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2009年7月31日 (金)

時代別年表:明治・大正・昭和・平成の年表

 

近代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた年表式索引=「ブログ内・サイトマップ」となっております。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時、差し込んでいくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 

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・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1877 9 4 西南戦争・終結
【城山の最終決戦】
【西郷と供に生き、供に殉じた桐野利秋】
【西南戦争が変えたもの…】
【西南戦争・全般】
10 17 東京・神田で華族学校・開校
【明治初期の学校事情】
1878 5 14 大久保利通・暗殺
【大久保の見た二つの夢~悪夢と未来】
1879 1 31 高橋お伝が斬首刑に処される
【最後の斬首・高橋お伝の話】
【役目を終えた山田浅右衛門】
8 31 坂本乙女・没
【龍馬に影響を与えた姉・坂本乙女】
1880 8 31 白石正一郎・没
【勤王の志士を支えたパトロン・白石】
10 25 「君が代」が完成する
【「君が代」の誕生】
11 30 土地売買譲渡規則・制定
【飛鳥~現代・日本の土地制度の変化】
12 7 臼井六郎が一瀬直久を殺害
【日本最後の仇討ち】
1881 1 11 からくり儀右衛門こと田中久重が没す
【東洋のエジソン~田中久重】
10 11 明治十四年の政変
【大隈重信・失脚の原因は?】
10 18 自由党の結成大会を開催
【日本初の政党・自由党誕生!】
1882 4 6 板垣退助が暴漢に襲われ負傷
【板垣死すとも自由は死せず】
1883 7 20 岩倉具視・没
【貧乏公家から政界の中心・岩倉の功績】
9 20 天璋院篤姫・没
【ドラマで語られなかった温泉旅行】
11 28 鹿鳴館・完成
【鹿鳴館のバカ騒ぎの真の狙い】
1884 6 20 女性の医療開業試験の受験を許可
【初の女医が2人?楠本イネと荻野吟子】
6 25 フェノロサと岡倉天心が救世観音を調査
【日本美術の救世主・フェノロサと岡倉天心】
11 28 間部詮勝が死去
【幕末の動乱に老中となった間部詮勝】
11 30 成島柳北が死去
【明治のジャーナリスト・成島柳北】
1885 1 27 第1回・官約ハワイ移民が日本を出発
【明治に始まった日本人移民の苦悩】
2 7 岩崎弥太郎が死去
【幕末維新の実業家…岩崎弥太郎】
6 17 ~18日、淀川大洪水
【災害~明治十八年淀川大洪水】
12 22 内閣が誕生し初代総理大臣に伊藤博文
【内閣総理大臣・伊藤博文君を評価】
1886 4 10 木戸松子(幾松)が没す
【逃げの小五郎を捕まえた…幾松の恋】
12 3 日本橋の絵草子屋に入った強盗を逮捕
【日本初のピストル強盗・捕まる】
1887 1 17 昭憲皇后が婦人に洋服を勧告
【和から洋へ…女性の服装も文明開化】
6 9 花井お梅が八杉峰三郎を殺害
【『明治一代女』花井お梅の心意気】
11 4 大阪府に合併されていた奈良県が独立
【祝・復活!奈良県がなかった11年間】
12 6 島津久光・没
【幕末・維新の激流…島津久光の泳ぎ方】
1888 2 10 探検家・松浦武四郎が死去
【北海道の名づけ親~松浦武四郎】
7 31 大久保一翁が死去
【無血開城に尽力した「幕府の三本柱」】
1889 2 11 「大日本帝国憲法」発布
【「大日本帝国憲法」誕生のお話】
記念式典に出席の明治天皇に万歳三唱
【建国記念の日と神武天皇】
12 30 決闘禁止令・発令
【ついに禁止令・明治の決闘ブーム】
1890 1 23 新島襄が死去
【後継者を育てたい~新島襄の思い】
4 7 琵琶湖疏水と日本初の発電所・完成
【琵琶湖疏水の完成】
9 16 エルトゥールル号・遭難事件
【95年後の恩返し~エルトゥールル遭難】
10 27 浅草・凌雲閣に日本初エレベーター・設置
【日本初のエレベーター…凌雲閣に誕生】
10 30 教育勅語・発布
【今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革】
11 20 帝国ホテルが営業開始
【帝国ホテル・開業】
11 24 第1回・帝国議会・召集
【第1回・帝国議会・召集】
12 16 東京⇔横浜間で電話創業開始
【今日は電話の日~電話初めて物語】
1891 1 25 小笠原長行が没す
【夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行】
2 18 三条実美が死去
【幕末維新の公卿で政治家…三条実美】
4 29 二宮忠八・初飛行に成功
【ライト兄弟より早く?日本人が空を制す】
5 11 大津事件
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋1】
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋2】
【大津事件…その後】
1893 6 6 寺島宗則が死去
【条約改正に尽力した電気通信の父】
6 12 清水次郎長こと山本長五郎・没
【海道一の大親分の知られざる後半生】
8 30 軍司成忠らが占守島に上陸
【千島最北端に初の上陸!】
12 5 松平容保・没
【賊軍の会津藩主・松平容保が残した物】
1894 1 4 辻将曹・没
【維新の雄藩になれなかった広島】
6 2 伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定
【近代日本の日清戦争への足音】
6 9 大鳥圭介が海軍陸戦隊と仁川に上陸
【いよいよ日清戦争へ…】
7 25 豊島沖海戦
【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】
7 29 成歓の戦い
【日清戦争・成歓の戦い】
9 16 平壌・陥落
【日清戦争~平壌・陥落】
9 17 黄海・海戦
【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】
11 21 旅順口・攻略
【日清戦争~旅順口攻略】
1895 2 1 七条から伏見までを路面電車が走る
【京都で日本初の路面電車】
2 2 日清戦争で威海衛を攻略
【終結へ…威海衛・攻略】
3 15 平安神宮が創建される
【千年の思いを込め創建された平安神宮】
4 1 京都で第4回内国勧業博覧会・開催
【芸術か?ワイセツか?裸体画論争】
4 7 正岡子規が従軍記者に…
【日清戦争と正岡子規~従軍記者として】
4 17 下関条約・締結
【下関条約締結で日清戦争・講和成立】
4 23 露・独・仏が三国干渉
【日清戦争の後の「三国干渉」のこと】
1896 4 6 ギリシャのアテネで近代オリンピック開会
【第1回・近代オリンピック】
10 15 千葉佐那・没
【坂本龍馬の婚約者~鬼小町・千葉佐那】
11 25 神戸でエジソンのキネトスコープを公開
【映画の日に映画の歴史】
1897 1 31 西周が死去
【知の巨人~西周と和製漢語】
4 23 東京朝日新聞が伝書鳩で記事を送る
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
8 4 後藤象二郎・没
【大胆・豪傑~友に好かれた後藤象二郎】
8 24 陸奥宗光・没
【世界と平等に…カミソリ外相・陸奥宗光】
1898 6 30 初の政党内閣・隈板内閣誕生
【大隈重信~初の政党内閣・誕生】
10 15 岡倉天心が日本美術院を結成
【岡倉天心を転身させた奥さんのご乱心】
12 18 上野の西郷隆盛像の除幕式
【西郷隆盛・生存説と銅像建立】
12 19 河田小龍・没
【龍馬も憧れた海援隊の生みの親】
1899 1 21 勝海舟・没
【自分大好き~勝海舟の人生語録】
8 4 日本初のビアホールが誕生
【日本初のビアホール誕生】
1900 1 15 政府がネズミを買い上げる通達を出す
【ネズミを捕って天丼を食おう!】
3   未成年喫煙禁止令・発令
【明治の珍騒動・未成年喫煙禁止令】
5 10 「鉄道唱歌・第1集」刊行
【鉄道唱歌のプロモーション】
8 11 落語家・三遊亭円朝が没す
【三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」】
8 23 黒田清隆が死去
【北海道開拓に尽力した黒田清隆】
1901 2 3 福沢諭吉が没す
【漢学→蘭学→英学…夢止まぬ諭吉】
12 10 足尾銅山闘争で田中正造が直訴
【足尾銅山闘争で田中正造が直訴】
12 13 中江兆民・没
【ガンと戦い~東洋のルソー・中江兆民】
12 29 初の食堂車・登場
【東海道線に食堂車・登場】
1902 9 19 正岡子規・没
【正岡子規は野球好き】
12 7 佐野常民・没
【形なき未来遺産~常民の博愛精神】
1903 5 22 一高生が華厳の滝で投身自殺
【夏目漱石を悩ませた一高生投身自殺】
6 29 土井晩翠・没
【「荒城の月」のモデル?~土井の告白】
10 30 尾崎紅葉・没
【金色夜叉の尾崎紅葉・没】
1904 1 15 元二本松藩主・丹羽長国が死去
【心やさしき藩主の二本松戦争…丹羽長国】
2 9 日露戦争・旅順&仁川海戦
【日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦】
2 10 日露戦争・宣戦布告
【日露戦争・勃発!】
3 27 日露戦争・旅順閉塞作戦で広瀬中佐・没
【旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫】
5 22 上野彦馬・没
【初の写真家・彦馬の伝えたかった事】
8 10 日露戦争・黄海海戦
【力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦】
9 4 日露戦争で遼陽に入城
【日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦】
9 26 小泉八雲・没
【八雲=ラフカディオハーンの見た物は】
1905 1 2 日露戦争で旅順・陥落
【日露戦争のキーポイント・旅順陥落】
1 20 祇園の芸妓・お雪が資産家と結婚
【玉の輿の日~平安時代の花嫁修業】
3 10 日露戦争・奉天占領
【日本軍・極寒の奉天占領】
5 27 日露戦争・日本海海戦
【伝説の東郷ターンは?】
6 2 津田出が没す
【明治政府のモデルとなった藩政改革】
9 5 日露戦争・終結と日比谷焼き討ち事件
【ポーツマス条約の調印と日比谷焼討ち】
1906 11 15 坂本龍馬の妻のお龍・没
【恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍】
1907 3 5 初のミスコンテストでミス日本が決定
【ミス日本に選ばれて退学処分】
3 6 立見尚文・没
【歴史上屈指!無敵の将軍・立見尚文】
3 12 松本良順・没
【徳川家茂&新撰組の主治医・松本良順】
1908 3 16 松屋呉服店が安売り宣言
【日本で最初のバーゲン】
3 22 出歯亀事件・発生
【出歯亀事件・発生】
7 12 旧桑名藩主・松平定敬が没す
【兄・容保とともに…桑名藩・松平定敬】
10 26 榎本武揚・没
【榎本武揚・五稜郭の後は・・・】
1909 4 28 由利公正が没す
【藩の政府の財政建て直し…由利公正】
7 31 大阪で「キタの大火」
【大阪駅の変貌・大火で消えた曽根崎川】
10 26 伊藤博文が暗殺される
【真犯人は別にいる?】
11 23 石造りの心斎橋完成
【大阪の発展~心斎橋の移り変わり】
1910 4 15 京阪電車が運転営業を開始
【京阪電車の歴史】
1911 1 12 日本人が初めてスキーをする
【日本のスキーの発祥は?】
1 19 御船千鶴子が服毒自殺
【千里眼・御船千鶴子と長尾幾子】
1 24 大逆事件で幸徳秋水らが処刑
【明治に起こった大逆事件とは】
1912 7 3 ルナパークと通天閣が誕生
【新世界ルナパークと初代通天閣の誕生】
7 30 明治天皇・崩御により大正に改元
【激動の時代を生きた明治天皇・崩御】
8 5 日本初のタクシーが登場
【日本初のタクシー・誕生】
9 13 乃木希典が明治天皇に殉死
【最後の武士・乃木希典】
1913 11 22 徳川慶喜・没
【最後の将軍・晩年の徳川慶喜】
【「龍馬伝」と徳川慶喜の思惑】
1914 3 26 「カチューシャの唄」が大ヒット
【ヒット曲第一号~流行り歌の歴史】
1915 9 1 井上馨が死去
【イメージ違う…志道聞多こと井上馨】
9 28 斉藤一・没
【警察官になっても新撰組魂は消えず】
11 10 大正天皇・即位の礼
【京都御所?皇居?大正・平成の大礼】
1916 12 9 夏目漱石が没す
【ペンネーム・夏目漱石の由来】
【夏目漱石のやり残した事】
1917 5 3 伊沢修二が死去
【近代日本の教育者…伊沢修二】
12 22 山尾庸三が死去
【工学の父~山尾庸三と長州ファイブ】
1918 6 1 板東俘虜収容所で捕虜が第九を演奏
【武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」】
7 23 富山で米騒動・勃発
【女一揆・米騒動を報道したマスコミは】
8 29 日本初のケーブルカー開業
【日本初のケーブルカー…生駒山に誕生】
1919 2 18 大山(山川)捨松・没
【戊辰の恨み越え~大山巌と捨松の愛1】
【戊辰の恨み越え~大山巌と捨松の愛2】
4 27 前島密・没
【郵便の父・前島密の功績】
1920 3 31 日本作曲家協会・設立
【次世代に残したい歌】
1922 2 1 山県有朋・没
【汚名返上?再評価高まる山県有朋】
1923 9 1 関東大震災
【関東大震災での災害ボランティア】
【関東大震災のチョットいい秘話】
1925 3 22 ラジオ放送開始
【放送記念日~初めてのラジオ放送】
1927 3 18 アメリカから青い目の人形が到着
【青い目の人形・到着】
4 6 志賀重昂・没
【世界を見たから日本好き・重昂の愛国】
7 24 芥川龍之介・没
【河童忌なので河童のお話】
8 13 初の野球・実況放送
【日本初の野球中継は?】
1928 8 2 人見絹枝がアムステルダム五輪で銀
【人見絹枝と8月2日】
11 10 昭和天皇・即位の礼
【京都御所?皇居?昭和・平成の大礼】
1929 8 26 アーネスト・サトウが没す
【幕末日本を駆け抜けた外交官・サトウ】
1930 11 16 日本初の「煙突男」登場
【労働者のヒーロー・煙突男・登場】
1931 3 5 日本初のスチュワーデス・誕生
【はじめてのスチュワーデス物語】
8 2 初の陸上女子メダリスト・人見絹枝が没す
【人見絹枝と8月2日】
11 7 大阪城天守閣が復興される
【祝!80周年昭和の大阪城天守閣・復興】
11 11 日本資本主義の父~渋沢栄一が死去
【渋沢栄一の『論語と算盤』】
1932 4 24 日本で初めてダービー開催
【競馬の歴史~日本ダービー記念日】
5 15 五・一五事件(犬養毅・暗殺)
【「話せばわかる」から「問答無用」へ】
6 14 新島八重(山本八重子)・没
【幕末から昭和を駆けた新島八重】
1933 11 13 イギリスでネッシーの撮影に成功
【ネッシー写真で大論争】
1934 5 30 東郷平八郎が没す
【東郷平八郎…最期の時】
1935 3 26 与謝野鉄幹・没
【ラブソングの帝王・与謝野鉄幹】
1936 2 26 二・二六事件
【二・二六事件の残したものは…】
【「二・二六事件」で暗殺された高橋是清】
1937 1 4 名古屋城の金のシャチホコが盗まれる
【名古屋城の伝説・鯱に触れた者は…】
1939 3 1 陸軍・禁野火薬庫・爆発
【未来への記憶・枚方平和の日】
6 27 林権助・没
【敗者だからわかる平和…外交官・林】
1940 11 24 西園寺公望が没す
【西園寺公望、パリのカフェで大暴れ】
1941 1 22 林忠崇・没
【藩主が脱藩~最後の大名・林忠崇】
5 31 内務省が迷信暦を禁止
【やっぱり気になる?大安・仏滅って何よ】
6 22 ドイツがソ連への攻撃を開始
【史上最恐の暗号・エニグマ】
12 8 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲
【真珠湾攻撃】
12 29 南方熊楠・没
【南方熊楠・最後の言葉】
1943 7 29 日本軍が「キスカ撤退作戦」を決行
【キスカ撤退作戦・成功!】
1944 9 5 田辺朔郎が没す
【清盛・秀吉の夢を実現させた田辺朔郎】
1945 1 21 ラース・ビハーリー・ボースが没す
【インド独立に貢献したボースと頭山満】
4 7 戦艦・大和が沈没
【戦艦大和、海に散る】
8 6 広島に原爆投下
【広島平和記念日】
8 17 インドネシアが独立宣言
【インドネシア独立のため戦った日本人】
9 27 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
【昭和天皇とマッカーサー元帥】
10 29 第1回・宝くじが発売される
【昭和の宝くじ・江戸の富くじ】
12 5 大西洋上でアメリカ空軍機が消息を絶つ
【バミューダ・トライアングルの日】
12 16 近衛文麿が服毒自殺
【近衛文麿、最後の一日】
12 28 「宗教法人令」施行
【施行で廃止された神社の社格】
12 31 GHQが修身・歴史・地理の授業を停止
【歴史からみる平時の武装放棄は是か】
1946 12 7 川上貞奴・没
【日本初の女優・川上貞奴】
1948 1 26 帝銀事件
【謎の帝銀事件】
9 16 配給制だったマッチを自由販売化
【マッチ王…清水誠と瀧川辧三】
11 30 歌人の川田順が「老いらくの恋」で…
【今日はシルバーラブの日】
1949 1 26 法隆寺・金堂が焼失
【法隆寺と聖徳太子】
4 4 ワシントンで北大西洋条約が調印される
【NATO創設】
7 5 下山定則・国鉄総裁が行方不明に…
【謎の下山事件】
1951 12 19 平塚雷鳥が再軍備反対婦人委員会結成
【女性は太陽、男はツバメbyらいてう】
1952 10 19 土井晩翠・没
【「荒城の月」のモデル?~土井の告白】
1953 2 25 斉藤茂吉・没
【歌王~斉藤茂吉の強烈ラブレター攻撃】
1957 1 29 日本南極観測隊が昭和基地を命名
【南極探検と観測の歴史】
1958 12 23 東京タワー・完成
【東京タワーが333mのワケは?】
1963 6 15 「上を向いて歩こう」が全米チャート1位に
【すき焼きは、国際的の証?】
1968 1 29 藤田嗣治が死去
【最後まで日本を忘れなかった世界のフジタ】
12 2 田島道治が死去
【不況に対峙し天皇家を救った田島道治】
12 10 三億円事件が発生
【昭和最大のミステリー・三億円事件】
1978 7 29 東京・隅田川で花火大会が復活
【花火の歴史】
1979 1 22 ~1999:海王星と冥王星の軌道が交代
【冥王星と海王星が・・・】
1981 1 30 宮本常一・没
【大阪で知った民俗学の種…宮本常一】
1985 3 17 トルコ航空機がイランの日本人を救出
【95年後の恩返し~エルトゥールル遭難】
9 25 藤ノ木古墳・発掘
【未盗掘で発見された藤ノ木古墳の主は】
1986 7 31 杉原千畝・没
【6千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
1989 2 9 手塚治虫・没で「漫画の日」
【今日は「漫画の日」なので】
近代豆知識 【ペリーのお土産…電信機なう】
【野球の歴史は一本のバットから】
【新嘗祭→勤労感謝の日】
【日の丸はいつから国旗になった?】
【気になる昔は今より温暖化だった話】
【意外に最近?11月15日の七五三】
【公認?明治に浮上した「権妻」の話】
番外編 【秋色の大阪城~桜門のちょっとオモロイ話】

