晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第二次長州征伐
慶応二年(1866年)6月16日、第二次長州征伐における小倉口と石州口での攻防戦が開始されました。
・・・・・・・・・・
- いかにして第二次長州征伐は始まったか?>>
- 6月 8日周防大島攻防戦>>
- 6月13日長州の周防大島奪回作戦>>
- 6月14日芸州口の戦い>>
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
・・・と、6月5日の幕府の宣戦布告から始まった第二次長州征伐=四境戦争ですが、ここに来て、残る2ヶ所・小倉口と石州口(せきしゅうぐち)に、長州(山口県)は同時に討って出ます。
また、いずれ、くわしく書かせていただく事もあるかと思いますが、この長州征伐・・・幕府という政府、言わば日本国という国を相手に一地方である長州が戦ったにも関わらず、結果的に兵の数が断然少ない長州の勝利となる要因の一つとして、この討って出る作戦があります。
少ない兵で大きな組織に立ち向かう時、その方法は、一点集中の守りを固めるか?、神出鬼没のゲリラ作戦に討って出るか?・・・これは、孫子の時代からの兵法の鉄則です。
その昔・・・
源頼朝の攻撃を受けた藤原泰衡(やすひら)は、天然の要害・阿津賀志山(あつかしやま)に一点集中の防御線を貼りました(8月10日参照>>)。
鎌倉幕府の攻撃を受けた楠木正成は、何度もこの方法で千早城に籠城しました(2月5日参照>>)。
石山本願寺(5月3日参照>>)、
北条の小田原城(4月3日参照>>)、
大坂の陣の真田幸村(12月4日参照>>)、
天草四郎の原城(2月28日参照>>)・・・と、どれもこれも、強固な守りとゲリラ戦を駆使して挑むわけですが、上記の中で、勝利に至るのは、正成の千早城だけ・・・
それは、強固な守り=籠城となると、その兵糧が尽きるまでに、いかに外にいる中立の立場の者を寝返らせて世間の風を自分たちのほうに向かせるか、或いは、ゲリラ戦を駆使して、いかに相手の中心部分にダメージを与える事ができるかにかかってくるわけで、それができた楠木正成だけが勝利を収めたという事がわかります。
長州の場合、すでに書かせていただいているように、薩摩(鹿児島県)が参戦を断り、幕府の権威は地に落ち、しかも参戦した多くの藩にヤル気がなかった・・・頑張れば、世間の風が、長州に吹いて来る日も近いわけですが、悲しいかな、長州には、守りを固めるべき拠点がありません。
関ヶ原で負けて以来、そのような拠点となるべき城を構築する事は許されず、難攻不落にはほど遠い萩城で、江戸時代を生き抜いて来たのですから・・・
しかし、後づけではありますが、この長州征伐に関しては、それが幸いしました。
守るべき拠点のない長州は、討って出るしかないのです。
冒頭に、幕府の宣戦布告で開始された長州征伐・・・と書かせていただきましたが、実際の戦闘を勝利に導いたのは、慶応二年(1866年)6月16日の討って出る作戦なのです。
この日、石州口の指揮をとったのは、あの大村益次郎、そして、小倉口の指揮をとったのは高杉晋作でした。
まずは石州口・・・こちらに位置するのは、福山藩(広島県)・浜田藩(島根県浜田市)・津和野藩(島根県鹿足郡津和野町)ですが、位置的にまず、ぶつかるのは津和野藩。
ところが、津和野藩は、長州の兵が領内に入ってきても、防戦どころか、「どうぞ、どうぞ」とあっさり通してしまいます。
長州は長州で、領内は通るものの城下への進入は避け、大きく迂回して通過します・・・長年隣同士で仲良くやってきた2つの藩には、どうやら、すでに何らかの約束ができていたようにもみえます。
こうして、一兵も失う事なく、津和野を通過した長州は、浜田藩との境界線・扇原関門(おうぎはらかんもん・島根県)に進みます。
ここは、浜田藩の岸静江(きししずえ)という武士が、わずかな部下と農民部隊で守っていたのですが、当然の事ながら、長州の進軍を聞いて、「この人数ではどうしようもない」と、すでに福山藩へ、援軍の要請をしていたのですが、かの福山藩からは、まったく返事も貰えずじまいで、この状況となってしまいました。
