小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦
天正十八年(1590年)6月23日、この年の3月から開始された豊臣秀吉による小田原征伐に於いて、別働隊による八王子城攻撃が開始され、この日のうちに八王子城は陥落しました。
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すでに、たびたび書かせてはいただいておりますが・・・
天正十三年(1585年)に四国を平定し(7月25日参照>>)、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定した(4月17日参照>>)豊臣秀吉・・・その間に、越後の上杉景勝(かげかつ)に上洛を要請して臣下におさめ(6月15日参照>>)、徳川家康をもまんまと配下に加えました(10月17日参照>>)。
残るは、関東と東北ですが・・・
こちらには、やはり天正十四年から十五年にかけて、関白の名において『関東惣無事令』と『奥両国惣無事令』発布します。
『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いを禁じる」という事で、未だ実質的には配下に治めていない関東と東北に対してのこの令は、まさに、豊臣政権下でこの国を治めるという天下統一の号令でもあります。
そんな中で、未だ関東での勢力を維持し、再三に渡る上洛要請をダラダラと先のばしにする北条は、秀吉にとって目の上のタンコブだったわけですが、ラッキーな事に、その北条が、天正十七年(1589年)10月23日、真田昌幸配下の名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取するという事件を起してくれます(10月23日参照>>)。
上記の『関東惣無事令』に違反してます。
北条を攻める大義名分を得た秀吉は、早速、11月24日には北条氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつける一方で、配下におさめた諸将はもちろん、東北の武将たちにも出陣を要請・・・
未だ、秀吉の配下となっていない東北の武将にとっては、これは秀吉につくか?敵対するか?の二者択一の難問でもあったわけですが、12月10日に京都の聚楽第(じゅらくだい)で開かれた軍儀では、「出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする」という文言を決定し、まさに、その姿勢を問うたのです(12月10日参照>>)。
かくして、その期限通り、3月1日に京を出陣した秀吉は、小田原征伐を開始(3月29日参照>>)・・・4月3日は小田原城を包囲しました(4月3日参照>>)。
小田原城は、かつて、あの武田信玄も上杉謙信も落せなかった天下の名城・・・当然、その事を百も承知の秀吉は、小田原を見下ろす石垣山に有名な一夜城を構築して(6月26日参照>>)、はなから長期戦の構えで挑む一方で、別働隊による関東一円の北条配下の支城への攻撃を開始します。
北陸から参戦した秀吉の親友・前田利家を大将とする北国連合軍は、2月15日、信濃松代城にて、越後の上杉景勝、真田昌幸と合流して東山道から挑みます。
前田隊=約1万8千、上杉隊=約1万、真田隊=約3千・・・総勢・3万5千の堂々の別働隊は、碓氷(うすい)峠から北条領内へと侵入し、まずは、その国境を守る松井田城(群馬県安中市)を攻撃します(4月20日参照>>)。
この時、今年大人気の景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)は、城下を焼き討ちしたり、再三に渡って城の外郭に突撃したりと、なかなかの活躍をしてくれたようですが、大河ドラマでは、きっと、一般市民を焼き討ちなんてアコギなまねはしないんでしょうねぇ・・・。
・・・で、結局、激戦の末、4月22日・・・北条の重臣であった城主・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は降伏し、松井田城は開城となります。
この頃には、すでに小田原城の包囲を固めた事もあり、もともと本隊であった浅野長政や木村吉清といった秀吉直臣や、徳川家康配下の本多忠勝や鳥居元忠といった面々も、北条の各支城の攻略に当たっています。
ちなみに、館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市)を攻略(5月29日参照>>)した石田三成が武蔵忍城(おしじょう)の攻撃(6月9日参照>>)へと向かったのも、この頃です。
松井田城の次ぎには、北条氏康の四男・北条氏邦の籠る鉢形城(埼玉県大里郡)を攻める別働隊でしたが、強固な防備に阻まれ、北国連合軍は大苦戦してしまいます。
結局、最後は、徳川配下の忠勝らの助けを借り、ようやく6月14日に降伏・開城させますが(6月14日参照>>)、この時は、さすがに秀吉お気にの兼続も、こっぴどく怒られたようです。
かくして、いよいよ天正十八年(1590年)6月23日、次ぎのターゲットとして北条氏照(北条氏政の弟)が城主を務める八王子城へと攻撃を開始するのです。
この八王子城は、標高445mの山の上の構築された山城で、東西2km、南北1kmに渡る広大な敷地を持つ、言わば戦国山城の完成形ともいえるものでしたが、城主・氏照は、ただ今、小田原城にて籠城中・・・留守を預かるのは、家臣の狩野一庵(かのういちあん)以下、わずか1000名・・・
しかも、その中には、大軍の接近を聞きつけて、急遽集められた領民の奥さん&子供が多数含まれており、とてもプロの戦闘員を相手にできる体制ではなかったのです。
まずは、6月23日未明・・・
先日、豊臣に降ったばかりの松井田城の大道寺政繁が先鋒を務め、大手門から突撃・・・北条勢は早くも城の奥へと退き下がる以外にありませんでした。
八王子城は、本丸を中心に構成された要害地区と、その手前にある住居地区の二つに分かれていたのですが、前田隊は、その住居地区の中心にあたる金子曲輪に突入・・・さらに後退する城兵は、自然と要害地区へと追い込まれます。
前田隊が、金子曲輪で金子家重らを討ち取っている間に、直で、山頂の本丸方面に向かった上杉軍は、北条勢をさらに追い込みます。
やがて、乱戦の中、多くの兵士とともに一庵が討死すると、残った兵も、果敢にアタックして討死するか、主君の後を追って自刃するか・・・
さらに、非情な攻撃を仕掛ける上杉軍の前に、討死も自刃もできない領民の妻や子は、皆、櫓のそばにあった御主殿の滝に身を投げたのだとか・・・
こうして、わずか一日で決着がついた八王子城の戦いは、非戦闘員の婦女子を含む全員が死亡するという小田原攻めで最も悲惨な戦いとなりました(2012年6月23日も参照>>)。
さぁ、この八王子城の一件を、今年のラブ&ピースのいい人兼続は、どのように処理してくれるのか?