 

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2009年7月30日 (木)

戦国から明治まで有料だった?~富士登山

 

先日、知人から「富士山サブレ」なるお菓子をいただきました~。

「富士登山に行ってきた」のだそうです。

そう言えば、ちょうど今頃・・・夏休みは、富士登山のシーズンって感じなんですかね。

一生に一度は登ってみたいとは思っているんですが、未だ、例の車で行ける場所までで、残念ながら、その上へは行けていません。

ところで、この富士登山・・・

以前、【異常気象と富士山信仰】(7月9日参照>>)のところで、修験道の始祖・役小角(えんのおづね)が始めた、修行としての富士登山が、室町時代の後半の戦国の頃から盛んになるお話をさせていただきましたが、実は、この頃からすでに、登山は有料だったんですね~。

山梨県富士吉田市の富士山北口浅間神社を起点とする吉田口登山道・・・この道が、当時のメインの登山道だったそうで、かつては、神社の周辺に、登山者の宿泊所と教導所を兼ねたお坊が、それはもう、たくさん建っていたのだとか・・・。

・・・で、当時、このあたり一帯に勢力を誇っていた、あの今川氏が、この登山道の近くに関所を置き、登山者・1人につき244文の山役銭=通行料を徴収したのだそうです。

現在も、関所の目印だった金鳥居が健在です。

この徴収業務は、教導所の御師(おし)がおこない、例の白装束に金剛杖を持った登山者が、登山口で通行料を払うと、代わりに手形を受け取って、いざ!富士登山へ・・・というワケです。

もちろん、あの「六根清浄(ろっこんしょうじょう)も唱えます。

しかし、いつの時代も同じ・・・こんな神聖な場でも、やはりいます!通行料を払わずに登ろうとする神をも恐れぬ人・・・。

そのため、山の中腹と頂上にも関所を置き、手形の無い者は絶対に通さない・・・いや、富士山から追放!と、厳しくチェックしたようです。

徴収した通行料は、約半分は領主への上納とし、残った中から、御師が一部を貰い、あとは、登山道や周辺の整備を任されている近隣の農民に配られたのだそうで、高冷地で、農業と言っても多くの収穫を期待できない、このあたりの農民にとっては、良いアルバイトだったようで、近隣の村同士で、この権利を奪いあった事も記録に残っています。

そんなこんなの富士山有料制度・・・途中、今川から武田の支配に移った頃、一度、244文から122文と半額に値下がりした事があった(なぜ?)そうですが、なんだかんだで、その戦国時代から始まったこの制度は、江戸を通じて、明治の頃まで続いていたそうです。

Fuziyamacc 本日のイラストは、ちょっと斬新な雰囲気で霊峰・富士を描いてみました~

いつかは、あの高みに・・・ヽ(´▽`)/
 .

あなたの応援で元気100倍!

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2009年7月29日 (水)

河井継之助・無念~長岡二番崩れ

 

慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、北越戊辰戦争にて、世に「長岡二番崩れ」と呼ばれる2度目の長岡城・陥落があり、これにて、戊辰戦争の舞台は、さらに北へと向かいます。

・・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)7月24日、泥まみれの八丁沖渡沼作戦(7月24日参照>>)にて新政府軍に奪われた古巣・長岡城を奪回した長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)・・・

★北越戊辰戦争の経緯につきましては
  ・4月25日
【戊辰戦争~北へ】>>
  ・5月13日【朝日山・争奪戦】>>
  ・5月19日【長岡城・陥落】>>
  ・6月 1日【今町・攻略】>>
  そして、上記の7月24日>>からどうぞ!

 
しかし、数に勝る新政府軍は、翌・25日、すぐさま攻撃を仕掛けてきます。

まずは、長岡城の北側の新町(あらまち)へと押し寄せる新政府軍。

Kawaituginosuke600a 壮絶な激戦が繰り広げられたこの場所は、何としてでも守りたい場所ですから、継之助は、自ら出陣して陣頭指揮にあたりました。

しかし、最前線にいた彼は、敵の銃弾を左ヒザに受け、重傷を負ってしまい、その後は、指揮はとれなくなってしまいます。

一方の新政府軍は、2隻の軍艦と5隻の輸送艦に分乗した援軍が到着・・・新潟港の北・大夫浜(たゆうはま・新潟県北区)に上陸し、2手に分かれて進軍します。

一手は、奥羽越列藩同盟軍の海上からの補給地であった新潟港へ、そして、別働隊は新発田(しばた)へと向かいます。

実は、この新発田藩・・・ここに来て新政府軍へと寝返っってしまったのです・・・まぁ、戦況を踏まえれば、いたしかたない事かも知れません。

もともと、新発田藩は、尊王攘夷派であったにも関わらず、その位置関係から、周囲の藩に列藩同盟に加わるよう強い要請を受けたための同盟参加だっただけに、もはや、新政府軍の上陸という状態になった以上、当然と言えば当然の寝返りです。

それに、城を枕に討死するばかりではなく、何とか、生き残る方法を模索するのも、戦時下の指揮官の務めですから・・・。

とにかく、その寝返ったばかりの新発田藩の現状を確認するために、一方の別働隊は新発田城へ向かったわけですが、この時の新発田藩の寝返りは、やられた同盟軍にも、少なからず動揺が走ります。

長岡藩を助けるべく進軍していた米沢藩兵が、この寝返りで進軍を止めたため、ここで、1日のロス・・・会津藩の指揮官・佐川官兵衛の登場によって、ようやく、安心して進軍を再開し、26日に長岡城に到着し、早速、新潟港の守備にあたります。

しかし、すでに新潟は激戦の真っ最中で、2隻の軍艦からは、次々と砲撃が繰り返され、上陸した歩兵部隊も容赦なく突き進み、やがて、新潟は新政府の手に落ちました。

かくして慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、援軍として加わった薩摩藩兵、長州藩兵と松代藩兵を中心に再編成された新政府軍は、山県有朋(やまがたありとも)の指揮のもと、関原方面から、長岡への総攻撃を開始します。

継之助に代わって、もう一人の家老・山本帯刀(9月8日参照>>)が指揮し、それを迎え撃つ同盟軍でしたが、やはり、継之助を欠いた軍の統制は以前ようには行かず、圧されっぱなし・・・さらに、新政府軍の別働隊が、信濃川を渡って西側から攻め寄せました。

これによって、もはや、長岡城を死守する事が不可能と判断した長岡藩首脳陣は、その日の正午頃、城内の火薬庫に火を放ち、栃尾(とちお)・見附(みつけ)方面へと退却します。

それでも、末端の長岡藩兵は、抵抗を続けますが、押し寄せる新政府軍の多勢には、いかんともし難く、午後2時頃、持ち場を捨てて、やはり栃尾方面へと落ちていきました。

歓喜の奪回から、わずか4日・・・ここに長岡城は、再び落城したのです。

新潟港という補給路を断たれてしまった同盟軍にとって、南へ進軍という事は不可能に近く、傷がさらに悪化する継之助も、この後は、会津へと亡命する事になるのですが、そのお話は、またその日に書かせていただく事とします。

ところで・・・

もともと、江戸無血開城の後は、抵抗する会津・庄内藩のみがターゲットのはずだった北の戊辰戦争・・・本来なら、新発田藩のように、すんなりと新政府軍に賛同すれば、3ヶ月に渡る北越の戦いは無かったのかも知れません。

その点では、腰抜け呼ばわりされながら、結果的に江戸を戦火から救った徳川慶喜と、許されるはずのない武装中立を守ろうとしたために、新潟・長岡一帯を焦土と化してしまった継之助と・・・

相反するこの二人の行動は、どちらにも、賛否両論あり、どちらが正しかったか?どちらも間違っていたのか?・・・おそらくは決着が着かない論争となるのでしょうが、ただ一つ言える事は、幕府側&新政府側の皆々を含めて、誰1人、自ら、軽んじた気持ちでとった行動ではなく、この時代に生きた人々が、マジメに真剣に取り組んだ結果である事は確かです。

それを判断する私たちも、軽い気持ちで良い悪いを決定してしまうのではなく、それぞれの立場、時代背景を踏まえながら、彼らのように、マジメに真剣に取り組んで、論じていかねば・・・と思う次第です。
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2009年7月28日 (火)

孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!

 

永禄八年(1565年)7月28日、奈良の興福寺・一条院に幽閉されていた覚慶細川藤孝らの手引きで、近江(滋賀県)へと脱出しました。

・・・・・・・・・

この覚慶というお坊さん・・・

幼い頃に奈良興福寺一条院に入って、29歳のこの日まで仏門一筋の道を歩んで来た人なのですが、その父は室町幕府第12代将軍・足利義晴(よしはる)、母は前関白近衛尚通(ひさみち)の娘・慶寿院、さらに兄は第13代将軍・足利義輝(よしてる)・・・

・・・と、くれば、もう、おわかりですよね!
そうです、後の、室町幕府15代将軍足利義昭(よしあき)です。

この年の5月、三好三人衆と結託した松永久通に、兄の義輝を攻め殺され(5月19日参照>>)、鹿苑院の座主(ざす)となっていた弟も殺されたものの、彼だけは興福寺にて監禁状態にあっのです。

その義輝亡き後、永禄十一年までの約3年間、空席となる将軍の座ですが、もちろん、義輝を殺害した久秀らの心中には、次期将軍となるべき人物は決めてあります。

義輝の父の義晴の弟・・・つまり、第11代将軍・足利義澄(よしずみ)の息子・義維(よしつな)の、さらに息子・足利義栄(よしひで)です。

久通と三好三人衆は、阿波の御所と呼ばれていたこの義栄を、傀儡(かいらい・あやつり人形)の将軍に据えようと考えたのです。

足利将軍家は、代々、将軍職を継ぐべき長子以外は、寺に入って僧侶となるのがしきたりでしたから、義昭も、今の今まで、覚慶として生きてきたわけですが、その長子に万が一の事があった場合、還俗(げんぞく・出家して僧となっていた者が一般人に戻る事)すれば、次期将軍となる資格があるというのもない事ではありません。

あの「くじ引き将軍」でお馴染みの第6代・足利義教(よしのり)も、くじ引きに当選するまでは義円という青蓮院(しょうれんいん)の僧侶でした(6月24日参照>>)

Asikagayosiaki600 「こうなったら、是非とも還俗して自分も次期将軍候補に・・・」と、大張り切りの義昭・・・。

しかし、やはり、1人で、それを夢見ても、ムリ・・・とは言え、久秀らが「義栄を将軍に担ぎ上げで、そのおこぼれにありつこう」と考えると同じように、「義昭を担いで、自らの出世の糸口に・・・」と考える野心家は、どこにでもいるものです。

それが、かつて義晴に仕えていた細川藤孝(後の幽斎)でした。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

つまり、義昭と義栄は、いとこ同士で次期・14代将軍の座を争う事となったわけです。

かくして永禄八年(1565年)7月28日、監視の目をすり抜けて興福寺を脱出した覚慶こと義昭は、藤孝の手引きによって、近江国甲賀郡和田村の豪族・和田惟政(これまさ)の館へと身を寄せます・・・惟政もまた、以前、義輝に仕えていた幕臣でした。

早速、義昭は、その近江から、全国の有力者に向けて、幕府復興の内容をしたためた手紙を送り、協力を要請しますが、諸国の武将たちの反応は、いまいち、おもわしくありませんでした。

・・・と、言うのも、やはり、それぞれの武将たちには、それぞれの野心はあるものの、その身に叶った実力という物もあります。

なんせ、久秀と三好三人衆は、前将軍を殺害してしまうほどの力を、現時点では持っているわけですから、やはり、それに対抗できるほどの力がなければ、すぐには、立ちあがる事はできません。

翌・永禄九年(1566年)2月、正式に還俗して、名を義秋(よしあき)と改めた彼は、やがて、若狭を経て、越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せます。

ここでも、せっせと諸国の武将に手紙を書き続ける義昭でしたが、そんな中で、長年、敵対関係にあった朝倉氏と加賀一向一揆との関係(8月13日参照>>)を、足利将軍家として仲介に入り、見事、和解に持っていくという、将軍にふさわしい資質をも垣間見せてくれています・・・この頃、元服して、名を義昭としました。

そうこうしているうちに永禄十一年(1568年)2月には、かの義栄が、第14代将軍となりますが、それでも、義昭は諦める事なく、むしろ、亡き兄のためにも、自分自身が将軍になる夢は、燃え上がるばかり・・・。

ところで、ここで、せっかく中央へ進出できるチャンスの種である義昭が転がり込んで来てくれているのに、彼を奉じて上洛しようという意志を示さなかった義景の事を、みすみすチャンスを逃した愚将ように言う場合がありますが、以前、義景さんのお誕生日のページにも書かせていただいたように、私自身は、それは、義景の内政を重視したうえの適切な判断であったと考えております(9月24日参照>>)

・・・で、上記のように、行動を起さない義景に業を煮やした藤孝が、諸国を放浪した後に、たまたま、その時、朝倉家に仕えていた明智光秀(10月18日参照>>)と組んで、ちょうど稲葉山城を攻略して美濃(岐阜県)を手に入れたばかりの、織田信長に義昭をひきあわせるのです。

そして、ご存知の通り、永禄十一年(1568年)9月26日の信長の上洛(9月7日参照>>)となるわけですが、ドラマなどで描かれる義昭さんは、大抵、このあたりから・・・

これも、定番ですが、結局、自らが天下の差配をしたい信長にとって、義昭は、単なる上洛のための大義名分であったわけで、二人のイイ関係はすぐに崩れてしまいますので(1月23日参照>>)、ドラマに出て来る義昭さんは、この後の、信長にいいように扱われる感じのボンクラ将軍のイメージで描かれる事が多いですね。

しかし、今回の興福寺脱出と言い、越前での采配と言い、信長に出会うまでの義昭さんは、ちょっとだけカッコイイ気がします。

今後は、是非とも、そんなカッコイイ義昭さんを、ドラマで見てみたいものですね。

(*この後、信長にヤラレまくっても、しぶとく生き抜く放浪の貴公子の姿は、7月18日のページでどうぞ>>
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2009年7月27日 (月)

第二次長州征伐も大詰め!最後の小倉・上陸

 

慶応二年(1866年)7月27日、第二次長州征伐で、長州軍は、いよいよ小倉城攻略をめざして、3度目の小倉上陸作戦を決行しました。

・・・・・・・・・・

初めてのかたは、まずは、第二次長州征伐の経緯から・・・
すでに、読んでいただいているかたは、以下へすっ飛ばしてください

上記の通り、大村益次郎が指揮をとった東側の石州口浜田城を攻略芸州口では膠着状態が続く中、高杉晋作が指揮をとる小倉口では、たびたびのゲリラ戦的上陸作戦に終止符を打ち、いよいよ小倉城を攻略すべく、3度目の上陸が行われるのです。

慶応二年(1866年)7月27日軍艦による援護射撃をともないながら上陸した長州の精鋭・約800名・・・

大里に本陣を構えた晋作は、軍を二手に分け、海側から赤坂、山側から大谷へと向かいます。

Sikyousensoukokurasinrocc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこを守るのは、あの肥後藩・・・6月17日>>に書かせていただいたように、肥後藩の指揮官であった長岡監物(けんもつ)は、その方針の違いから、度々、幕府軍総督の小笠原長行(ながみち)と対立して、「ウチの担当となった場所は守りますけど、こっちのやりたいようにさしてもらいますよって!」と、全面協力とは呼べない感じではありました。

しかし、なんと言っても、肥後は大きな藩・・・しかも、最新鋭のアームストロング砲も持っています。

さらに、海上からは、幕府の軍艦3隻が赤坂&大谷に向けて援護射撃を繰り返し、長州は大きな損害を被り、やむなく撤退する事となり、この第二次長州征伐で、初となる長州側の敗北を喰らいました。

しかし、損害を被ったのは肥後藩も同じ・・・朝から夕方まで、肥後藩が矢面に立って、丸一日戦ったにも関わらず、援護があったのは、上記の軍艦からの砲撃だけで、陸兵の応援は、まったく来ずじまいだったのです。

しかも、この日の勝利を快く思った長行からは、「この勢いのまま彦島を占領せよ」との追加命令が出されます。

もともと対立していたところへ、この態度ですから、そりゃ、もう、監物は激怒!

