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2009年6月24日 (水)

将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱

 

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教を自宅にて騙まし討ち・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し、さらに、後醍醐(ごだいご)天皇とモメにモメた後、京都は室町にて幕府を開いた初代室町幕府将軍・足利尊氏(たかうじ)・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

その尊氏の孫にあたる足利義満(よしみつ)は、わずか11歳で第3代将軍となり、細川頼之(よりゆき)山名氏清(うじきよ)(12月30日参照>>)大内義弘(よしひろ)(12月21日参照>>)など、有力守護を次々と征したうえ、元中九年(明徳三年・1392年)には南北朝の合一(10月5日参照>>)に成功します。

また、義満が(中国)と開始した日明貿易は莫大な富を生み、その明の皇帝への書状にも『日本国王』と署名し、まさに天皇をしのぐ権力を手に入れたのです(8月22日参照>>)

しかし、この義満の時代を全盛期に、その後は早くも室町幕府に陰りが見え始めます。

晩年は、あの北山殿(金閣寺)に引退しながらも、その権力を維持していた義満は、末っ子の義嗣(よしつぐ)を後継者に・・・と願っていたとも言われますが、それが実現する事なくこの世を去ります。

そして、これまた、わずか9歳で父の後を継いだ第4代将軍の足利義持(よしもち)は、そんな父が嫌い・・・「明に貢物を献上して、貿易させてもらってる感満載の貿易なんか、恥やんけ!」と、かの日明貿易を廃止し、ことごとく反発します(5月8日参照>>)

やがて、義持は39歳で出家して、わずか17歳の長男・義量(よしかず)に将軍職を譲りますが、その後も実権は握ったままで離さずじまい・・・

しかも将軍となった、その義量は義量で、これまた大酒飲みで仕事らしい仕事もしない・・・ってか、オヤジが実権握ったままじゃなにもできないし、そのウップンを酒にぶつけたくなる気も、わからんではありませんが・・・。

・・・で、結局、その義量は、酒飲みがたたって2年後、わずか19歳で、オヤジより先に亡くなってしまうのですが、そんな若い義量には子供がなく、しかも、この頃にはオヤジも病気がちになってしまい、次期将軍の事が急を要する大問題となります。

候補者は、義持の弟・3人なのですが、三宝院満済(さんぽういんまんさい)をはじめとする幕府首脳部が、今や死の床にある義持に、その意向を聞いても・・・
「俺が決めたって、お前らが承認せなどないもならん・・・お前らがえぇと思うヤツにしてくれ~」と・・・

3人の弟には、それぞれに有力者がついているし派閥もあるし・・・誰を選んでも、また別の誰かの派閥から文句が出る・・・託された彼らも、虫の息の彼を囲んで、「あーだ、こーだ」と議論を重ねるも決着つかず・・・(1月18日参照>>)

困った彼らはとうとう・・・

満済が義持の前でクジを作り、時の管領・畠山満家が石清水八幡宮で、それを引く・・・つまり、くじ引きで将軍を決める事に・・・

やがて、義持がこの世を去った翌日、クジを開封・・・見事当選したのは、義持のすぐ下の弟で、天台座主となっていた青蓮院(しょうれんいん)の僧侶・義円

彼は、還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、名を義教(よしのり)と改めて、第6代将軍に就任しました(2016年6月24日も参照>>)

ところで、くじ引きと聞くと、商店街のガラガラや、お楽しみスピードくじなんかを思い浮かべてしまって、つい「そんなんで決めんなよ!」と思ってしまいますが、今よりずっと神の存在が大きかった時代、神前の神聖な場所で引くクジは、神様のお告げ=神託なのですね。

ちなみに、余談ですが、後の明治天皇も、明治という元号を決めるに当たってくじ引きという方法で決定していますが、これも、「神の子孫である天皇が引く=神のお告げ」という考えのもとで、安易に決めているわけではないのです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

・・・で、この事から「くじ引き将軍」と呼ばれた6代将軍・足利義教(よしのり)ですが、その就任にあたっては、斯波(しば)畠山氏細川氏といった管領家に、「俺の承諾なく、勝手に事を決めるな」という証文を取るなど、かなり強気の姿勢を見せました。

当然、そんな強気で高飛車な姿勢は、将軍になってからも変わらず、やたらときびしい独裁政治を行うのです。

「勝手に事を決めるな」と言い放った管領家には、逆にその家督相続にまで首を突っ込んで、自分のお気に入りに継がせるし、ささいな理由で、自分の意にそぐわない貴族や大名を次々と抹殺・・・

永享十一年(1439年)には鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と、その息子たちによる永享の乱(2018年2月10日参照>>)結城合戦(4月16日参照>>)公方を滅亡に追いやります

また、そんな恐怖政治をいさめようと説教した日蓮宗の日親に対して、火で真っ赤に熱した鍋を頭にかぶせ、「もう、2度とつまらぬ説教をしないように」と、舌を切って追放した・・・なんて恐ろしい逸話も・・・

そうなると、「ひょっとして、彼の気に入らない事をしてしまったかも・・・」と、身に覚えがあったり、あるいは、そんなのがなくても疑心暗鬼になって、「次ぎは、自分が抹殺されるのでは?」と、恐怖におののく者が出てくるのは当然です。

そんな中の1人が、以前、播磨(兵庫県)の守護の座を巡って、義教のお気に入りと争った過去がある赤松満祐(あかまつみつすけ)でした。

Asikagayosinori600_2 やや、病的なくらい怯えていたとも言われる満祐ですが、巷でも、「次ぎは赤松では?」というウワサになっていたのも事実・・・「こうなったら、殺られる前に殺ったる!」と決意した満祐・・・

かくして嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐は、先の結城合戦の祝勝会と称して、将軍・義教を自らの屋敷に招いたのです。

宴もたけなわの頃あいを見計らって、庭園へと誘い出したところへ暴れ馬を放ち、ドサクサにまぎれて武装集団が乱入・・・あれよあれよの一瞬のうちに義教の首をはねたのです。

この酒宴には、管領家をはじめ有力大名や公家たちも招かれていましたが、皆が逃げ惑うばかりで、すぐに将軍の仇を討とうとする者はほとんどいなかったのだとか・・・。

さらに、直後に赤松の家臣が、「将軍だけをターゲットにしたもので、他の者に危害を加える気はない」と説明すると、皆、すみやかに退席したと言います。

これだけの独裁的政治を行った将軍・・・このような結果も自業自得といった感も拭えませんでしたが、さすがに、赤松氏という一大名が、将軍を暗殺するという事件を、そのままにしておくわけにはいきませんから、当然、他の大名による討伐軍が編制され、追い詰められた満祐は、自刃する事になるのですが、そのお話はまた、別の機会にさせていただく事にします。

この後の戦国乱世を予感させる事件でした。
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