とても楽しみです。
できるなら、戦国の空しさ悲惨さを含む、ちゃんとした理由での戦いに持っていっていただきたい・・・くれぐれも、兼続の預かり知らぬところで、誰の仕業かもわからぬまま、勝手に殺戮が行われたってな事にはしないでね!
まさかのナレーションスルーも無しヨ!
追記:小田原攻めは、この八王子城陥落の後、7月5日の小田原城開城(7月5日参照>>)へと向かう事になります。
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コメント
茶々さん、こんにちわ!
>できるなら、戦国の空しさ悲惨さを含む、ちゃんとした理由での戦いに持っていっていただきたい・・・
同感です。
(可能性は低いですが)”とんでも話”がもしかしたら史実かもしれない!
そんな奥の深い歴史・・・。真実はその時代を生きた人々にしか分からない。
それだけに現代人である私達は、そんなロマン話にワクワクするのだと思います。
特に私は、とんでも話推奨派でして・・・(笑)
大河ドラマもドラマなだけに、多少の美的脚色は有り。だと思っているのですが、
”綺麗事だらけ”というのもいかがなものかと思います。
別に大河を否定している訳ではないのですが、あまりにも愛満載、ツッコミ所満載なだけに・・・(汗)
”戦国の空しさ悲惨さ”は、戦国武将の武勇伝や感動巨編の裏にある切っても切り離せない事だと思います。
戦いがあったからこそ、平和な世がある。
どれだけの人々が犠牲になってきた事でしょう。
歴史話をする上で、それは大切な事だと私は思います。
茶々さんのお話は毎日食い入るように拝見させていただいてます。
特に、”とんでも話”は「こっ・・・、こう来るか」と、驚き・絶賛です☆
喜怒哀楽な出来事を事細かに紹介していただけますので、あらゆる視点から物事を考える事ができます。
先日(2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待)のコメントにて、
春日局さん悪役仮説に「ヨヨヨ」と嘆いていた私ですが、
お江さんの人生を語るに必要な事であり、それが現実。有りだと思います(我慢します:笑)
”天地人”は諦め、今は見止めてしまってますが、今後のストーリー展開においては
何卒、胸打つ何かを宜しくお願いしたいものです。
長々とすみません・・・読んでいただき、ありがとうございました。
投稿: おふく | 2009年6月25日 (木) 16時35分
おふくさん、コメントありがとうございます。
同感ですね・・・
本来、平時なら罪となる行為を行った者が英雄と呼ばれるには、そこに、譲れない何かがあり、心を鬼にしてまで実行しなければならない事があるからだと思います。
戦国モノの魅力は、武将のカッコ良さとともに、その心の描写もカッコ良く描き出す部分にあると思います。
なかなか難しいですが、何とか、うまいこと軌道修正をお願いしたいですね。
投稿: 茶々 | 2009年6月25日 (木) 23時07分
こんばんは。
私も今年の天地人には違和感を感じています。上杉は徹底的に善で、信長や秀吉側は悪く描写されすぎ。まあ、あれはあれでわかりやすいですが。
八王子攻めは原作では綺麗ごと抜きです。ちゃんと苦悩が書かれていました(但し、非戦闘員までは触れられていません)。
随分前の大河ドラマ「毛利元就」でも、最初は元就は家族・郎党のため戦うと理想を掲げていました。しかし、いつの間にか史実に近い?冷酷な謀略家になっていました。
兼続にもぜひ豹変してほしいです。大体、戦以外の政治の話ですら綺麗ごとだけでは済まない現実は沢山あるはずで、その辺りの現実を描くことでドラマが深まると思います。八王子攻めはきちんと現実を描いてほしいものです。
そういえば、例の前田慶次は、原作では松井田城で初めて出てきます。ほんの数行だけ。原作は会津移封あたりまで読みましたが、そこまで行っても2回目の登場がありません。大河でも兼続が上洛してから出てきませんし、松井田城攻めで出てくるとも思えないので、慶次は多分スルーなんでしょうね。それもなんだか寂しいですが。
長文失礼しました。
投稿: おみ | 2009年6月26日 (金) 01時21分
おみさん、こんばんは~
そうですか。
原作では、ちゃんと八王子城の事が描かれているんですね。
なら、大河にも登場する可能性も高いかも知れませんね。
どのように描かれるのか、楽しみです。
前田慶次郎はちょっと残念ですね。
長谷堂の戦いを描くなら、出て来るものだと思っていましたが・・・
投稿: 茶々 | 2009年6月26日 (金) 03時40分