「こんなんもん、やってられるか!帰ろ!」
と、さっさと、全軍を引き揚げ、帰国してしまうのです。

一応、全軍撤退の名目は、「兵の交代」でしたが、もちろん、新たな兵がやってくる事はありませんでした。

小倉藩は、肥後藩が守っていた最前線がポッカリと空いてしまった事で、その後方に位置していた幕府軍に前進して守備についてくれるよう要請しますが、「OK!」と返事した幕府軍は、そのまま小倉城へと撤退。

さらに、大藩の肥後藩が去った事を知った他の諸藩も、「ほな、ウチも・・・」次々と現場を離れて、帰国してしまいます。

さぁ、小倉藩は困りました。

この第二次長州征伐・・・このブログでも、毎度毎度書かせていただいているように、この戦いは、幕府と長州の戦いであって、各藩は、単に幕府の声かけによって、シブシブ協力しているに過ぎない立場で、それは小倉藩も同じ・・・

ただ、小倉藩は、長州と国境が接しているぶん、自分とこの領地が戦場となるわけですので、他の藩のように、「大義のない戦いなんで、帰りますわ」てな感じで帰る事はできません。

7月30日の夜、しかたなく、小倉藩・家老の田中孫兵衛は、かの総督・長行へ会いに、幕府の陣営に向かいますが、待てども、待てども、面会が叶いません。

「えぇかげんにさらせ!」
とばかりに、警備を振り切って、長道の部屋に入ると・・・部屋はカラッポ。

すでに長行は、小倉の沖合いに停泊する軍艦・富士山丸の上・・・。

そうです・・・先日、ブログにも書かせていただいた7月20日の、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の死(7月20日参照>>)・・・この日、そのニュースを受け取った長行は、こっそりと、陣営を抜け出して、船に乗り、一目散で大坂へと向かおうとしていたのです。

もはや、なす術ない小倉藩・・・急遽開いた軍儀での決定は、「城に火を放って撤退」・・・それしかありませんでした。

これらの状況を聞きつけた晋作は、無理な攻めはせず、小倉城の見える範囲の位置に留まりながら、様子を確認します。

やがて、8月1日、小倉城は、自らの藩士の放った火で炎上・・・事実上、陥落しました。

その後、亡き家茂に代わって総指揮官となった徳川慶喜(よしのぶ)も、もはや戦う気・ゼロなのですが、もともと、慶応二年(1866年)6月1日に、幕府が、半ば強引に天皇からの勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を取り付けて開始したこの戦い・・・再び、勅許を下していただかねば止める事もできませんから、慶喜は、急遽、朝廷に勅命をあおいで、終戦に持ち込みました。

8月21日、家茂の病死を理由に休戦の勅命が下り、ここに、第二次長州征伐は終結する事になります。

長州という一藩が、国家を相手に勝利するという、本来ならあり得ない結果となったこの戦いは、いかに幕府の力が衰えたのかを諸藩に見せつけ、その権威は地に落ち、この後の幕末の動乱に拍車がかかる事になるのは、もう、ご承知の通りです。

ただ、ご存知のように、この時の晋作は、すでに病も末期の状態・・・燃え盛る小倉城を見ながら、大量の吐血をしてしまった彼は、この後、再び表舞台に登場する事はありませんでした・・・そのお話は、(2年も前のものですが・・・)晋作の生涯について書かせていただいた2007年6月7日のページでどうぞ>>
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2009年7月25日 (土)

あっぱれ!真田の嫁~小松姫(稲姫)の内助の功

 

慶長五年(1600年)7月25日、犬伏から舞い戻った真田昌幸幸村父子に対して、沼田城にて夫の留守を守る小松姫が入城を拒否しました。

・・・・・・・・・・・

1度目は天正十三年(1585年)(8月2日参照>>)・・・
そして、2度目は関ヶ原直前・・・

わずかな兵で居城の上田城に籠り、大軍の徳川を2度も撃退した父・真田昌幸(さなだまさゆき)と、後の大坂夏の陣徳川家康(とくがわいえやす)本陣へと斬り込む大活躍をみせた弟・真田幸村(ゆきむら=信繁)・・・

人気の二人に囲まれて、大抵のドラマではカットの憂き目に遭う真田家の長男・真田信幸(のぶゆき=信之)さんですが、徳川の時代にも真田家が生き残り、松代藩10万石の大名として明治維新を迎えるまで、その家名を守り抜く事ができた礎は、なんと言っても、藩祖となった信幸さんあってこそ・・・。

Komatuhimecc_2 その信幸を支えた大胆で豪快なゴッドマザーが、本日の主役・小松姫(こまつひめ=小松殿・稲姫・於小亥)です。

天正元年(1573年)に家康の四天王の1人・本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)の長女として生まれた小松姫は、天正十四年(1586年)に家康の養女となってから、かの信幸と結婚します。

時に信幸21歳、小松姫14歳・・・

父の忠勝は・・・
♪家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八♪
と唄われたほどの重臣・・・(10月13日参照>>)

その姫として知られていた小松姫は、その婿選びの時、家康の前にズラリと並べられた婿候補の若者のマゲを掴んで、1人1人顔を覗き込んでいったのだとか・・・

その時、皆が家康と忠勝の威光におののいて、冷や汗タラタラだった中、信幸だけが「御免!」と言って、鉄扇で彼女の手を払いのけた!

すわ!怒り爆発かっ!と思いきや、逆に、
「カッコイイ~ヽ(*≧ε≦*)φ」と、気の強いお嬢の乙女心はイチコロに・・・てな、逸話が残りますが、これは、何かと気丈なエピソードを持つ彼女のイメージを描くための伝説の域を出ない物。

おそらくは、その天正十三年の領地問題でゴタゴタした家康と昌幸の関係を改善するための豊臣秀吉(とよとみひでよし)の心遣いってトコでしょう。

わざわざ家康の養女にしてからお嫁に出しているところを見ても、両家のための縁組であった可能性大です。

そんな政略的な結婚ではありましたが、上記の「小松姫・信幸にゾッコン」のエピソードが生まれるのも当然と思えるくらい、二人は仲睦まじい夫婦であったようで、間もなく2男・2女という子宝にも恵まれます。

やがて訪れた慶長五年(1600年)・・・ご存知、天下分け目の関ヶ原ですが・・・

この時、秀吉亡き後、実権を握った家康が、上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に謀反の疑いをかけ会津征伐を決行します。

当然の事ながら、居城・上田城にいた昌幸のところにも出兵の要請が届き、昌幸・幸村父子は、すでに沼田城主となっていた信幸とともに、家康の先陣として会津へ向かっていた徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)隊と合流すべく北へ向かいます。

しかし7月21日、下野(しもつけ・栃木県)犬伏(いぬふし)宿で、すでに、反家康の行動を起していた石田三成(いしだみつなり)からの密書を受け取った事で、状況が一変します。

家臣抜きの親子3人で話し合った末、父・昌幸と弟・幸村は三成の西軍に、兄・信幸は家康の東軍に参戦する事を決定し、彼ら父子は、ここ犬伏にて袂を分かつ・・・「犬伏の別れ」となったのです(7月21日参照>>)

その日の夜のうちに、闇にまぎれて陣を離れ、上田城へと急ぎ戻る昌幸と幸村・・・途中、通り道であった、息子の城・沼田城へと立ち寄り、休憩を取ろうとします。

それが、慶長五年(1600年)7月25日の事でした。

しかし、城門はピッシリと閉ざされたまま・・・。

「久しぶりに孫の顔か見たいんやけど・・・」
と、昌幸が声をかけると、城門の上には、長刀を持ち、鎧姿に身を固めた小松姫の姿がありました。

会津に向かっているはずの彼らが、戻ってきた事ですべて察した小松姫・・・

「たとえ、父君・弟君であっても、今となっては敵。
城主の留守に敵を城内に入れる事はできません!」

とキッパリ!

「なんて、気のキツイ嫁なんだ!」
と、この仕打ちに怒り心頭なのは、弟の幸村です。

・・・と、確かに、ここで入城させずに、そのまま追いはらっただけなら、ただのキッツイ嫁ですが、さすがは小松姫・・・

ちゃんと、近くの正覚寺に、彼らを迎える準備を整えていたのです。

心づくしの酒肴で暖かくもてなし、子供たちも連れていって、しっかりとオジイチャンとの対面も果たさせました。

つまり、敵となった今、夫の留守に城に入れる事はできないという建前と、されど父子孫の縁は切れる物ではなく、それは次世代へもつなぐべき物という人の情けを見事使い分けたのです。

この気配りに感服した昌幸・・・

もともとは、忠勝の娘という事で、この結婚には反対していたという彼・・・結局、家康の養女となって「それならば・・・」と、昌幸は、半ば、シブシブ息子との縁談をOKしたとの事ですが、この時ばかりは・・・

「俺は、間違うとった・・・さすがは、日本一と言われる本多の娘や。
皆、見たか!武士の嫁とは、こういうモンや。
この嫁がいる限り、真田の家は安泰や」

と、皆の前で大喜びだったと言います。

まさに、東では、会津征伐を中止した家康が、西へとUターンする事を発表し、従軍していた諸将に今後、東西どちらかにつくのか?を問うた小山評定(おやまひょうじょう)を開いた(7月25日参照>>)その日の出来事でした。

無事、上田城へと戻った昌幸・幸村父子は、この後、Uターンして東山道(中山道)を西へと向かう秀忠隊を、その上田城で迎え撃つ事になります(9月7日参照>>)

そして、真田との上田城攻防戦に手間取った秀忠隊は、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまう事になるわけです。

しかし、ご存知のように、上田城を死守したものの、味方についた西軍が負けた事で、沼田と上田の領地は、すべて信幸のものとなり、昌幸・幸村父子は、九度山へ流罪となります(12月13日参照>>)

その後は、もちろん、松姫が、夫とともに、その配流地にたびたび便りを送り、金銀や思い出深い長野の名産品を差し入れ、流人生活の彼らを支えたのは言うまでもありません。

Komatuhimecc
久しぶりにイラスト描いてみました~

小松姫の菩提寺である長野県の大英寺蔵の姫の勇ましい肖像画(冒頭のです)・・・以前、大阪城天守閣の特別展で拝見しましたが、そりゃ~もう美しかったです。

それには及びませんが、「描きたい!」って気持ちにしてくれるお姿ですね~。

三つ葉葵の陣羽織に六連銭の胴・・・もう、たまりましぇ~ん
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2009年7月24日 (金)

北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦

 

慶応四年(明治元年・1868年)7月24日、北越戊辰戦争において、先の5月19日に新政府軍に本拠地の長岡城を奪われた長岡藩の河井継之助が、奪回作戦を決行しました。

・・・・・・・・・・・

江戸城無血開城の後、さらに北へと進攻する新政府軍と、東北の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)との間に勃発した北越戊辰戦争・・・(4月25日参照>>)

慶応四年(明治元年・1868年)5月2日に、新政府軍監・岩村精一郎らと、長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)との間で行われた小千谷(おぢや)会談が決裂した両者は、5月13日、新政府軍の最前線である朝日山で争奪戦を展開しました(5月13日参照>>)

信濃川を挟んで西と東・・・東岸から川を渡って新政府軍の小千谷本営を突こうとする継之助と、西岸から川を渡って長岡城へと狙いを定める総督府参謀・山県有朋(やまがたありとも)・・・ともに5月19日に決行する事になっていたこの作戦は、先に決行した新政府軍の勝利となり、長岡城は陥落します(5月19日参照>>)

拠点を失った継之助ら奥羽越列藩同盟軍は、長岡城を奪回すべく、まずはその北に位置する今町を奪還(6月1日参照>>)しますが、この時の敗戦に危機感を抱いた有朋は、しきりに、中央へ援軍を要請します。

また、要請を受け取った中央でも、この北越でモタモタしている事が、外国の公使館にも伝わる事態となり、このままでは新政府の威信にも関わるとして、新たに嘉彰親王(よしあきらしんのう)を総督に任命し、西園寺公望(さいおんじきんもち)を総督府参謀として派遣し、北越方面の新政府軍は総勢3万の大増員となりました。

・・・で、6月1日の今町奪回から、両軍が対峙したまま、しばらく膠着状態が続いていましたが、ここに来て、大総督府参謀の西郷隆盛自らが、薩摩藩兵を率いて出征するとのニュースを聞きつけた継之助は、薩摩の精鋭が到着する前に、長岡城を奪回すべく、起死回生の作戦の決行を決意します。

それは、天然の要害と呼ばれていた八丁沖(はっちょうおき・八町沖)という広い沼地の部分を越えての攻撃作戦でした。

Hokuetunagaokadakkaicc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

長岡城の北東に広がるその場所は、昔から魔物が棲む場所と恐れられ、人を寄せつけない場所・・・足を取られ、身動きができなくなるような地帯でした。

長年、長岡城を本拠としてきた継之助も、おそらく、ここからは敵は来ないだろうと考える場所・・・だからこそ、ここからの攻撃に賭けたのです。

もちろん、そんな難しい場所を、しかも、夜の闇の中に進むわけですので、その準備は正確に整えておかねばなりません。

「山」「川」ならぬ、「誰か」と問えば「雲」と答える合言葉や、暗闇での目印となる提灯は、必ず「時計周りに回す」、全員が白木綿の腹巻を着用するなどなど、周到なまでのルールを決め、いよいよ、作戦決行の慶応四年(明治元年・1868年)7月24日を迎えました。

午後6時半・・・「敵は多勢なれど、同じ死ぬなら城下で死のう!」との継之助の号令に士気も最高潮の690名は、いざ、八丁沖へと進軍します。

泥水に浸かりながら、青竹を杖代わりに・・・八丁沖北側の百束という場所から沼に侵入した一行は、翌・25日午前4時頃、対岸の富島に上陸します。

この富島上陸の際に最初の戦闘があり、前哨部隊の鬼頭熊次郎(きとうくまじろう)が戦死するという悲劇はあったものの、実は、ここで、すでに継之助らにとってラッキーな出来事が起こっていたのです。

それは、この時の新政府軍・・・この25日に、かの今町へ総攻撃をかける予定を組んでおり、長岡の新政府軍本営では、その前日=つまり24日の夜に、「戦勝の前祝」と称する宴会を開いていて、ほとんどの者がベロンベロン・・・未だ、爆睡中だったのです。

そこへ、継之助の号令勇ましく、怒涛のごとくなだれ込む長岡藩兵!

まさに、ふいを突かれた新政府軍は、ただただ逃げるばかり・・・かの有朋は南方の妙見へ撤退し、公望は信濃川を渡って西岸の関原までの逃走を余儀なくされました。

見事、戦いは奥羽越列藩同盟軍の大勝利となり、当然、長岡城の奪回にも成功した事になります。

この時、約2ヶ月ぶりに、古巣・長岡城へと入城する泥まみれの兵士たちに、沿道に集まった城下の人々は、水桶を差し出して歓迎したのだとか・・・

大手通には酒樽が用意され、この日の夜は、まるで祭りのように歓喜に沸いたという事です。

しかし、そんな喜びもつかの間・・・当然の事ながら、大軍を動員した新政府軍が、このまま退き下がるはずはありません。

・・・、再び、長岡城をめぐっての戦いが勃発する事となりますが、そのお話は、やはり「その日」7月29日のページでどうぞ>>
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2009年7月23日 (木)

かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期

 

建武二年(1335年)7月23日、鎌倉に幽閉中の護良親王を足利尊氏の弟・直義が暗殺しました。

・・・・・・・・・

大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)は、あの建武の新政(6月6日参照>>)を行った第96代・後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)の皇子です。

はじめは比叡山延暦寺で僧となり尊雲法親王(ほっしんのう)と名乗って天台座主(ざす)となっていましたが、父・後醍醐天皇が打倒・鎌倉幕府の動きを見せ始めると、還俗(僧となって出家した人が一般人に戻る事)して参戦します。

・・・というより、もともと気性の激しかった護良親王は、近畿地方の武士を集めて、むしろ積極的に参加し、鎌倉幕府に目をつけられて自由行動ができない父に代わって、「ともに戦おう!」令旨(天皇家の命令)を連発し、各地でゲリラ戦を展開したりしました(2月1日参照>>)

やがて、後醍醐天皇に協力した足利尊氏楠木正成新田義貞佐々木道誉(どうよ)らの力もあって鎌倉幕府は滅亡(5月22日参照>>)、政権を握って建武の新政を行う父のもと、護良親王は征夷大将軍に任命されます。

この征夷大将軍の任命に関しては、もともと、同時に鎮守府将軍に任命された尊氏にライバル心を燃やしていた護良親王自身が、拒否る後醍醐天皇に要求して強引に獲得したというものと、鎌倉幕府のような武家政権が誕生する事を恐れた後醍醐天皇のほうが、尊氏に対抗させるため息子を征夷大将軍にしたという2つの説があります。

前者の場合は、すでに鎌倉幕府討伐の時点で、後醍醐天皇の預かり知らぬところで護良親王が令旨を連発したところから、すでにこの時、親子関係に亀裂が生じていたとも言われますが、前者と後者に共通しているのは、やはり、尊氏・・・いや、源氏という武家に対する警戒や対抗意識があったというところでしょう。

Moriyosiinnou500ast しかし、いくら武芸にすぐれ、自らが先頭に立ってゲリラ戦をこなしてきたとは言え、護良親王は天皇の息子・・・ちょっと腕に覚えのあるヤンチャなぼんぼんが張り切ったところで、プロの戦闘集団の武士を統率できるはずもなく、征夷大将軍は名ばかりのものとなり、結局、数ヶ月後には解任されてしまいます。

こうなると護良親王も、自らの周囲に武士を集める有効な手段がなくなり、もともと取り巻いていた武士からも見放され、やがては、数少ない手持ちの武士たちとともに、辻斬りをやったりのテロ行為に走ります。

・・・で、結局、後醍醐天皇の命により、「皇位簒奪(さんだつ・天皇と血縁関係にある者が皇位を奪取する事)の罪で、建武元年(1334年)10月に、参内したところを捕らえられて鎌倉に幽閉・・・尊氏の弟・足利直義(ただよし)監視下に置かれます。

しかし、その翌年、鎌倉幕府・最後の執権だった北条高時の遺児・北条時行を担いでの諏訪頼重(すわよりしげ)らの中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発し(2012年7月23日参照>>)、北条の幕府再興軍に親王を救出されて奉じられる事を恐れた直義によって、建武二年(1335年)7月23日護良親王は幽閉先で暗殺されてしまうのです。

この時、護良親王は・・・
「尊氏より、父のほうが、ずっとうらめしい」
と、言ったとか、言わなかったとか・・・

そもそもは、護良親王に皇位簒奪の意志が本当にあったのかどうかも怪しいところで、なにやら、父・後醍醐天皇と、ライバル・尊氏という海千山千の猛者たちの抗争に巻き込まれて翻弄された感の拭えないお気の毒な末路です。

ところで、ご存知のように、征夷大将軍と言えば、もともとは、古代律令国家が蝦夷(えぞ・東北より北の地方)を征討するための司令官に与えた役職・・・古くは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(11月5日参照>>)なんかが有名ですが、畿内の律令国家の東北経営が一段落した弘仁年間(810年~824年)頃からは中断されていました。

やがて、ご存知のように、建久三年(1192年)に源頼朝が、この役職に任命されてからは、室町幕府の足利、江戸幕府の徳川と、中世・近世を通じて武家の棟梁あるいは幕府の長が、この征夷大将(略して将軍)と呼ばれる事になるのですが、すでに書かせていただいているように、あの木曽(源)義仲も、源平の戦いの真っ只中で、一時、強引に征夷大将軍を獲得しています(1月11日参照>>)

ただし、上記の通り、義仲の場合は鎌倉幕府という最初の武士政権が誕生する以前・・・それを考えると、源頼朝以降から明治維新まで、武家の長という意味で征夷大将軍に任命された中で、護良親王は、唯一の幕府を持たない征夷大将軍という事になります。

護良親王・・・享年28歳、
武門の棟梁を夢見て征夷大将軍となったマッスル皇子にとっては、まだまだ夢の途中・・・

はがゆいばかりの最期だった事でしょう。
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2009年7月22日 (水)

関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動

 

慶長五年(1600年)7月22日、徳川家康会津征伐を目前に、直江兼続が弟の大国実頼に、越後一揆を扇動するよう命令を発しました。

・・・・・・・・・・

昨日に引き続いての関ヶ原関連って事で、とりあえず簡単に流れを整理しますと・・・

そもそもは、豊臣秀吉亡き後、合戦での活躍でのし上がって来た加藤清正武闘派と、内政の功績で出世して来た石田三成文治派との対立(3月4日参照>>)につけ込んで、天下の実権を握ろうとする徳川家康が、会津の上杉景勝(かげかつ)上洛を要請・・・

Naoekanetugu600 それを、景勝が拒否し(4月1日参照>>)、さらに、上杉家臣の直江兼続(かねつぐ)が、あの「直江状」を突きつけてダメ押し(4月14日参照>>)をした事で、家康は「会津に謀反の疑いあり」として会津征伐を決意し、軍勢ととも伏見城を出陣・・・

・・・で、家康が畿内を留守にした間に、三成が行動を開始します。

7月15日には西軍の大将をお願いした毛利輝元を大坂城へ招き入れた後、未だ会津征伐には向かっていない諸将の東下を阻止すると同時に、会津へ向かった諸将の妻子を大坂城へと入城させ人質とします。

7月17日には、家康とともに会津に向かった細川忠興(ただおき)の妻・玉子(ガラシャ)が、その大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という悲劇もありながら、7月19日には家康が留守となった伏見城を攻撃(7月19日参照>>)し、昨日、7月21日には、その玉子の舅である細川幽斎(ゆうさい)の籠る田辺城への攻撃を開始します(2009年7月21日参照>>)

・・・で、昨日も書かせていただいたように、この田辺城攻撃を同じ日に、会津征伐に向かう途中で三成の書状を受け取った真田昌幸信幸(信之)父子が、東西別々の軍へと袂を分かつ(2008年7月21日参照>>)わけですが・・・(その他の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でどうぞ>>)

この時点では、家康は、まだ会津に向けて進攻中・・・家康としては、本当に上杉を討とうとしていたのか?はたまた、畿内を留守にして三成に行動を起させようとしたのか?

