。
お書きになっているとおり、まさに醍醐味です。書かれたものの後ろにある時代の流れや、行間ににじみ出る書き手の思いに、何かを感じる、そういうところに歴史を知る面白さを感じます。
確か、信長さんだったと思いますが、その時々の事情が変わっていたことを窺わせるように、文書に署名した「氏」が源→平→源と変わっているというのを以前テレビで見ました。「魔王」信長もかわいらしいことをなさってますね。

投稿: おきよ | 2009年6月11日 (木) 09時12分

山は緑さん、こんにちは~

そうですね、きっと真実はわからないですね。

先日、放送されたNHKの「歴史ヒストリア」の水戸黄門の回で、最後に、「大日本史」の編さんに対する黄門さまの言葉として紹介されたのが
「おそらく、一生かかっても本当の歴史はわからないだろう。しかし、きっと後世に、もっと頭の良い人が登場して真実を明らかにしてくれるかも知れない。その人のために、今、わかる事を残しておこう」
(↑一度しか聞いてないので、はっきりと覚えていません・・・こんな内容だったという感じでいてください)

いい言葉だと思いました。

投稿: 茶々 | 2009年6月11日 (木) 11時45分

おきよさん、こんにちは~

信長さん・・・
>「氏」が源→平→源と変わっている

確か、一時、「藤原」も名乗っていたと思います。

おっしゃる通り、魔王のわりには、けっこう天皇家を気にしてますよね。

投稿: 茶々 | 2009年6月11日 (木) 11時50分

茶々さん、こんばんは!

さて、今日の「江」、賤ヶ岳~北ノ庄が描かれましたね。マイナー好きとしては佐久間玄蕃盛政(山田純大さん)映るかなぁーと見守ってましたが、岐阜から引き返してきた秀吉に驚き撤退するシーンでのアップのみ(笑)まぁ、仕方ないんですけどね、勝家メインやし…

さて、この佐久間玄蕃、捕らえられた後、秀吉によって宇治川の対岸・槇島で斬首されちゃうのですが、その付近に胴塚が埋葬された、って伝承が残っています。

その胴塚=玄蕃塚っていうのですが、何と現在住んでいるアパートから100m圏内にあったそうなんですが、バブル期の宅地開発ラッシュで見事に何処にあったのか判らない状態…古地図などを基に場所を探ってますが、なかなか見つかりません(…悔しい!)

ただ言えるのは、玄蕃塚があった場所に現在住まわれている人は恐らくっそんな事知らないだろうし、業者も供養もせんと宅地造成してるだろうから、ある意味“祟り”があってもおかしくない…

それでなくても、この辺りって河川の水位も低く、流れも緩やかで向こう岸に渡るにはもってこいな場所で、源平争乱の橋合戦の頃から承久の乱を経て槇島城合戦に到るまで、一番の激戦区だったんですよね。(それを表すのが、宇治川の支流である戦川=たたかいがわ=という名称にでてますし…)

そんな訳で、この付近は亡くなった武者たちや巻き添えを食った民衆らの“恨みつらみ”がうじゃうじゃ溢れてるんですよ!

投稿: 御堂 | 2011年3月20日 (日) 20時56分

御堂さん、こんばんは~

やっぱり合戦シーンは、あまり無かったですね。

佐久間さんが宇治川に眠っておられるとは!!

古地図をたよりに…なんて、ワクワクしますね。

宇治川…って、
橋姫のところに、住吉の神が通う日は、川面にさざ波がたつとか…もうその時点で不思議さ満開!神秘的です。

投稿: 茶々 | 2011年3月20日 (日) 22時16分

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