時間にキッチリ?奈良の都の勤め人~時の記念日
ご存知、今日、6月10日は『時の記念日』です。
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『日本書紀』の天智十年(671年)の四月二十五日のところに、「漏刻(ろうこく・洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」と書かれてあり、この日づけを太陽暦に換算すると6月10日になる・・・というところから、大正九年(1920年)に「時間を守り、欧米のように生活の改善・合理化を図ろう」と制定されたのが『時の記念日』です。
上記の漏刻というのは、天智天皇が皇太子時代の斉明六年(660年)に造ったとされる「水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステム」の事ですが、長年、日本書紀の記述のみで、どのような物なのかが謎だったところ、昭和五十一年(1976年)に、奈良県明日香村での水落遺跡の発掘によって、その詳細が明らかになったものです(4月25日参照>>)。
・・・て事で、本日は意外に時間に縛られていた奈良時代・平城京の勤め人のお話・・・。
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上記のように、天智天皇が、明確に時を知らせるシステムを作っちゃったもんだから、その時から、宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになりました。
特に、平城京へと都が遷ってからは、陰陽寮(おんみょうりょう)という専門職の人が、キッチリと時間を計ってキッチリを鐘を打つし、さぞかし慌てさせられた事でしょう。
以前、【昔の人口は?】(1月29日参照>>)のところで書かせていただいたように、この時代の平城京の総人口は約20万人足らず・・・そのうち、朝廷へ出仕する役人は、1割に満たないくらい(あくまで予想です)・・・。
その中でも、上級の役人は、都に永住していましたが、下級役人の多くは地方に本籍を置いたまま、言わば単身赴任の形で、年2回の特別休暇の時は、地元に帰って農業の手伝いなどしなければならず、けっこう大変だったようです。
もちろん、以前【今も昔も役人天国】(8月3日参照>>)でも書かせていただいたように、その給料も、上級と下級では雲泥の差があり、役人と言えど下級の人は、お気の毒なくらいの状況でした。
例の漏刻のおかげで、現代で言うところのタイムカード制が導入されていたという事ですので、おそらく、時間に関しても・・・
それこそ、上級なら、重役出勤も当たり前なんでしょうが、下級だと、そうはいきません。
朝は、午前6時半に内裏朝堂の大門が開き、即、文書作成や書類への捺印などの作業に取り掛からねばなりません。
ただ、正午には、その漏刻での太鼓の音が鳴り響いて終業となります。
つまり、仕事は午前中だけ・・・でも、これは基本的に・・・というのがついてまして、やっぱり、ここでも、下級の役人たちは、けっこう遅くまで残業しなければならない状況だったようです。(←サービス残業、ハンタ~イ!)
中には、残業しても正規の給料だけではやっていけず、さらに夜遅くまで写経のバイトをして、日々の生活の足しにしながら、土間にムシロ一枚というわびしい居室に、ごくわずかの日用品を置いただけの場所で、毎日、泥のように眠っては、翌日出勤する・・・といった人も多かったようです。
当然ですが、有給休暇はありませんので、いくら疲れていると言っても、欠勤すれは、即、給料に響いてきますから、彼らは、仕事を休むにも、事前の「欠勤届」なるものが必要だったようです。
あの正倉院には、そんな彼らの「欠勤届」も残ってます。
まずは、2行くらいで、その休む理由を書くのですが、多いのは、やはり「身内の不幸」や「法事」・・・(今も変らん)
さらに、「家屋の修理」や「盗難に遭った」・・・中には「衣類の洗濯」って、いかにも単身赴任っぽいのもありますが、そんな欠勤理由の後に、「仍具事状(よってことのじょうぐす)謹解」としるし、最後に、その日づけを書いて提出します。
正倉院の文書には、その後に書き込まれたと思われる「○月○日参」という、新たな日づけ・・・つまり、ちゃんと休んだ後に、予定通り出勤したかどうかが書かれていて、やはり、予定以上の欠勤が、後日の給料の支給に影響してくる事がわかります。
そんな、下級役人の、数少ない息抜きと言えば・・・お昼頃から日没まで開かれていた東西2ヶ所の「市」。
西市は右京八条二坊・・・現在の薬師寺のちょい南あたりですね。
東市は左京八条三坊・・・大安寺の少し南あたりかな?
(平城京は東西に10本の条・南北に9本の坊という大路で区切られていました・・・2月15日参照>>)
そこには、決まった店舗を持つ商人だけではなく、行商人も多くやって来て、食料品や日用品はもちろん、薬や牛馬まで売られていて、たいそう賑やかだったのだとか・・・
テンポの効いた客引きや、行商人のここち良い売り声・・・
時には、唐渡りの高級な絹で目の保養をしつつ、巧みな大道芸を楽しみ、夕暮れ迫る都の空の下、ちょいとだけお酒を飲みながら・・・
ガード下の赤ちょうちんに集う現代サラリーマンのように、彼らも、帰りの時間を気にしつつ、明日の日本を語ったのでしょうか・・・
何となく、身近に感じますね。
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コメント
へぇぇ~・・・いつもながら楽しくためになる情報です。そんな昔から日本人は時間厳守の気まじめ勤め人だったのですね。人間っていつの時代も変わらない、ご先祖様、御苦労さま。我々もがんばってますよ~。(私のご先祖様はそんな偉い役職じゃないだろうが、その分大変な思いで働いていたろうな・・)
投稿: Hiromin | 2009年6月10日 (水) 20時18分
Hirominさん、こんばんは~
最後の何行かは、文章を書いているうちに、その情景が浮かんできて、「今と変わらないんだろうなぁ」なんて想像してつけたしてしましました~
>ご先祖様、御苦労さま
ホント、そう思いますね~
投稿: 茶々 | 2009年6月10日 (水) 22時38分