その真意のほどは、本人のみぞ知るところですが、まだ、ここでは、畿内の様子は家康には届かず・・・7月21日に江戸城を発った家康以下会津征伐軍は、さらに北東の小山(栃木県)へと向かい、7月24日に小山に到着し、ここで、三成が伏見城を攻撃した事を知り、翌・25日に、あの有名な「小山評定」を開くわけで、その評定の場で、ともに会津に向かっていた諸将に、「このまま東軍につくのか?大坂へ戻って西軍につくのか?」を問い、自らも、会津征伐を中止して、西へのUターンを表明するのです(7月25日参照>>)

つまり、本日7月22日の時点では、ポーズかも知れない疑いはあるものの、まだ、家康は会津征伐をするために北上し、上杉も、家康が来れば迎え撃つ態勢であったわけです。

かくして慶長五年(1600年)7月22日、ご存知、今年の大河の主役・兼続は、弟である大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、上杉の息のかかった昔馴染みの越後の土豪(どごう・半士半農の地侍)たちに声をかけ、越後の領民たちを一斉蜂起させて、一揆を扇動するように命令を出したのです。

これは、現在、越後を治めている堀秀治(ほりひではる)が、家康寄りである事を受けて、その行動を封じ込めるためのもので、すでに、三成も承諾済み・・・7月14日付けの兼続宛ての三成の書状には、「越後はもともと上杉の所領なので、秀頼公の意向により、上杉に返還する」と、兼続の計画を、むしろ喜んでる雰囲気です。

・・・と、上杉と言えば、ついつい越後を思い浮かべてしまいますが、実は慶長三年(1598年)の10月1日、秀吉からいきなり、会津への加増転封を命じられ、越後から会津へお引越しをしています。

これは、それまで会津を治めていた蒲生氏郷(がもううじさと)が亡くなった事によって、会津の蒲生家が宇都宮へ引越し、その会津に上杉が・・・そして開いた越後に堀が・・・って事なのですが(1月10日参照>>)、実は、このお引越しの際に、すでに、序章は始まっていたのです。

普通、大名の国替えの場合、領民から徴収する年貢米は、前半の半年分のみを徴収し、残りの半年分は、新たにやってくる大名のために残しておくのが常識だったのです。

もちろん、堀秀治はそのつもりで、自分のところの下半期分を新領主に引き継いで越後にやってきましたが、いざ、年貢を徴収しようとすると・・・「すでに渡したので、もう、ありません」と・・・

つまり、上杉が一年分を先に徴収し、それを持ったまま、会津に引っ越してしまっていのです。

当然の事ながら、半年分の年貢の返還を、上杉に求める秀治・・・

しかし、兼続は・・・
「そんなん知らんがな、蒲生も一年分持っていってるし、それをせーへんかったお前とこが悪いんちゃうん」と、秀治の要求を一蹴します。

しかたなく、秀治は、入国後すぐに検地を行い、寺社からは所領を没収し、農民には追加の増税を行います。

当然の事ながら、これで、寺社や農民からの反感を買う事になります。

しかも、その引越しの時、上杉は、秀吉から、家臣団はもちろん、奉公人にいたるすべての関係者を連れて引越しをするように命じられていましたが、越後に勢力を残しておきたい上杉は、これも、ちゃんとやってはおらず、未だ、上杉の息のかかった者が、多く越後に残ったままになっていたのです。

この両方が相まって、兼続が一声かければ、一揆爆発の状態が、すでに越後の中に存在していたのです。
・・・なかなかやりますねぇ~景勝&兼続さん。

かくして、この関ヶ原直前のタイミングで勃発した越後一揆・・・もちろん、会津からも密かに兵を派遣し、一揆勢は、上条城下倉城などを次々と攻略して堀勢を翻弄し、気勢をあげます。

しかし、一揆勢の盛り上がりとはうらはらに、ここで三成から兼続へ「堀は西軍についた」との知らせが入ります。

実は、秀治は、この時、越中へと兵を進め、家康側にたって奮闘する前田利長(8月6日参照>>)を攻撃する構えを見せていました。

三成からの知らせもあり、秀治の動向もあり、で、とにかく、ここで一揆の停止命令を出してしまった兼続でしたが、実は、これは秀治の謀略・・・利長を攻撃する構えは、本当に構えだけで、この秀治の策略に、見事、三成は騙されてしまったのです。

9月に入って、東軍での参戦を明白しにする秀治・・・慌てて兼続は、再び、一揆勢に立つように扇動しますが、もはや手遅れ・・・一揆は急速に勢いを失ってしまいました。

終ってみれば、ある程度、堀勢を苦しめはしたものの、その成果のワリには、越後領内を荒廃させ、国内に深い傷跡を残すだけの一揆となってしまいまいた。

はてさて、またもや、楽しみが増えましたね。

義を重んじる上杉がルール違反の年貢徴収、大事な越後の民に、自ら越後を焦土と化す一揆を扇動・・・果たして、心やさしき今年の妻夫木兼続さんは、ここらあたりをどのように演じてくれるのか?

「天地人」の原作を読んでいない私は、是非とも、大いにかっこよく描いていただきたいと、心待ちにしております。
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2009年7月21日 (火)

たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦

 

慶長五年(1600年)7月21日、徳川家康とともに会津征伐へと向かい、そのまま東軍となった細川忠興の城・田辺城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の合戦・・・・(一連の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でもどうぞ>>)

天下統一を果たした豊臣秀吉の死後(8月18日参照>>)、表面化する加藤清正武闘派の家臣たちと、石田三成文治派の家臣たちによる豊臣家内の対立・・・(3月4日参照>>)

そんな中、前田利家亡き後、豊臣配下の武将の中でトップの座となった徳川家康は、伏見城に居座り、徐々に、亡き秀吉の決めたルールを破りながら、天下人のごとく、会津上杉景勝(かげかつ)上洛を要請します。

しかし景勝が、この上洛要請を拒否した事で(4月1日参照>>)、家康は、「上杉は謀反を企てている」として会津征伐を開始・・・伏見城を後にして、一路、東へと軍を進めます。

この家康の留守を見計らって、三成は行動を開始します。

まずは、西軍の大将として、西国の雄・毛利輝元大坂城へと呼び(7月15日参照>>)、次ぎに、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)など、会津へ向かわなかった西国の大名の東下を阻止・・・

さらに、家康とともに会津征伐へと向かった諸将の妻子の帰国を禁止し、大坂城に留めおこうとします。

これは、もちろん、家康とともにいる武将を西軍に味方させるための人質で、しかたなく大坂城に入る者もいましたが、当然の事ながら、この強引な人質作戦に抵抗する者も・・・

その中で、加藤清正や黒田如水(じょすい=官兵衛)父子の妻子などは、うまく脱出しますが、悲劇たっだのは、やはり、家康とともに会津へと向かっていた宮津城主・細川忠興(ただおき)の妻・玉子(洗礼名:ガラシャ)・・・

彼女が、大坂城への入城を拒否して自害した事で(7月17日参照>>)、結局、西軍は、この人質作戦を中止せざるをえなくなり、逆に諸将の反感を買う結果となってしまいました。

次ぎに、西軍は、東軍配下の諸将の城への攻撃を開始・・・まずは、家康の留守を守る伏見城・・・(7月19日参照>>)

Hosokawayuusai600a この西軍の動きに、居城の宮津城(京都府)を捨て、田辺城へと移って守りを固めるのは、すでに嫁が死を選んだ忠興の父・細川幽斎(ゆうさい・藤孝・・・彼もまた、死を覚悟しての田辺城入城でした。

なんせ、領内に残る兵は、ごくわずか・・・領主の危機を聞いて駆けつけた農民や町民・僧侶たちを含めても、わずか500の軍勢で、田辺城を守らねばなりません。

一方の西軍は、一刻も早い畿内制圧を目標に、援軍を派遣・・・福知山城主・小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将に、援軍を含む1万5000で田辺城を囲み慶長五年(1600年)7月21日攻撃を開始しました。

東方では、会津征伐を中止した家康が、従う諸将に、大坂で待つ妻子の事を告げ、「このまま家康の東軍につくか?大坂に戻って西軍にくみするのか?の選択を迫っていた頃・・・

ちなみに、西軍につく決意をした父・真田昌幸と弟・幸村(信繁)と袂を分かち、東軍につく決意をした兄・真田信幸(信之)父子の犬伏の別れ(2008年7月21日参照>>)も、同じ、この日でした。

・・・で、話を田辺城に戻しますが・・・

30倍もの数の兵に囲まれた風前の灯火の田辺城・・・もはや、「数日ももたずに落城するだろう」と、誰しもが思うところですが、これがなかなか踏ん張ります。

・・・というのも、籠城する細川側は、当然の事ながら、必死のパッチでの守り・・・なんせ幽斎自らが、死を覚悟しての籠城ですから・・・

しかし、一方の西軍の士気は、さほど高くはなかったのです。

それは、すでに戦いが開始されてまもなくの段階で、朝廷の干渉があったからなのです。

そうです・・・例の『古今伝授(こきんでんじゅ)です。

以前、幽斎さんのご命日のところで書かせていただいたので(8月20日参照>>)、少し内容がかぶりますが・・・この『古今伝授』・・・要するに、「古今和歌集を正しく読める奥儀を身に着けた人」という事なのですが、これが、現代人が思う以上に重要な人物だったわけです。

書面に写すとしても手書き、写真も録音機もビデオも無い時代ですから、こういった伝統ある歌集の解釈が、人から人へと口伝えされていくうちに、間違った解釈をしてしまう事を防ぐため、奥義をマスターした人から、直接その奥義を学び、教えた人が「こいつは完璧にマスターした」と判断した時点で、その生徒に『古今伝授』を授けるというシステムになっていたわけです。

幽斎は、この古今伝授を受けていましたから、彼がいなくなると正統が途絶えてしまう事になるのです。

時の後陽成(ごようぜい)天皇をはじめ、公家たちは、これが気にかかる・・・。

結局、そのために朝廷が介入した事によって、最初の数日間しか激しい戦闘は行われず、後は、ずっと膠着状態が続く事に・・・

7月27日には、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)(12月29日参照>>)が使いを出し、立て籠もる幽斎へ、開城するように説得します。

しかし、幽斎は逆に、その使者に手紙を1通・・・

そこには、
♪古(いにしへ)も 今もかはらぬ 世の中に
  心のたねを のこす言
(こと)の葉(は) 
の歌とともに、智仁親王に古今伝授を行った旨の「証明書」があったのです。

これで、幽斎の決死の覚悟を確認した天皇は、すぐに勅使(ちょくし・天皇の公式な使者)を派遣して、さらに、降伏&開城の説得を続けます。

この間の西軍は、天皇の介入におそれおおき事とひれ伏すばかり・・・攻撃なんてできるわけがありませんよね。

結局、ねばりにねばった幽斎が開城をしたのは、9月13日・・・あの関ヶ原の合戦の2日前まで頑張りました。

この2ヶ月近くの間、西軍は1万5000もの兵を、ただ田辺城を見守るだけに費やしてしまい、この時期の畿内の制圧に大きく影響したとされ、後にこれを知った家康は大いに喜んだと言います。

そういう意味では、幽斎の思惑は見事に成功・・・一般人を含めたたった500人で、関ヶ原の勝敗を左右する事になったわけですからね。

徳川の世で、細川が優遇されるのも、ここに端を発しているのかも知れません。

ただ・・・
自分の留守中に田辺城を攻撃された形の忠興は、そこに参戦した諸将を許す事ができなかったらしく、15日の関ヶ原本チャンの後、小野木重次の福知山城を攻める事になるのですが、そのお話は9月27日の【関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦】でどうぞ>>
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2009年7月20日 (月)

薄命の将軍・徳川家茂が後世に残した物は?

 

慶応二年(1866年)7月20日、第二次長州征伐の最中、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂が大坂城にて、21歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「篤姫」・・・松田翔太くん演じる徳川家茂(いえもち)が、北大路海舟の腕に抱かれて亡くなるシーンは、なかなかの感動モンでした。

確かに、実際には家茂さんを看取ったのは松本良順(りょうじゅん)(3月12日参照>>)という奥医師ですが、ドラマでの後半の勝海舟は、前半の尚五郎さんに匹敵する重要な役どころでしたから、そういう変更はアリだと思ってます。

・・・で、その家茂最期のセリフで・・・
「私は、いったい何を成したというんだろう」
と、自らが将軍となったにも関わらず、何もやり遂げられなかった事へのはがゆさのような気持ちを語っていたように記憶しておりますが、確かに、実際の家茂さんも、志半ば・・・といった感の拭えない死であったと察します。

朝廷と約束した攘夷(外国の排除)は決行できず、長州征伐の実戦に出る事もなく・・・しかも、亡くなった場所が大坂城という事は出陣中・・・徳川家康以来、歴代の江戸幕府将軍の中でも、陣中で亡くなったのは、この家茂さんだけだという事を思えば、さぞかし無念であった事でしょう。

ただ、彼が何も成し遂げられなかったのは、ボンクラ将軍だったからでも、傀儡(かいらい・操り人形)だったからでもなく、ひとえに、そのやさしさと、年齢の若さゆえではなかったか?と思います。

紀州藩主・徳川斉順(なりゆき)の長男として、江戸赤坂の藩邸で生まれた彼は、幼い頃から藩主としての英才教育を受け、聡明な少年に育ちます。

時は幕末・・・ペリーの黒船来航(6月6日参照>>)によって幕府が大きく揺れる中、第13代将軍・徳川家定が、子供もなく病弱だったため、その生存中から、すでに後継者決定の話が持ち上がります。

ご存知のように、一橋(ひとつばし・徳川)慶喜を推す徳川斉昭一橋派と、この家茂(当時は慶福)を推す井伊直弼(なおすけ)紀州派との間でひとモンチャクあった後、紀州派が勝利して、家定亡き後は、この家茂が第14代将軍となりますが、この時、彼は、まだ13歳・・・

確かに、その聡明さゆえ「吉宗公(8代将軍)の再来!」と称された彼でしたが、時代は幕末の動乱期です。

いくら聡明でも、わずか13歳の将軍が、采配を振ってやっていける状態ではないのは明らか・・・当然の事ながら、彼を将軍に担ぎ上げた周囲の者たちが、自分たちの思い通りにするために、自分を将軍にした事は、それこそ、聡明な彼には、わかっていたに違いありません。

やがて、安政の大獄で、反対派を徹底的に弾圧する大老・井伊直弼は、その反対派に桜田門外の変で殺され(3月3日参照>>)幕府の威信は地に落ち、朝廷との関係も最悪になってしまいます。

そんな幕府が、何とか、朝廷との関係を改善して、巻き返しを図ろうと考えたのが公武合体政策・・・朝廷(公)と幕府(武)が一緒になって、何とか、この動乱期を乗り越えようというのです。

その象徴となったのが、彼・家茂と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚でした(8月26日参照>>)

ただ一つの救いは、以前も、和宮さんのご命日の日に書かせていただいたように、100%の政略結婚であったわりには仲睦まじいお二人(9月2日参照>>)であった事くらいでしょうが、その結婚から、わずか一年後、家茂は、江戸幕府将軍として230年ぶりに上洛し、朝廷のゴリ押しで攘夷決行を約束してしまいます。

この上洛の時、攘夷祈願で、賀茂神社に詣でる天皇の行列のお供を命じられた家茂は、天皇や公家らが、御輿に乗って悠々と進む後ろから、馬に乗ってついていくという、「幕府は朝廷の下」という事を一般民衆にも見せ付ける、将軍にとっては屈辱的な事もさせられていますが、彼は従順に従っています。

ちなみに、この行列を見た高杉晋作「よっ!征夷大将軍!」と、バカにするような声かけをしたなんてエピソードもありますが、声をかけたのが、晋作だったかどうかは定かではないものの、本当に、このような声をかけた者が見物人の中にいた事は確かなようで、そんな事にも、黙って耐えなければならないほど、幕府の力は弱まっていたのです。

しかし、この時、朝廷と約束した攘夷も、そして、この2年後に勃発する第二次長州征伐(5月22日参照>>)でも、彼が積極的に事を行う事はなく・・・というより、彼は、いつも、周囲の大人たちに、その判断を聞かねばならなかったのです。

この時の長州への対応にしても、強硬派の老中が「藩主の毛利父子は死罪だ!」と言ったかと思うと、補佐役の慶喜は「いや、毛利は由緒正しき家柄なので半分くらいの領地没収でいいんじゃない?」と言い、守護職の松平容保(かたもり)「藩主の助命はいいけど領地は3分の1くらいにしないと・・・」と、意見がバラバラ・・・しかも、そこには家茂の意見などは組み込まれない始末・・・

Tokugawaiemoticc そんな心痛からか、家茂は、その第二次長州征伐が始まって間もなく体調を崩して、そのまま病床につき、慶応二年(1866年)7月20日21歳の若さで亡くなってしまうのです

その聡明さゆえ、自らが傀儡である事を知り、
その若さゆえ、周囲の意見を聞かねばならず、
そのやさしさゆえ、自らの意志を強引に貫く事ができなかった家茂さん・・・まさに、冒頭の「私は、いったい何を成したというんだろう」という生涯だった事でしょう。

そのため、昨年の篤姫でスポットを浴びるまで、「15代将軍の慶喜は知っていても、14代の家茂は知らなかった」という方も多かったのではないでしょうか?