しかたなく、静江は部下と農民兵を先に逃がし、自らがたった1人で、街道に仁王立ち・・・「ここから先は一歩も通さぬ!」と、長州軍相手に大きく立ちふさがりますが、さすがに、1人では・・・
長州から放たれた数発の銃弾を受けて、戦闘らしい戦闘もなく倒れた静江・・・しかし、この身を呈しての武士らしい姿には、「敵ながらアッパレ!」と、長州の兵たちも大いに感銘を受けたと言います。
石州口では、この翌日、浜田藩領内の益田へと、さらに進んだ長州軍と、迎え撃つ福山藩の兵が萬福寺(まんぷくじ)にて交戦し、福山藩兵も決死の覚悟で戦い、激戦となりましたが、いかんせん、持っている銃が違います。
長州は600mを射程距離に収めるエネミー銃、福山藩のゲーベル銃は、その半分もありません・・・しかも、先日書かせていただいたように、長州の狙撃の腕前はものすごく、福山藩兵が、まったく届かない距離のところから、確実に大将クラスの者だけに命中させるのですから、とてもじゃないが、戦う気もうせるっちゅーもんです。
案の定、多くの者が戦意を喪失して、戦場を立ち去り、ここ益田は、長州の手に落ちました。
一方の小倉口・・・
6月16日夜、長州主力軍艦・丙寅丸(へいいんまる)に乗り込んで、田野浦湾(北九州市)に向かった高杉晋作・・・そして、もう一隻・乙丑丸(いっちゅうまる)に乗り込んで門司浦(北九州市)に向かうのは、あの坂本龍馬です。
実は、この乙丑丸は、長州が龍馬の亀山社中を通じてグラバーから購入したもの・・・常時は、亀山社中が運用し、戦時には長州に返すという約束になってたのですが、かねてから、長州の桂小五郎(木戸孝允)に、「合戦見物させてぇ~」と頼み込んでいた龍馬は、これ幸いと、乙丑丸に乗ったまま門司へ・・・。
かくして、田野浦と門司裏の両方から、同時に砲撃を開始します。
さらに、その混乱に乗じて上陸した長州兵は、幕府の砲台をぶっ壊し、兵糧や弾薬の盗み、民家に放火したかと思うと、嵐のように去っていきました。
まさにゲリラ作戦・・・なんせ、幕府には、先日の大島口にも登場した富士山丸(ふじさんまる)というスゴイ軍艦がありますから、まともに戦っては勝ち目はありません。
しかも、ここは、ご存知、あの源平合戦の最後の戦いが行われた壇ノ浦・・・お馴染みの、潮の流れがあります(3月24日参照>>)。
長州の持つ小さい舟は、それこそ、潮の流れに逆らえませんから、文字通り、潮が退くごとく兵も退くという、アッと言う間の出来事だった・・・いや、アッと言う間の出来事にしたのです。
確かに、ここも、大島口奪回の最初の奇襲と同様、幕府軍自体に大きなダメージを与える事はできませんでしたが、「たかが長州一国にしてやられた」といった精神的なダメージを与えるには充分でした。
こうして、益田を落とした石州口(7月15日:石州口・浜田城陥落へ>>)、幕府に一発をぶち込んだ小倉口(6月16日:小倉口ゲリラ作戦へ>>)・・・この先の第二次長州征伐は、更なる展開を迎える事になります。
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 「大手違い」…本当はもっと早いはずだった徳川家定と篤姫の結婚(2024.12.18)
- 幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英(2024.10.30)
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
コメント
またまたおじゃましてます。実は僕、広島人でして、第二次長州征討での芸州口が大竹と知ってびっくりしました。四十八坂や小瀬川などの自分が何気なく知ってた場所が出てくるとリアルな感じでワクワクしました。たまに釣りで行く周防大島も見方が変わりました。楽しかったです。またきますー。
投稿: いわごん | 2015年7月 9日 (木) 20時49分
いわごんさん、こんばんは~
歴史のお話の中に、ものすごくよく知ってる場所の名前が出てくると、ちょっと見方が変わりますよね(*^-^)
あの人も、ここを歩いたんだ~とか、
あの人も、この景色を見たんだ~とか、
テンションあがります!
投稿: 茶々 | 2015年7月10日 (金) 01時35分