しかし、そんな中、彼は、生涯でただ一度、誰にも相談せず、自らの意志で、後世に残るある事を決定しています。

それは、先に書いた、朝廷に対して攘夷の決行を約束した直後の頃の事でした。

幕府の威信が地に落ちてしまった事で、高飛車な態度の朝廷に、ムリヤリ約束させられてしまった攘夷の決行・・・しかたなく、「やります」とは言ったものの、もはや開国して外国人がどんどん入り込んできてしまっている状況で、できるわけがない事も明白でしたが、約束した以上、ちょっとくらいは、やってる感じのポーズもとらないとならないわけで・・・

そこで幕府は、「わが国は、周囲を海に囲まれた島国・・・まずは、海から来る敵を討ち果たしましょう」とウマイ事言って、何かやってるふりのパフォーマンス=大坂湾の湾岸警備の視察をやる事に・・・

そこには、当然、将軍の家茂もかり出されたわけですが、その時、その案内役をしたのが、まだまだ幕府の下っ端だった勝麟太郎・・・後の海舟でした。

その時、湾岸警備の重要性を熱心に家茂に説明する中で、勝は、家茂が、ただの傀儡だとウワサされているようなボンクラ将軍ではない事に気づき、一世一代の直訴をします。

「どうか、海軍を作らせて下さい」と・・・

日本は、それこそ、古墳時代の昔から渡来人がやってきて、奈良時代には遣唐使を派遣し、平安末期には平清盛が海運を発達させ、室町には足利義満が明と貿易し、戦国時代には織田信長が南蛮と・・・と、もともとは島国ならではの海洋民族であったはずなのに、江戸時代になってからは鎖国をし、幕府に反発させないため、各藩には大きな船を造る事さえ禁止にしていましたから、その頃の幕府には、海軍が重要であるという意識がほとんど無かったのです。

それこそ、ペリー来航という大事件で、慌てて「長崎海軍伝習所」なるものを、この数年前に設立してはいましたが、それも、充分な成果を挙げられないまま、わずか四年で閉鎖されていたのです。

しかし、上記のごとく、家茂は、何でも周囲の意見を聞かねばならない立場・・・「江戸に持ち帰り吟味いたす」と言ったら、おそらく、この話はウヤムヤになっていた事でしょう。

しかし、彼は、その場で、即座に決定したのです。

「わかった・・・余が、この場で許す。
勝が立派な海軍に育ててくれ」
と・・・

それこそ、将軍の視察ですから、周囲には、証人とも言うべき幕臣がワンサカいます。

将軍が、皆の前で直接はっきりと口にした命令・・・もう、誰も逆らえません。

かくして、元治元年(1864年)、ご存知「海軍操練所」が造られ、勝は総責任者に任ぜられます。

結局、家茂自身は、その2年後に、海軍の成長途中で亡くなったわけですが、さらにそのわずか2年後の明治元年(1868年)、奇しくも幕府海軍の最後の姿となった榎本武揚(えのもとたけあき)艦隊(12月15日参照>>)が、すでに世界に誇れる海軍であった事を考えれば、その成長ぶりがいかにスゴイものであったかがわかるというものです。

さらに、その後も、引き継がれた海軍精神は、やがて、日本海海戦(5月27日参照>>)で世界を驚かせる事になるのです。

傀儡と呼ばれた薄命の将軍・家茂の、生涯ただ一度の独断でした。
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2009年7月18日 (土)

父に愛され、母に抹殺された鎌倉2代将軍・源頼家

 

元久元年(1204年)7月18日、伊豆・修善寺に幽閉されていた鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が入浴中に謀殺されました

・・・・・・・・・・・

栄華を誇った平家一門を倒し、鎌倉幕府という武士政権を誕生させた、ご存知・源頼朝(よりとも)・・・

そんな頼朝と、妻・北条政子の間に、長男の頼家(よりいえ)が誕生したのは、頼朝が富士川にて平家を破った(10月20日参照>>)2年後・・・寿永元年(1182年)の事でした。

石橋山の敗戦から再起を誓って、そして富士川で勝利して・・・打倒平家と、その後の源氏の世を夢見る頼朝にとって、自らの後継者の誕生は、ことのほか嬉しかったようです。

やがて、成長した頼家は、父の期待を裏切る事なく、りっぱな体格の少年に育ち、父の言う事をよく聞き、武芸にも勉学にも励む素直な性格でした。

頼家が、富士の裾野で開かれた狩りに、大人に混じって参加した12歳の時、初めての狩りにも関わらず、見事、鹿を射止めた事があったのですが、大いに喜んだ頼朝は、すぐに祝宴を開き、さらに、鎌倉にいた政子のもとにルンルンの手紙を出しています。

ところが、それを受け取った政子は、「武士なら当たり前」と、意外と冷静・・・どうやら、このお父さんとお母さん、子育てに対する信念が、ちょっとばかり違ったようではあります。

そんな両親の間で、なかなかの武将に育った頼家でしたが、悲しいかな、次期将軍への完璧なバトンタッチの土壌を設定する前に、父・頼朝は亡くなってしまいます(12月27日参照>>)

Minamotonoyoriie600a その頼朝の後を継いで、18歳で二代目将軍となった頼家・・・

そもそも、流人の身であった頼朝が、今までに無い武家政権を造れた背景には、ためにならないと思えば身内でもバッサリと排除する一方で、有力だと思える武将は御家人として重用し、その賞罰には私情を挟む事なく、絶妙なバランスで配下の者を管理していた事があったわけですが、どうやら、政子をはじめ、頼朝と苦楽をともにした御家人たちは、頼家には、未だそんな幕府を統率する能力がないと判断したようです。

それが、合議制のスタート・・・政子の父の北条時政をはじめとする御家人・13人による合議制で、幕府の重要事項の決裁をするというものでした(4月12日参照>>)

先進的なシステムではありますが、当然の事ながら、これでは、将軍のリーダーシップを発揮する事はできません。

それこそ、頼家が、父の期待を裏切るようなボンクラな武将でいてくれたら、そのままうまくいったのかも知れませんが、なまじ、なかなかの器量を持ち合わせていたぶん、その不満はつのります。

さらに、その合議制は、将軍ではない力のある御家人の意見jに左右される状況となってきます。

そんな時に力を持ち始めたのが、比企能員(ひきよしかず)です。

彼は、頼朝の乳母の養子で、妻は頼家の乳母、さらに、娘・若狭局頼家の寵愛を一身に受け一幡(いちまん)という息子ももうけています。

これは、嫁・政子の実家として御家人トップの座にいた時政と息子・義時(政子の弟)にとっては、由々しき問題です。

そんなこんなの建仁三年(1203年)、頼家が病にかかり、一時重体となった事をきっかけに、時政らが動き始めます。

それは、総守護職と関東28カ国の地頭職を頼家の長男・一幡に、関西38カ国を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させようというもの・・・

そうです、現在、重体にある頼家に、このまま、もしもの事があると、ずべてが、その息子である一幡に行ってしまいますから、少しでも、それを阻止しようと企んだわけです。

・・・で、この弟の千幡・・・頼家の弟という事は、そう、母親は政子その人ですから、何とか、半分だけでも、北条が外戚として、その勢力を維持できる事になります。

しかし、当然の事ながら、能員側は不満です。

そこで、若狭局を通じて、病床に頼家に、「北条は、千幡を担ぎ出して、将軍職を奪おうとしてる」とチクリ・・・その話を聞いた頼家は激怒!

すぐさま能員を呼び寄せて、北条討伐の密議を交わしますが、その様子を見ていた政子が、今度は、父・時政にチクリ・・・

これを聞いた時政は、「将軍が病気なのを良い事に、その命令だと偽って叛逆を企てている」として、能員をおびき出し、騙まし討ちに・・・

異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もりますが、そこを、和田義盛畠山重忠といった名だたる御家人が包囲・・・激戦の末、比企氏は滅亡し、一幡も、わずか6歳の命を散らしました。(9月2日参照>>)

その日の夜から翌々日にかけて、能員の近臣たちは、ことごとく幽閉や流罪となり、その後、息子・一幡の死を悲しみながらも、病から回復した頼家は、母・政子から剃髪を勧められ、心ならずも剃髪して将軍職を弟の千幡=実朝(さねとも)に譲り、その身は、伊豆修善寺へ護送され、幽閉生活を送る事となりました。

しかし、翌年の元久元年(1204年)7月18日、結局、頼家は、北条の放った刺客によって暗殺されてしまうのです。

享年22歳・・・父の期待を一身に受けて育った若き将軍は、母の手によって、その生涯を閉じました。

その後、未だ12歳の3代将軍・実朝を補佐するため、政所別当となった北条時政は、この後、北条家が代々引き継いでいく事になる鎌倉幕府・執権の座を手に入れる事となります。
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2009年7月17日 (金)

先の読めない「天地人」から目が離せない

 

歳がバレるので、最初に夢中になった作品名は言わずにおきますが、私は、大河ドラマとは、かなり以前からのおつきあいである事は確かです。

その後、人生の浮き沈みとともに見たり見なかったりしていましたが、2004年の「新選組!」からは、1週も欠かす事なく拝見させていただいております。

そんな中、私のベストオブ大河ドラマは、タイトル通り、今年の「天地人」です。

ブログを始めてから丸3年・・・現在は4年めに突入しておりますが、その間に・・・
2006年=功名が辻
2007年=風林火山
2008年=篤姫

そして、2009年=天地人ときましたが、今年の天地人ほど、このブログに何度も登場する大河ドラマは、今までにありませんでした。

功名ヶ辻に関してはほとんど書いていませんし、風林火山は、それに因んだ「孫子の兵法」(12月28日参照>>)については書かせていただきましたが、ドラマの内容には、やはり、ほとんど触れていません。

あんなにオモシロかった篤姫でも、一年間で書いた関係するページは五つほど・・・(くわしくは【大河ドラマに思う事イロイロ】からどうぞ>>)

なのに、今年の天地人に関しては、今現在ですでに七つ・・・このページを入れて八つめになります・・・これは、やっぱり「好きだ」という事でしょう。

確かに、これまでに書いております記事は、見ようによっては「批判」ともとれるものですが、本当にキライなら、次週からは見ません。

何度も申しております通り、これは「愛するがゆえのツッコミ」なのです。

以前、コメント欄に書かせていただいたように、私は、未だに特撮ヒーローモノが大好きで、現在も欠かさず見ておりますが、それは、あのシュールな愛すべき主人公と敵軍団に、お茶の間からツッコミを入れるのがたまらなく好きだからなのです。

正面玄関に堂々と「ショッカー秘密基地」という看板を掲げてみたり、世界征服が目的なのに、なぜか幼稚園を襲撃したり・・・さすがに、大河ドラマでそんな事はやってくれませんが、これからどうなるのか?「先が読めない」という点では、それに似た感じがあります。

歴史が好きな者にとっては、その先に何が起こるかをある程度知っているので、これまでの大河ドラマなら、何となくこの先の展開の予想が何パターンが浮かぶわけですが、今回の天地人はかなり大胆な発想で、その予想をくつがえしてくれるわけです。

いきなり猿飛佐助が登場したり、福島正則が宙を舞ったり、真田が上杉の筆頭家老に向かって手裏剣投げたのに何の問題にもならなかったり・・・

つい先日は、伊達政宗が初登場でしたが、隣国の芦名に進攻しようとする政宗を極悪非道よばわりしたしりから、我らが上杉は佐渡を侵略・・・いや、上杉に言わせれば、これは侵略ではなく平定なんだとか・・・

実際には、炎に包まれた河原田城にて自刃したはずの本間高統(たかつな)(6月12日参照>>)から、妻夫木兼続は、見事な話し合いで佐渡を譲ってもらっていましたね。

まさに、予想外でした。

予想外と言えば、遠山康光(やすみつ)の再登場にも驚きました。

このかたは、御館の乱で敗れた上杉景虎が、上杉謙信の養子になった時に、北条家からともにやってきた景虎の家臣・・・実際の歴史では、景虎が自刃した時に殉死するはずなのですが、確かに、ドラマでは景虎とともには死なず、なにやら不適な笑みを浮かべて去って行ったままになってました。

それは、再登場するって事だったんですね。

しかし、御館の乱の時も、いつもブラックな雰囲気満載で、なにやらこの人のせいでモメ事が大きくなったような設定でしたが、またもや、影となって暗躍するのでしょうか?

確か、来週は、そろそろ小田原城の攻防戦が始まるはず・・・ひょっとして、八王子城で上杉が行う悲惨な戦い(6月23日参照>>)を、この人のせいにしようとしているのでは?

まさかのナレーションでのスルーも含めて、まさに予想外の展開をしてくれる天地人から、今年は目が離せません。
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2009年7月16日 (木)

幕末の名君~薩摩藩主・島津斉彬の毒殺説

 

安政五年(1858年)7月16日、幕末期に登場した薩摩藩の名君とうたわれる第11代薩摩藩主・島津斉彬が亡くなりました

・・・・・・・・・・

昨年、大人気となった大河ドラマ・篤姫・・・ドラマの中で高橋英樹さんが演じていた、篤姫の養父となる人が島津斉彬(なりあきら)です。

後継者を巡る争いに勝利して、第11代薩摩藩主となった斉彬は、世界情勢にもくわしく、自らも洋学を学んでいて、薩摩藩には、積極的に西洋の技術を取り入れて、富国強兵・殖産興業政策を行いました。

嘉永五年(1852年)に、大砲鋳造のための反射炉を建設したのをはじめ、溶鉱炉ガラス工場・・・さらに、鍛冶場紡績所などなど、多くの工場を建設します。

安政四年(1857年)には、この工場の集合体を集成館と名付け、ここは、鉄砲などの軍用品から、お酒や生活用品、薬までが生産される東洋一の工場地帯となっていました。

篤姫が、嫁入り道具として持参した事で一躍有名となった薩摩切子(さつまきりこ)も、この集成館内のガラス工場で作られたものでした。

事実上、琉球を支配下に治めていた事で、刻々と変化する世界情勢も把握済みの斉彬は、鎖国を解いた今となっては、「外国と積極的に貿易し、果ては留学生を派遣して藩の近代化をはかり、諸外国と対抗できる力をつけなければならない」とも思っていたようです。

幕府より一歩先行く考えを持っていた・・・そんな斉彬でしたが、開国から四年後の安政五年(1858年)7月16日、にわかに体調を崩し、50歳で急死してしまったのです。

Simadunariakira600 その日の軍事演習に参加した後、いきなり倒れたと言われていますが、軍事演習への参加は、この時が初めてではありませんし、むしろ、軍備の近代化も推し進めていた斉彬ですから、国元に滞在している時は、毎日のように軍事演習に参加し、時には、見学だけでなく、指揮もとっていたようですので、演習参加での疲れではなく、何かの病気にかかっていたものと思われます。

記録では、高熱や腹痛・下痢などの症状があり、一般的には、その死因はコレラだったと言われています。

もちろん、彼を診察した医師も、「コレラ」と診断していますし、おそらく、そうなんでしょう・・・が、やはりあります!毒殺説!

・・・というのも、この斉彬さんの死・・・あまりにも絶妙なタイミングで彼が亡くなってしまう事で、どうしても、人為的な疑いを持ってしまうのです。

確かに、世界に対抗できるレベルの軍事力をめざしていた彼でしたが、さすがに、最初は、その軍事力で幕府を倒そうなんて考えはなく、あくまで、現在の幕府内での、自分の発言権を強めて幕政改革を行おうと考えていました。

それが、養女・篤姫の13代将軍・徳川家定への輿入れであり、次期将軍に水戸家出身の一橋(徳川)慶喜を推す事でした。

以前は、この篤姫の輿入れは、その次期将軍を慶喜にするための大奥工作であったという説が有力でしたが、近年の研究では、この輿入れの話は、それ以前の嘉永年間の頃から、すでに打診があった事が確認されていて、次期将軍問題とは関係なく、あくまで、徳川家と島津家を結ぶ絆であり、島津が幕府内でより力を持つための婚礼であったようです。

ただ、篤姫の婚礼とは無関係であっても、斉彬が、次期将軍に慶喜を推していた事は事実で、それも、幕政改革の一部であったわけですが、ご存知のように、安政五年(1858年)4月、事態は急変します。

あれよあれよと言う間に彦根藩井伊直弼(なおすけ)大老となり、次期将軍は、紀州の慶福=後の徳川家茂(いえもち)に決定してしまいます。

これには、やはり、大奥が根っからの水戸嫌いであった事と、何より、家定自身が、慶喜を快く思っていなかったからという説が有力です。

なんせ、次期将軍を決定するのは、現将軍なのですからね。

結局、斉彬ら一橋派は完敗となったわけですが・・・

そうです・・・同じ意志を持つ人物を将軍にして幕政の改革を行おうとしていた事が、失敗に終ってしまったわけですから、かくなるうえは、現段階では、幕府の上をいく薩摩の武力を行使しての幕政改革も考えなくてはなりません。

斉彬がそう思い始めた頃、更なる出来事が起こります。

この7月6日、家定が亡くなってしまうのです。

もちろん、家定が亡くなったから、すぐに、篤姫の立場がどうこうなるわけではありませんが、徳川家と島津家を結ぶ絆としての役割には、影響があるはず・・・少なくとも、この先、幕府内での島津家の発言権が、さらに強まる事は望めません。

この時の斉彬は、勢力の巻き返しを図るため、兵を率いての上洛を考えていたと言われていて、あの西郷隆盛も、彼からの密命を受けて、その準備に奔走していたのだとか・・・

・・・で、このタイミングです。

このタイミングで、軍事演習中に体調を崩すのですから、やはり、なにやら疑いを持ちたくなってしまいますよね。

当然の事ながら、斉彬が考える兵を伴っての上洛は、幕府にとって快い事ではありませんから、とてつもない怒りを買う事になるかも知れません。

藩の中には、「そういった行動で幕府を刺激し、お取り潰しにでもなってしまったら大変だ!」と考える保守派も数多くいたと言います。

まして、斉彬と藩主の座を争った異母弟・久光も、まだまだ健在なのですから、彼が死んで、その後継者に困るという事もありません。

・・・とは、言え、やはり、毒殺説は、何の証拠もない憶測ではあります。

・・・が、後に維新の立役者となる薩摩が、この斉彬の死によって、少し停滞してしまった事は確かで、もし、本当に、斉彬の死が保守派の画策によるものであったのなら、少なくともこの時点では、彼らの思惑通りになってしまったわけです。

しかし、彼の幕政改革への思いは、薩摩隼人の心の内に、すでに芽吹いていたに違いありません。

斉彬の後を追って死のうとした西郷は命を拾い(11月6日参照>>)寺田屋で発起した九烈士は命を落とし(4月23日参照>>)・・・

されど、維新へのカウントダウンは、いずれリーダーシップを取る事になる薩摩藩士のもとで、着々と刻まれていく事になるのです。
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2009年7月15日 (水)

長州の完全勝利~石州口・浜田城陥落

 

慶応二年(1866年)7月15日、第二次長州征伐における石州口の戦いで、長州軍が大麻山を占領しました。

・・・・・・・

慶応二年(1866年)6月5日、半ば強引に勅許(ちょっきょ・天皇の許可)を取り付けた幕府の宣戦布告によって開始された第二次長州征伐・・・初めてのかたには、まずは、その経緯を・・・

幕府側に言わせれば長州征伐となるこの戦いですが、長州から言えば四境戦争・・・その名の通り、大島口芸州(げいしゅう)石州(せきしゅう)小倉口4方向から攻められる絶体絶命の長州なわけですが、6月16日、小倉口では高杉晋作が、石州口からは大村益次郎が、それぞれ指揮をとり、西へ東へと、同時進行で作戦を展開します(6月16日参照>>)

Sikyousensoukankeizu3cc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、その16日と翌・17日の2日間で、津和野を越え、浜田藩領内の益田へと進攻した石州口側の長州軍・・・

その浜田藩は、現在、藩主の松平武聡(たけあきら)が闘病中で、もともと戦う気がほとんどないため、心配した幕府軍本営は、鳥取藩松江藩に援軍を要請し、紀州田辺城主の安藤直祐(なおひろ)先鋒の大将として浜田城へと送り込みました

慶応二年(1866年)7月15日、益田から浜田(島根県浜田市)へと向かう長州軍と、紀州兵がぶつかりますが、幕府の旧式の銃では、到底届かない距離からの長州の攻撃・・・しかも、ここまで何度か書いています通り、その腕前は見事で、遠距離から正確にターゲットを狙ってきます。

この日、長州軍は、浜田藩の最前線である大麻山を、やすやすと占領し、続いて、紀州藩の本陣をも崩しました。

さらに、長州にとってラッキーだったのは、浜田の一般市民の多くが、今回の長州征伐に関して、幕府への不審を抱いていた事・・・大義のない戦いに、なぜ、浜田が巻き込まれるのか?

そんな浜田の人たちは、本陣を崩された紀州兵が城下に逃げ込んできても、まったく助ける事がなかったと言います。

そのため、紀州兵の多くは浜田に留まる事なく、そのまま石見銀山のある天領・大森(島根県大田市)へと逃げ込みました。

そんな戦況を耳にした安藤は、結局、最初から最後まで浜田城を出る事なく「浜田城は放棄したほうがええんちゃう?」と言い残し、さっさと退却してしまいます

しかし、病床とは言え、藩主の松平武聡は、あの徳川斉昭(なりあき)の息子・・・言わば幕府の身内ですから、そう簡単に城を明け渡すわけにも行かず、今度は、「もっと大きい藩の、ちゃんとした人に指揮権を与えてチョーダイ」幕府に要請します。

そこで、白羽の矢が立ったのが、鳥取藩主池田慶徳(よしのり)・・・彼は、武聡と同じく徳川斉昭の息子=つまり、二人は兄弟です。

ところが、この慶徳も、病気を理由に大将を辞退し、しかも7月17日には、鳥取藩兵も撤退させてしまいます。

その後、1人取り残された感の松江藩も、「ウチだけが残るなんて事になったらえらいこっちゃ!」と、慌てて兵を撤退させます。

さらに、翌・18日には、最後まで残っていた浜田藩の兵たちが、本拠・浜田城に火を放って松江へと逃亡し、事実上、浜田は陥落しました。

・・・という結果となりましたが、実は、コレ、すべて演技です。

上記の通り、浜田藩も松江藩も、幕府とは密接な関係のある藩・・・本当は、こんな無益な長州征伐には参加したくないんだけど、親戚として協力せざるを得ない・・・

そこで、すでに16日の段階で、長州とは話をつけておきながら、いかにも「戦ってますよ!」というポーズだけを見せておいて、17日の松江藩の撤退の時に、病気の武聡と、その妻子を船に乗せて逃亡させていたのです。

18日の浜田城の炎上を知って、約束通り、戦う事なくすべての藩が撤退してくれた事を確認する長州軍・・・そこへ、浜田の住民代表がやって来て「どうぞ、浜田城へお入りください」と・・・

これで、浜田は長州のものに・・・

さらに、すでにもぬけの殻となっていた大森にも長州兵が入った事で、長州は石見一国を手に入れる事となりました。

もちろん、ここは、長州征伐が終結した後もそのまま・・・明治維新を迎えるその日まで、長州が統治する地となったのです。

一方、この石州口と同時進行で行われた小倉口・・・6月16日の夜には、高杉晋作坂本龍馬の、生涯ただ一度の夢のコラボが実現するゲリラ作戦を展開(6月17日参照>>)、さらに、7月27日には、3度目の小倉上陸作戦を決行(7月27日参照>>)するのですが、その頃には、幕府にも大きな動きが・・・

・・・って事で、そのお話は、またまた、それぞれの「その日」でご覧くださいませ。
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2009年7月14日 (火)

保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路

 

保元元年(1156年)7月14日、保元の乱に敗れた藤原頼長が、逃走先の奈良で死亡しました。

・・・・・・・・・・

藤原頼長(よりなが)・・・関白・藤原忠実(ただざね)を父に持ち、幼い頃から、その頭の良さはハンパなく、人は彼の事を「日本一の大学生」と呼び、そのうえ、男にまでモテモテのイケメン・・・

もはや、将来の大出世は約束されたようなもの・・・彼の人生のスタートは、こんな華やかな雰囲気でした。

忠実の次男として、保安元年(1120年)に生まれた頼長は、兄である忠通(ただみち)との年齢差が24歳・・・つまり、お父さんが、ずいぶんと高齢になってからガンバった子供であるため、もう、頼長の事がかわいくてかわいくて仕方がない!

やがて、成長した頼長は、子供がいなかった兄の養子となり、政治家の仲間入り・・・七光りだけでなく、マジメで頭も良く、努力家な彼は、右大臣を経て、左大臣にまで上りつめました。

一見、非のうちどころのない彼でしたが、そんな彼にも、欠点はあります。

それが、マジメで努力家・・・そう、本来は、長所であるはずのそんな部分でも、度が過ぎると、それは欠点となってしまうもの・・・

ある時、書庫を作る担当となった彼は、そうれはもう、見事なまでに蔵書を分類し、綿密な計算のもと、寸分の狂いもない完璧な書庫を作り上げましたが、そんな自分と同じ事を他人にも求めてしまうのです。

努力家な彼は、他人が努力しないと、本気で怒ります。
どれもこれも、完璧な仕上がりにならないと許せないのです。

それも、その怒り方が尋常じゃない・・・。

中には、公務に遅刻したために、自宅を燃やされてしまった人もいたくらい・・・

そんな彼を、人はいつしか「悪左府(あくさふ)(左府=左大臣の事)と呼ぶようになり、やがて、同僚や後輩からは嫌われ、上司からの信頼もなくしていくのです。

ちょうどその頃に、兄・忠通に待望の男児が誕生する事となり、兄弟の間にも大きな溝が誕生してしまいます。

なんせ、兄にとって、そんな弟は、自分の息子の出世の妨げになりますからね。

しかし、それでも、息子・頼長へのかわいさがおさまらない父・忠実・・・いや、逆に、こんなにマジメで優秀なのにも関わらず、他人からどうこう言われてしまう息子だからこそ、余計にかわいいのかもかも知れません。

父・忠実の頼長への溺愛が、ますますエスカレートしていくのです。

忠実は、関白の座を頼長に譲るように、兄・忠通に働きかけますが、当然、断られます。

すると、今度は、鳥羽上皇(第74代天皇)に働きかけて、関白に順ずる「内覧の宣旨(ないらんのせんじ)を与えてもらい、さらに、藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の権利を、忠通から取り上げて、これも頼長のものにしてしまいます。

こうして、鳥羽上皇にも、時の天皇である第76代・近衛天皇にも、うっとおしがられる頼長でしたが、その近衛天皇がわずか17歳亡くなり、弟の第77代・後白河天皇が即位すると、その対立は決定的となります。

頼長は、後白河天皇からの「内覧の宣旨」を貰えなかったのです。

これには、上記の行動にブチ切れた忠通が、「近衛天皇の死は、頼長の呪いによるもの」という話を、後白河天皇にチクッた事も影響していました。

政界の中央の座から、転がり落ちてしまった頼長・・・こうなったら、力ずくでも、兄を失脚させて、自分が、その後釜に座ろうと考えます。

そんな頼長が目をつけたのが、自分と同じく、表舞台から引きずり下ろされた人物・・・後白河天皇の兄で、第75代の天皇だった崇徳(すとく)上皇(8月26日参照>>)です。

やがて、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が亡くなった事をきっかけに、その戦いは幕を開けます(7月2日参照>>)

後白河(弟)VS崇徳(兄)の天皇家と、
  忠通(兄)VS頼長(弟)の摂関家の争いに、

源義朝(子)VS源為義(父)
平清盛(甥)VS平忠正(叔父)と、それぞれの味方についた武士を巻き込んだ保元の乱(7月11日参照>>)です。

ご存知のように、この保元の乱は、わずか4時間ほどの戦いで後白河天皇側(上記の青色グループ)の勝利に終るわけですが、その勝敗を分けた最も大きな要因は、フットワークの軽さ・・・

つまり、いち早く仕掛けたほうが勝ったわけですが、この時、父・為義(ためよし)とともに、崇徳+頼長側についていた源為朝(みなもとのためとも)は、この乱の前夜に、敵に夜討ちをかける事を提案(3月6日参照>>)しますが、あっさりと却下・・・ところが、その夜、逆に敵から夜討ちをかけられ、彼らは、敗れてしまうのです。

この為朝の夜討ちの提案を却下したのが、頼長だと言われています。

そう、ここにきても、まだ、彼は、マジメな努力家・・・「天皇VS上皇という、由緒正しき人同士の戦いで、夜討ちなんて姑息なマネができるか!」というのが、彼の考えだったのです。

しかし、結局は、その夜討ちをかけられて敗走する彼ら・・・逃げる途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れます。

Dscn0367a800
ご存じ、猿沢の池の東側から興福寺方面を見た景色…右奥が興福寺の五重塔で左に見える階段が「五十二段」よばれる階段です。
階段と塔の間にいくつかの木が見えますが、この木陰に、奈良へと逃れて来た頼長が身を隠したとされ「左府の森(さふのもり)と呼ばれています。

実は、この奈良には、父・忠実がいたのです。

近くの木陰に身を潜めて興福寺に助けを求めるも断わられ、大量の出血を目の当たりにして、もはや死を悟った頼長・・・

その最後の望みは、最愛の父に会う事・・・しかし、最愛の父は、この対面を拒みます。

幼い頃から、その才能を開花させ、エリートの道を歩み続けるはずだった頼長・・・父の愛と期待を一身に受け、走り続けた最後の最後に、その父に拒まれた心境はいかばかりであったでしょうか。

かくして、保元元年(1156年)7月14日、失意のまま、その傷が悪化した頼長は、潜伏先の般若寺で37歳の生涯を閉じたのです。

しかし、彼の悲しみは、ここで終わりませんでした。

一旦、埋葬されていた彼の遺体は、「本当に頼長が死んだのかどうかを確認する」として、役人によって掘りおこされるのですが、当然の事ながら、すでに遺体は白骨化し、誰なのかは確認できない状態・・・。

しかも、その遺体が確認できないとわかった役人は、さっさと立ち去ってしまう・・・つまり、その遺体は埋め戻される事なく、そのまま放置されてしまったというのです。

乱を起こしたとは言え、あまりに悲しい末路・・・

確かに、戦いとは、常に無情なものではありますが、せめて、亡くなった以上は、敵にも敬意を現すという基本は守っていただきたいです。
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2009年7月13日 (月)

第一次木津川口海戦~信長を悩ませた村上水軍

 

天正四年(1576年)7月13日、10年に渡る織田信長石山本願寺との戦い・石山合戦のさ中、第一次木津川口海戦が展開されました。

・・・・・・・・・・・

天下統一を目指す織田信長・・・
宗教による団結で権力に支配されない自由都市を運営する本願寺・・・

その対立は、ついに、元亀元年(1570年)、大坂・石山本願寺の法主(ほっす)顕如(けんにょ)による全国の本願寺門徒への「身命を捨てて法灯を守れ!」の呼びかけによって石山合戦へと突入します(9月12日参照>>)
(【野田福島~春日井堤の攻防】も参照>>)

途中、信長によって将軍の地位をないがしろにされた足利義昭の呼びかけに応えて、石山本願寺に強力した武田信玄上杉謙信朝倉義景(よしかげ)浅井長政などによる信長包囲網が敷かれ、すべてを敵に回して戦う事になった信長でしたが・・・

天正元年(1573年)には浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)
翌・天正二年には長島一向一揆を潰し(9月29日参照>>)
続く天正三年の5月に、信玄亡き後の武田を長篠の合戦で蹴散らし(5月21日参照>>)

その後、高屋新堀城の戦い(4月21日参照>>)を経て、10月には一旦本願寺との講和を結びますが、かりそめの講和は、翌・天正四年(1576年)5月3日、天王寺合戦において破られました(5月3日参照>>)

天王寺合戦の後、砦の数を増やして本願寺を包囲する信長・・・

一方、包囲されたとなると、本願寺は、籠城戦をせざる得なくなるわけですが、籠城戦となると、何より重要なのは兵糧の問題・・・

籠城というのは、防戦一方の戦いで、そのままでは破滅へと向かう戦い方なわけですが、ただ一つ、勝てるとしたら、それは、長期に渡る籠城・・・兵糧を少しでも多く確保して、いかに戦いを長引かせるかによって、形勢逆転のチャンスのある無しが決まるわけです。

そんな中、ここに来て西国の雄・毛利輝元が、叔父の吉川元春小早川隆景(たかかげ)とともに、本願寺の支援へと重い腰をあげます。

毛利の一番強味=水軍を大いに活用し、本願寺へ、海路による兵糧の運び込みをしようというのです。

本願寺の兵糧を満載した数百艘の船団が、その護衛をする村上水軍中心の約300艘とともに大坂湾に現れ、和泉(大阪府)貝塚に到着したのは7月12日の事でした。

ここで、紀州の雑賀(さいが・さいか)水軍と合流した船団は、一路、堺から木津川口へと向かいます。

対する信長勢の水軍(安宅水軍=11月4日参照>>・淡輪水軍・沼間水軍など)は、大きな櫓を乗せた安宅船・約10艘を中心に武者船・300艘を左右に広く配置し、「これより河口へ入れてなるものか!」と、待ちうけます。

かくして、天正四年(1576年)7月13日・・・第一次木津川口の戦いがの幕が切って落とされます。

まるで、通せんぼをするがのごとく、横一列の織田水軍に、縦の編制で挑む毛利配下の村上水軍は、水軍独自の艦隊編制の陣形をとり、ほら貝の合図が鳴ると、あらかじめ決められた役割分担による見事な連携プレー攻撃を開始します。

Suigunsenpoucc 因島水軍城蔵の艦隊編制図(因島水軍城蔵)

村上水軍の指揮をとるのは、父・村上武吉(たけよし)の名代として参戦した24歳の若き司令官・村上元吉(もとよし)・・・。

まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船(めくらぶね)が、一斉に矢を放ちます。

Houroku2  
焙烙(ほうろく)
素焼きの土鍋などに火薬を詰め二つ合わせて火縄をて敵船に投げ込む手投げ弾のような物。

 
次ぎに、2番手に控える焙烙(ほうろく)が、敵船に焙烙投げ込みますが、そこには、当然火の手があがり、船上は大混乱・・・突然の火災に慌てた兵士が次々に海へと飛び込みはじめたら、3番手の武者船が、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。

また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。

この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、『信長公記』にも「歴々数輩討死候(そうろう、西国船勝利」とあるように、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。

もちろん、兵糧は石山本願寺に搬入され、本願寺側の士気も最高潮!

・・・というのも、実は、この時の織田水軍・・・沼田氏や真鍋氏など、和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の名だたる水軍で編制されていたものの、毛利による兵糧搬入の噂を聞いての寄せ集め軍団で、とても、毛利+小早川水軍+村上水軍の連携には着いていけない状態だったのです。

手痛い敗北を喰らった信長。

再びの戦いは、1年4ヶ月後・・・
同じ場所で、同じシュチュエーションで・・・

ただし、同じ轍を踏まないのが信長・・・

そう、この後、登場するのが、村上水軍の焙烙に対抗すべく制作したあの鉄甲船と、それをフルに活用してくれる優秀な海の軍団・・・九鬼嘉隆(よしたか)率いる九鬼水軍と、滝川一益滝川水軍・・・

そのお話は…
 ●【入港前の丹和沖の海戦】>>
 ●【鉄甲船の完成披露】>>
 ●【第二次木津川口海戦】>>にてどうぞo(_ _)oペコッ
 .

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2009年7月11日 (土)

時代別年表:江戸時代

 

このページは、大坂夏の陣が終結する1615年5月8日から、ペリーが浦賀に来航する1853年6月3日までを「江戸時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 

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・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1615 5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
【落城記念~大阪城の怖い話】
5 12 豊臣秀頼の娘が京極忠高に確保される
【大坂城を脱出した秀頼の娘は・・・】
5 15 長宗我盛親・斬首
【盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣】
5 21 「佐野道可事件」で内藤元盛が切腹
【陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け】
5 23 豊臣秀頼の遺児・国松が処刑される
【事実はドラマより~秀頼の子供たち】
5 27 増田長盛が自刃
【五奉行・増田長盛…最後の大仕事】
6 1 江戸一帯に雪が降る
【異常気象と富士山信仰】
6 6 母里太兵衛友信が死去
【母里太兵衛~これぞ真の黒田武士】
6 11 古田織部・自刃
【家康暗殺計画は本当だったのか?】
島津忠恒の「真田日本一の兵」発言
【「真田日本一の兵」by忠恒の心の内は】
6 27 大野治胤が処刑される
【灰になっても…大野治胤の壮絶最期】
7 7 徳川幕府が「武家諸法度」を発布
【武家諸法度…元和偃武に徳川の基礎】
10 14 片倉景綱・没
【独眼竜の在るところ片倉小十郎あり】
1616 4 17 徳川家康・没
【徳川家康~その死の間際に・・・】
1617 3 30 幕府が江戸・吉原遊郭の開設を許可
【吉原の花魁遊びはいくら?】
4 10 徳川家康の遺霊を日光に改葬
【神になった徳川家康】
7 16 前田利家の妻・まつが死去
【前田家を支えた良妻賢母・芳春院】
12 4 山内一豊の妻・見性院が死去
【内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻】
1619 6 9 福島正則が信濃川中島へ減封
【戦国とともに…福島正則の転落人生】
7 21 島津義弘が死去
【兄弟・父子の連携で生き抜いた義弘】
1620 1 23 徳川秀忠の命により大坂城の修復を開始
【西の最前線~徳川時代の大阪城】
8 26 支倉常長が帰国
【伊達政宗の幕府転覆計画】
9 13 大坂城の千貫櫓が完成
【大阪城~多聞櫓と千貫櫓の特別公開】
1621 6 12 家康側室の茶阿局が死去
【松平忠輝を産んだ茶阿局】
12 13 織田長益が死去
【本能寺逃亡で人でなし~長益の歩く道】
1622 8   宇都宮釣り天井事件
【宇都宮釣り天井事件の仕掛人・亀姫】
8 18 最上騒動
【名門・最上を消滅させた最上騒動】
1623 7 10 徳川秀忠が南宗寺を参詣
【南宗寺の無銘の塔~家康のお墓説】
7 27 徳川家光が第3代江戸幕府将軍に就任
【戦国から脱却…第3代将軍・家光誕生】
8 4 黒田長政・没
【「褒めたげて!」黒田長政の関ヶ原】
1624 9   秀吉の妻・高台院(北政所・おね・ねね)・没
【秀吉の妻・ねねさんのご命日なので】
【秀吉を支えた高台院が貫いた妻の役割】
1625 6 11 弘前藩の家老・兼平綱則が死去
【津軽家を支えた家老=兼平綱則】
1626 9 15 徳川秀忠の正室・江(崇源院)が没す
【大河ドラマ主役の「江」~謎多き最期】
1628 3 17 安楽庵策伝が『醒睡笑』を提出
【乱世に笑顔を…落語の祖・安楽庵策伝】
8 10 豊島明重事件
【明重の武士の一分…江戸城刃傷事件】
9 5 鳥居忠政が没す
【「鳥居忠政の仁義」雑賀孫一とのイイ話】
11 7 小野次郎右衛門忠明・没
【戦国のトラブルメーカー・小野次郎右衛門】
1629 10 3 幕府が山田長政に朱印状を交付
【アユタヤの戦士・山田長政は実在した?】
10 10 家光の乳母・お福が春日局の称号を賜る
【謀反人の娘で殺人犯?が天下を握る】
10 23 女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止
【女歌舞伎の禁止令】
11 8 後水尾天皇が譲位~紫衣事件
【後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件】
1630 4 30 織田信雄・没
【織田家生き残り~人間普通が一番?】
11 16 松倉重政・没
【キリシタン弾圧・松倉重政の汚名を…】
1633 1 20 金地院(以心)崇伝・没
【容赦なし?家康の右腕・金地院崇伝】
1 25 佐竹義宣・没
【秋田藩の祖・佐竹義宣の山と谷】
7 14 前田利政・没
【利政に見る親兄弟が敵味方に…】
12 16 徳川忠長・自殺
【非業の3代目・徳川忠長の自殺】
1634 5 23 豪姫・没
【男なら関白・秀吉最愛の秘蔵っ子・豪姫】
8 18 蒲生忠知の死亡で蒲生家断絶
断絶となった蒲生忠知の怖い話】
11 7 伊賀上野鍵屋の決闘
【荒木又衛門は何人斬ったか?】
1635 6 30 徳川家光が「参勤交代」を定める
【参勤交代・始まる】
【大江戸・旅マニュアル】
【箱根の関所は6ヵ所あった?】
9 17 神尾静・没
【将軍・秀忠の影の女に徹したお静の方】
12 18 中馬大蔵重方・没
【「島津の背進」の生き残り・中馬重方】
1636 3 19 酒井忠世が死去
【徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗】
5 24 伊達政宗が没す
【齢70…晩年の伊達政宗】
1637 1 22 阿茶局(雲光院)・没
【家康の信頼を受けた側室・阿茶局】
10 25 島原の乱・勃発
【一揆か?聖戦か?島原の乱】
10 26 江戸幕府が五人組制度を強化
【江戸幕府の農民支配~五人組制度】
11 9 島原の乱鎮圧に板倉重昌らを派遣
【島原~原城総攻撃に散る板倉重昌】
1638 2 28 原城が落城し島原の乱が終結
【島原の乱・終結】
【天草四郎・生存説】
【島原の乱が残した物は…】
1639 2 1 大久保彦左衛門忠教が死去
【天下のご意見番~大久保彦左衛門】
1641 4 2 オランダ人を長崎の出島に移住させる
【鎖国の象徴=出島のいま・むかし】
1643 2 16 青山幸成・没
【将軍の教育係…青山幸成と兄・忠俊】
4 15 青山忠俊・没
【将軍・家光に苦言を呈した青山忠俊】
10 2 南光坊天海僧正・没
【黒衣の宰相・天海=明智光秀説】
1645 12 2 細川忠興・没
【細川忠興の意外な才能】
1646 3 26 柳生宗矩・没
【政治家・柳生宗矩~忘れえぬ剣豪魂】
6 21 鮭延秀綱・没
【直江兼続を手玉に取った最上の重臣】
1647 2 6 小堀遠州・没
【江戸の初めのクリエイター・小堀遠州】
6 3 本多政重・没
【エリートから波乱万丈~政重・流転の半生】
1648 6 22 松平正綱・没
【正綱が日光に造った人生の並木路】
8 20 福知山城主・稲葉紀通が鉄砲自殺
【寒ブリが食べたいだけでお家断絶】
8 25 陽明学者・中江藤樹が没す
【近江聖人・中江藤樹の「心の学問」】
1651 4 28 左甚五郎・没
【謎の彫刻師・左甚五郎】
7 10 松平定政が突然の出家
【将軍の死に所領返上…定政・出家事件】
7 23 由比正雪の同時多発テロ計画が発覚
【由比正雪の乱・発覚】
1652 3 2 栗山大膳が没す
【黒田騒動を起こした栗山大膳】
6 20 幕府が若衆歌舞伎と男色を禁止
【男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎】
1653 1 13 玉川上水の開発命令が出る
【土木の英雄・玉川兄弟~子孫の末路】
6 3 伊丹康勝が死去
【伊丹康勝と紙と運~康勝格言】
8 22 養珠院お万の方が死去
【徳川家康の側室・養珠院お万の方】
1656 11 13 黒田(加藤)一成が死去
【黒田一成と岩佐又兵衛と夏の陣屏風】
12 1 板倉重宗が死去
【京都所司代の心構え】
12 24 幕府が吉原に移転命令
【吉原が炎上したら…その誕生・移転】
1657 1 18 明暦の大火
【げに恐ろしきは振袖火事】
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】
1 23 林羅山が病死
【幕府初期を支えた学者~林羅山】
7 18 幡随院長兵衛が殺害される
【旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害】
9 29 高崎2代藩主・安藤重長が死去
【気はやさしくて力持ち…藩主・安藤重長】
11 25 松東院メンシアが死去
【信仰を貫いた松東院メンシア】
1658 9 10 松下長綱・没
【何となく腑に落ちない松下長綱の改易】
10 12 前田利常・没
【バカ殿を演じきった2代め加賀藩主】
1659 6 16 生駒高俊・没
【生駒騒動を引き起こした美少年好き】
【生駒騒動を引き起こした亡霊】
9 1 江戸城天守閣の再建中止を決定
【ムダを省き被災者優先…正之の英断】
1661 1 21 加藤明成・没
【会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成】
1662 3 16 松平信綱・没
【幕府と家光を支えた知恵伊豆こと】
1663 2 25 小幡景憲・没
【甲州流軍学を大成させた小幡景憲】
1664 3 27 水野十郎左衛門成之が切腹
【チーム旗本奴の水野十郎左衛門成之】
1666 1 26 円空が蝦夷地に渡る
【多くの仏像を残した修業僧・円空】
2 6 千姫・没
【千姫・ご乱行の真相】
【姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで】
1667 5 2 「堕胎禁止令」発布
【本邦初?大江戸・堕胎禁止令】
1668 3 8 幕府が「長崎貿易」のご禁制品を定める
【日本人の輸入品好きは昔から?】
1669 6 21 シャクシャインの戦い・勃発
【北の大地に蜂起!シャクシャインの戦い】
1671 3 27 仙台藩のお家騒動の審議中に刃傷
【伊達騒動の影に幕府の思惑】
1672 2 3 浄瑠璃坂の仇討
【忠臣蔵のモデル?浄瑠璃坂の仇討】
12 18 徳川秀忠の息子・保科正之・没
【徳川の礎を築いた将軍の隠し子・正之】
1675 9 29 柳生宗冬・没
【柳生宗冬の総入れ歯】
1678 1 7 夕霧太夫・没
【夕霧太夫を生んだ大阪・新町遊郭】
6 15 東福門院徳川和子が逝去
【天皇と徳川の架け橋に…徳川和子】
1680 9 8 安中藩主・水野元知が没す
【夫婦ゲンカで改易…安中藩主・水野元知】
12 9 大老・酒井忠清が失脚
【下馬将軍・忠清の汚名を晴らしたい】
1681 6 21 越後騒動の詮議開始
【徳川綱吉の恨み?~越後騒動の結末】
11 22 沼田藩主・真田信利が改易処分に…
【悪政を極めた藩主・真田信利】
1682 2 13 宝蔵国師・鉄眼が大坂に戻る
【1万人を救った救世大士…僧・鉄眼】
12 28 八百屋お七が放火~お七火事
【八百屋お七と丙午】
1683 7 3 松平忠輝・死去
【幕府転覆??松平忠輝の長い勘当】
1684 6 5 井原西鶴が大矢数で新記録樹立
【一昼夜に2万余句~西鶴「吟じます!」】
8 29 堀田正俊・刺殺事件
【死人に口無し?大老・堀田刺殺事件】
10 29 貞享暦に改暦
【初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』】
1685 2 22 後西天皇・崩御
【天変地異で…追号も微妙な後西天皇】
1686 11 22 多田加助の貞享騒動
【怨念の松本城~多田加助の貞享騒動】
1687 1 28 「生類憐みの令」が牛馬まで拡大
【未だ謎多き生類憐みの令】
1691 2 30 ケンペルが徳川綱吉に謁見
【将軍・徳川綱吉に謁見したケンペル】
6 13 朝日文左衛門が鸚鵡籠中日記を執筆
【公費で?朝日文左衛門の出張日記】
1693 7 28 喜多見重政・没
【綱吉に寵愛された喜多見重政の末路】
1694 10 12 松尾芭蕉・没
【夢は枯野を駆け巡る】
【松尾芭蕉…最後の旅】
1695 4 25 松平直矩が没す
【「引っ越し大名」松平直矩の泣き笑い】
1696 11 10 明正天皇・崩御
【父は天皇・母は徳川~859年ぶり女帝】
1698 2 9 紀伊国屋文左衛門が材木で大儲け
【一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門】
7 28 隅田川に永代橋が完成
【大江戸第3セクター・永代橋のお話】
1699 12 10 家光の長女・千代姫が没す
【将軍家から尾張…生涯姫だった千代姫】
1700 12 16 徳川光圀・没
【水戸黄門様の忌日】
1701 3 14 刃傷・松の廊下
【事件を目撃した松はどんな松?】
1702 1 14 元赤穂藩士・萱野三平が自刃
【忠臣蔵「お軽勘平」のモデル・萱野三平】
12 14 赤穂浪士の討ち入り
【大石の綿密計画~討ち入り】
【忠臣蔵のウソ・ホント】
【忠臣蔵で不忠の悪役~大野九郎兵衛】
1703 2 4 赤穂浪士・46名が切腹
【消えた47番めの赤穂浪士】
1705 3 13 奈良・東大寺の再建が本格的にスタート
【東大寺・大仏殿の再建】
1708 10 24 関孝和が死去
【和算を世界レベルにした算聖…関孝和】
1709 1 10 第5代将軍・徳川綱吉・没
【犬公方・徳川綱吉の忌日】
【大奥開かずの間~綱吉・刺殺の噂】
1711 6 4 伊達綱宗・没
【遊郭通い?綱宗の汚名を晴らしたい】
1714 3 5 大奥の絵島が信州・高遠に追放される
【大奥スキャンダル・絵島の真相】
10 29 池田綱政・没
【女好き?名君?後楽園を造った池田綱政】
11 2 柳沢吉保・没
【柳沢吉保の汚名を晴らしたい!】
1716 8 13 徳川吉宗が8代将軍に就任
【暴れん坊の怪しすぎる8代将軍・誕生劇】
1719 10 10 「葉隠」の山本常朝が死去
【「死ぬことと…」山本常朝の武士道】
1720 7 16 間部詮房・没
【大奥スキャンダルで失脚した間部詮房】
10 29 水戸藩が「大日本史」240巻を幕府に献上
【黄門様の日本初の発掘調査】
【大日本史が皇室系図に与えた影響】
1723 2 20 心中への規制を強化
【大江戸・心中ブーム】
2 25 幕府が葵紋の入った品の販売を禁止
【徳川だけなぜ葵?家紋のお話】
6 18 徳川吉宗が「足高の制」を制定
【吉宗の享保の改革に学ぶ事】
1724 5 9 前田綱紀が没す
【加賀百万石の中興の英主…前田綱紀】
11 22 近松門左衛門・没
【近松門左衛門と曾根崎心中】
1728 1 19 荻生徂徠が死去
【海内一流の人物~荻生徂徠の死】
1729 4 21 「天一坊事件」で天一坊が処刑される
【ウソかマコトか?将軍の隠し子】
4 28 第114代・中御門天皇が象と面会
【象の日】
1730 11 10 徳川吉宗が田安家を創設
【いつの世もモメる?吉宗の御三卿】
1733 1 25 享保の打ちこわし
【享保の大飢饉からの享保の打ちこわし】
5 28 両国川(隅田川)の川開きで花火打ち上げ
【花火の歴史】
1734 2 20 両国でホエール・ウォッチング開催
【大江戸・珍獣見世物ブーム】
4 24 紀伊国屋文左衛門・没
【一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門】
1735 3 9 青木昆陽が著書・「蕃藷考」を発表
【甘藷先生と芋代官】
1736 8 12 大岡越前守忠相が寺社奉行に
【大岡・名裁きは本当?】
【謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説】
1739 2 14 本寿院(尾張藩主・徳川吉通の生母)・没
【尾張藩主・吉通の生母・本寿院の乱行】
6 28 松本藩主・水野忠恒が没す
【勘違い水野忠恒の刃傷・松の廊下】
1743 2 19 第3代姫路藩主・榊原政岑が没す
【吉原の花魁・高尾太夫を落とした政岑】
1744 1 19 幕府が偽虚無僧の取締令を発布
【江戸時代の「ニセ虚無僧・禁止令」】
1746     初の全国指名手配
【大泥棒・日本佐衛門ってどんな人?】
4 16 松平乗邑が死去
【茶器図録を残した敏腕老中・松平乗邑】
1747 8 15 細川宗孝殺害・殿中刃傷事件
【細川家・存亡の危機~板倉勝該・刃傷】
1748 6 26 前田重煕への毒殺未遂が発覚
【加賀騒動~大槻伝蔵の無念】
8 14 「仮名手本忠臣蔵」初上演
【「仮名手本忠臣蔵」初上演】
1751 11 2 大岡忠相が寺社奉行を辞任
【御三家を相手…江戸町奉行・大岡越前】
1755 5 25 宝暦治水事件で平田靭負が自刃
【薩摩義士・平田靭負 男の決断】
1759 4
大阪・天王寺の茶臼山が立入禁止に
【騒ぎすぎ?~茶臼山・立入禁止令】
1762 10 14 思想家・安藤昌益が没す
【封建社会を批判…思想家・安藤昌益】
1764 10 8 徳川宗春・没
【吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主】
1771 3 4 玄白らが「ターヘルアナトミア」の翻訳開始
【杉田玄白の解体新書】
1772 2 29 明和の大火
【明和九年の迷惑大火】
12 5 将軍家から薩摩藩に嫁いだ竹姫が没す
【将軍家と島津の架け橋…竹姫の願い】
1776 4 13 文人画家・池大雅が没す
【オモシロ夫婦・池大雅とその妻】
1779 11 21 平賀源内が逮捕される
【非常の人・平賀源内~殺人で逮捕】
1781 1 9 湯浅常山・没
【『常山紀談』と湯浅常山】
1782 10 4 第6代松江藩主・松平宗衍が死去
【美女の肌に刺青…松江藩主・松平宗衍】
1783 7 6 浅間山が大噴火
【天明の大噴火~鎌原村の秘話】
12 16 天明の大飢饉
【未曽有の大災害~天明の大飢饉】
1784 2 23 「漢委奴國王」の金印が発見される
【「漢委奴國王」の金印の謎多きお話】
3 24 佐野政言が田沼意知を殺害
【佐野政言の田沼意知・刃傷事件】
1785 6 1 秋田藩主・佐竹義敦が死去
【「秋田蘭画」の佐竹義敦と小田野直武】
8 21 「鳥人幸吉」が30mの飛行に成功
【ライト兄弟より早く日本人が空を制す】
10 26 肥後の中興の祖・細川重賢が没す
【見事な財政立て直し~細川重賢】
1786 8 25 第10代将軍・徳川家治・没
【家治・暗殺疑惑~犯人は誰だ!】
1787 6 19 松平定信が寛政の改革に着手
【「寛政の改革」は個人的怨みから?】
10 2 老中・田沼意次が失脚
【田沼意次の汚名を晴らしたい!】
1789 11 19 土俵入りの元祖・谷風が横綱免許を取得
【免許制?相撲の最高位・横綱誕生秘話】
【第1期黄金期~谷風と釈迦ヶ嶽雲右門】
1792 3 3 柳沢信鴻が没す
【赤裸々日記・信鴻の華麗なる隠居生活】
1793 6 28 高山彦九郎が自刃
【勤皇の先駆者・高山彦九郎~謎の自刃】
1794 7 6 慶光天皇・崩御
【歴代天皇表にない天皇~尊号一件】
1798 6 13 本居宣長の『古事記伝』が完成
【宣長と『古事記伝』…未だ夢の途中】
12 18 津山洋学の宇田川玄随が死去
【宇田川玄随と津山洋学】
1802 1 25 木村蒹葭堂が没す
【江戸文化知識が集うサロン木村蒹葭堂】
4 17 朽木昌綱が死去
【学者大名~福知山藩主・朽木昌綱】
1803 2 22 常陸国に虚舟が漂着
【家康の未知との遭遇&「虚舟」の話】
1804 6 17 喜多川歌麿が「手鎖50日の刑」に
【遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰】
1806 3 4 文化の大火
【火事と喧嘩は江戸火消しの華】
1809 5 17 間宮林蔵が樺太が島である事を確認
【忍者・間宮林蔵~樺太発見の後に】
1813 11 2 後桜町天皇・崩御
【119年ぶりの女帝~国母・後桜町天皇】
1815 10 21 千住の酒合戦
【お江戸の酒飲み大会~千住の酒合戦】
1816 12 23 浜松藩主・井上正甫がお役御免に…
【井上正甫の失態】
1818 4 24 松平治郷=不昧が没す
【茶人藩主・松平治郷の侘びっぷり】
10 21 司馬江漢が没す
【江戸をおもしろくした天才・司馬江漢】
1819 12 29 小林一茶の「おらが春」が成立
【一茶「おらが春」に込めた新年の希望】
1821 9 4 「大日本沿海興地全図」が完成
【50の手習い・伊能忠敬の日本地図】
1822 3 12 上杉鷹山・没
【理想のリーダー・上杉鷹山】
1823 1 30 勝海舟・誕生
【勝海舟のトラウマ】
1824 7 26 「東海道四谷怪談」初上演
【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】
1825 2 21 雷電為右衛門・没
【史上最強の力士・雷電の意外な本業】
3 25 シーボルトが将軍・徳川家定に謁見
【離れても親子の絆~シーボルトとイネ】
1827 3 30 蘭学者・大槻玄沢が没す
【江戸時代に西洋式の正月を祝った玄沢】
4 5 高田屋嘉兵衛が没す
【日本とロシアの架け橋・高田屋嘉兵衛】
11 19 小林一茶が死去
【残りの人生丸儲け~一茶、最期の時】
1829 2 16 高橋景保が獄中死
【シーボルト事件に殉じた学者・高橋景保】
9 25 シーボルトが国外退去処分に
【シーボルト事件のウラのウラ】
1831 1 6 良寛・没
【やるね!良寛~70歳のラブソング】
2 8 天保山が造成される
【日本一低い天保山の造成】
8 7 十辺舎一九・没
【煙とともに灰、左様なら】
1832 8 19 鼠小僧次郎吉が処刑される
【鼠小僧次郎吉、御用だ!】
9 23 頼山陽・没
【革命の思想家・頼山陽の死】
1834 3 1 水野忠邦が老中に就任
【建て直し不可能?水野の天保の改革】
1835 12 9 仙石騒動で仙石左京が処刑
【仙石騒動に散った仙石左京】
1837 2 19 大塩平八郎の乱
【めざせ救民!大塩平八郎の乱】
3 27 大塩平八郎・爆死
【めざせ救民!大塩平八郎の乱2】
1838 10 26 中山みきが天理教を開く
【中山みきと天理教】
1840 3 2 遠山左衛門尉景元が北町奉行に
【北町奉行・遠山の金さん】
9 21 蜂須賀一角が阿波踊りを踊って改易に
【阿波踊りを踊っただけで…お取り潰し】
11 1 庄内転封騒動~天保義民事件
【天保義民事件となった三方領地替】
11 18 光格天皇・崩御
【御所千度参りで幕府に物申す天皇】
1841 1 7 第11代将軍・徳川家斉・没
【側室40人・子供55人・在位50年】
6 29 松浦静山が死去
【老いても…『甲子夜話』を著した静山】
1842 10 6 幕府が普請役格に二宮尊徳を登用
【二宮金次郎像のヒミツ…その隆盛と衰退】
1845 3 19 大関増業が没す
【大関メッキ開発~隠れた名君・大関増業】
1848 7 2 雪の殿様・土井利位が没す
【顕微鏡で観察…雪の殿様・土井利位】
11 16 滝沢馬琴・没
【八犬伝の滝沢馬琴の忌日】
【滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身】
1849 4 18 葛飾北斎・没
【葛飾北斎のご命日なので】
【北斎からの挑戦状?北斗信仰と古図】
12 3 薩摩藩でお由羅騒動
【幕末・島津の「お由羅騒動」】
1850 12 21 国定忠治が処刑される
【赤城の山の国定忠治】
1852 9 22 明治天皇・誕生(新暦=11月3日)
【皇子から武人へ~明治天皇の大変身】
1853 6 3 黒船が浦賀に来航
【黒船来航~そこには琉球の運命も】
【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
江戸豆知識 【徳川埋蔵金伝説】
【大晦日恒例・大奥裸踊り】
【大手橋と近世城下町の町割】
【瓦版~大江戸情報ネットワーク】
【遠島・入墨~江戸の刑罰イロイロ】
【十両盗めば首が飛ぶ?】

【大阪の市中引き回しコース】
【大江戸・医者事情】
【大江戸・お妾事情】
【江戸の上水・大坂の下水】
【三くだり半~江戸の離婚事情】
【江戸の媚薬=イモリの黒焼き】
【東海道が57次って知ってた?】
【江戸の人口ってどれくらい?】
【戦国から明治まで有料?富士登山】
【ナユタとフカシギ】
【かかとの無い履き物と「ナンバ」】
【江戸時代には藩も鎖国も無かった?】
【こうして、大坂は「天下の台所」になった】
【暗峠越え奈良街道inお陰参り】
【松花堂弁当と寛永の三筆・松花堂昭乗】
【史跡めぐり~いま むかし】
【江戸時代の帯結び】
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2009年7月10日 (金)

中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組

 

大永五年(1525年)7月10日、尼子経久出雲(いずも・島根県)伯耆(ほうき・鳥取県)の兵を率いて、毛利元就・吉川興経・大内義興を、安芸銀山に攻めました

・・・・・・・・・・

・・・という事で、本日は、中国地方の覇権をめぐって争った、この尼子氏&毛利氏&吉川氏&大内氏の関係について・・・。
 

ご存知のように、後に、中国一帯にその勢力を誇るのは、毛利元就(もとなり)・その人なわけですが、この大永五年(1525年)の頃は、毛利氏の家督を継いで、まだ2年目の27歳・・・当時の力関係はまったく違っていました。

周防(すおう・山口県)を本拠地とした大内義興(よしおき)大内氏は、鎌倉時代から続く正真正銘の守護大名。

そして、出雲を本拠地とする尼子経久(つねひさ)(11月13日参照>>)の尼子氏は、守護の京極氏(8月7日参照>>)を、守護代の家系であった経久自らが倒し、1代で中国・11ヵ国を支配する大名にのし上がったばかり・・・

互いの領地拡大を狙って、常に争うこの二つの大大名の下で、元就の毛利氏と、吉川興経(きっかわおきつね)吉川氏は、その時々の形勢によって、尼子についたり、大内についたり・・・両者に挟まれた安芸(広島県)国人衆の一つだったのです。

そもそも、永正三年(1506年)に、元就の父・弘元(ひろもと)が病死した時、家督を継ぐべく長男が、まだ15歳と歳若く、しかも、元服もまだだった事から、不安をつのらせた毛利家中は、すぐに頼れる名門・大内氏への服従を表明し、義興の傘下となります。

その翌年に元服して毛利を継いだのが毛利興元(おきもと)・・・元就のお兄さんです。

しかし、この興元は、そのわずか5年後、24歳の若さで亡くなってしまい、その後を継いだのは、わずか2歳の興元の長男・幸松丸(こうまつまる)・・・でした。

・・・で、今日、イチオシでご紹介したいのが、ちょうど、その頃出した物であろうと推定される尼子経久の書状・・・

宛先は、吉川経基(つねもと)・・・先ほど出てきた吉川興経の曽祖父にあたる人物です。

その内容は・・・
「お手紙はすべて拝見させていただきました。
せっかく、オススメいただいた毛利との縁談ですが、ウチは毛利とは、距離が離れていますし、自分は無力で、お役に立てそうもありませんので、辞退したいのですが・・・

確かに、ウチには年頃の孫娘が二人ほどいますが、どちらも、すでに決まった相手がおり、他に適当な娘もいません。

これは、大方(妻)も言ったと思いますが、ただ、それだけで、それ以外に深い理由はありませんが、度々、縁談のお話を持ってきてくださるので、僕のほうからも申し上げておきます」

・・・で、この妻というのは、経久の正室となっていた経基の娘・・・

つまり、吉川経基が娘婿である尼子経久に、「あんたの娘(もしくは孫娘)を毛利と結婚させたらどうや?」と言ってくるのを、嫁が断っても、さらに勧めてくるので、経久自身が断りの手紙を書いているのです。

この吉川経基の吉川氏は、ご存知のように、後に、元就の次男が、興経の養子に入って吉川元春と名乗る事でもおわかりのように、結果的に毛利の一門に取り込まれてしまうわけですが(9月27日参照>>)、この時点では、経基の孫(つまり興経の父)元経(もとつね)妹が元就へと嫁ぎ、逆に、元就の妹が元経に嫁いでいる(お互いの妹を嫁にしている)という密接な関係・・・

ああ・・・ややこしい!

とにかく、上り調子の尼子氏が、ここんとこ、度々、安芸や備中(岡山県)に進攻するもんだから、わが領地を守らんとしる安芸一帯の国人衆は、大内の傘下へと傾きつつあったこの頃。

自分の息子の嫁の実家であり、娘の嫁ぎ先でもある毛利氏を、やはり、自分の娘の嫁ぎ先である尼子氏と結びつけるために、経基さんが、尼子&毛利・両家の縁談を勧めていたって事です。

残念ながら、上記の返信の通り、経久が断ったので、この縁談が成立する事はありませんでしたが、その甲斐あってか、毛利氏の家督を継いでから、わずか7年後にかの幸松丸が9歳という幼さで亡くなり、いよいよ元就が毛利氏の家督を継ぐ頃には、毛利は、尼子の傘下となります。

しかし、その元就の家督相続の時、対抗馬として担ぎ出された異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を、ウラで後押ししていたのが尼子氏だったと、後に知った元就は、大永五年(1525年)1月に、また、大内傘下へと戻ってしまい、冒頭の大永五年(1525年)7月10日尼子経久の出陣となり、この争いは、やがて、元就が頭角をを表す安芸郡山城の攻防戦(1月13日参照>>)へとつながっていく事になります。

それにしても、今回の尼子経久の手紙・・・

Mourimotonari600結果的に、実現しなかった縁談ですが、年齢から考えて、吉川経基が勧めた相手は、おそらく元就・・・もし、この縁談が成立して、尼子氏の姫が元就のもとに嫁いでいたら、その後の中国地方の覇権はどうなっていたんでしょうね

ひょっとしたら、尼子&毛利の強力タッグで、まったく違った歴史になっていたかも知れません。

しかし、現実には、ご存知のように、ここで、尼子氏と手を切った元就は、もう、2度と尼子の傘下となる事はなく、最終的に、月山富田城(11月28日参照>>)上月城(7月5日参照>>)二度に渡って、尼子氏は滅亡の憂き目に遭う事になるわけです。
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2009年7月 9日 (木)

天狗党・大暴れ!~下妻夜襲~

 

元治元年(1864年)7月9日未明、天狗党討伐のために編制された諸生党本陣に、藤田小四郎以下・天狗党が奇襲をかけた下妻夜襲がありました。

・・・・・・・・・

久しぶりの攘夷の魁天狗党です。

ペリー来航(6月3日参照>>)によって開国に踏み切った幕府は、朝廷からの再三の攘夷(外国排除)の要求に、その決行を約束しつつも実行に移す気配なく・・・

逆に、八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、政治の中心部から尊王攘夷派を一掃します。

Tengutoufuzitakosirou600a そんな中、幕府へ攘夷を訴えるべく立ち上がったのが、今は亡き水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月27日、筑波山に同志を集め、天狗党として決起します(3月27日参照>>)

水戸藩内でも賛否両論ある中、本拠地を転々としながら活動する天狗党でしたが、その姿勢は、倒幕ではなく、あくまで現幕府の方針転換を要求する事・・・しかし、軍資金を巡ってのトラブルをきっかけに、幕府は天狗党・討伐を決意し、水戸藩内の反対派を中心に天狗党討伐軍=諸生党(しょせいとう)が結成されます(4月10日参照>>)

・・・と、ここまでが前回までの流れ・・・

かくして、再び筑波山を本拠地とした天狗党に対し、市川三左衛門(いちかわさんざえもん)率いる諸生党・約700名に、幕府ほか古河結城土浦高崎などの諸藩の反対派を加えて6000余りの大軍に編制された討伐軍・・・

彼らが江戸を出発したのは、元治元年(1864年)6月17日の事でした。

一方、迎え撃つ天狗党は、約1000名ほど・・・最初に両軍が激突したのは、7月7日午前4時頃の事・・・

洞下(ほらげ・茨城県つくば市)高道祖(たかさい・下妻市)のほぼ中間あたりで、約2時間に渡って砲撃戦が行われましたが、数に劣る天狗党はやむなく撤退・・・

このまま、まともに戦っては勝ち目なしと判断した天狗党首脳陣は、隊を2手に分け、奇襲をかける事にします。

元治元年(1864年)7月9日、まだ陽も明けぬ午前4時頃、地元出身で地の利のある飯田軍蔵(ぐんぞう)の道案内にて、小貝川の上流を迂回して、敵本陣・多宝院(たほういん)へと突入する藤田小四郎隊と竹内百太郎隊・・・

ちょうど、その時、先の7日の戦いの勝利に酔いしれ、祝宴あげまくりの諸生隊・・・ふいを突かれた三左衛門は、負傷して逃亡・・・慌てた他の隊士たちも、ほぼ応戦する事なく逃げ出します。

一方、高崎藩士を中心に雲充寺(うんじゅうじ)に陣取っていた諸生隊も、天狗党別働隊に攻め込まれて逃走・・・この日の戦いは、天狗党の大勝利に終ります。

この勢いのまま、海路、横浜へと向かい、横浜港の閉鎖を決行する事を決意する天狗党でしたが、夜襲決行から10日ほどたった頃、その計画を打ち砕くニュースが舞い込んできます。

先の夜襲で逃亡した三左衛門ら諸生党が、水戸城へと入城し、そこにいた天狗党の家族を捕らえて暴行・虐待を繰り返しているというのです。

こうなったら、「水戸城を占拠して、まずは家族たちを救わねば!」といきり立つ小四郎たちでしたが・・・

そうです。
天狗党の隊士となっているは水戸藩の者だけではありません。

あくまで、水戸城に捕らえられているのは、水戸藩の天狗党の家族・・・

「大義の前には犠牲はつきもの」
「個人的感情を捨て、まずは攘夷決行の姿勢を見せるべき」
「水戸藩内の争いを天狗党に持ち込むべきではない」
などの意見が多数出ます。

ごもっともなご意見ですが・・・

やはり、どうしても、捕らえられている家族を見捨てる事ができない小四郎らは、その反対を押し切って、水戸城の占拠を優先します。

ここで、多くの隊士が脱退を決意・・・天狗党を去っていきました。

7月26日・・・隊を分裂させてまで決行した水戸城占拠作戦でしたが、ただでさえ、数のうえで劣勢な天狗党が、さらに分裂した事で、もはや、勝敗は明らかでした。

水戸城下での戦いに破れてしまう天狗党・・・

しかも、ここに来て、幕府は、相良(さがら)藩主・田沼意尊(おきたか)を中心に、幕府による天狗党討伐軍・1万3000を再編成します。

前面の諸生党・・・
背面の幕府軍・・・

もはや、天狗党の運命もこれまでか!・・・と思いきや、まだまだ踏ん張ります。

・・・というか、ここからが第二幕・・・なんせ、天狗党の代表格となるべき、頼れるオッチャン=武田耕雲斎(こううんさい)がまだ仲間になっていません。

なのですが、そのお話は、やはり、新生天狗党が誕生する10月25日のページへどうぞ>>
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2009年7月 8日 (水)

雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?

 

天正六年(1578年)7月8日、織田信長と戦闘中の本願寺・顕如が、雑賀衆らに、織田勢の迎撃を要請しています。

・・・・・・・・・

元亀元年(1570年)から天正八年(1582年)の10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長VS石山本願寺石山合戦・・・

本願寺・法主(ほっす)顕如(けんにょ)は、この合戦期間中に、17通に及ぶ督促状を、紀州(和歌山県)雑賀(さいが・さいか)へと送り、延べ5400挺の鉄砲を要求しています。

Odanobunaga400a ただ、この天正六年(1578年)7月8日の雑賀衆への要請は、鉄砲ではなく、信長が、毛利&村上水軍に対抗すべく建造していた鉄甲船の完成(9月30日参照>>)を受けての、雑賀の水軍衆への出陣要請であったようですが・・・。

実は、雑賀衆も一枚岩ではなく、水軍もあれば陸戦のゲリラ部隊もあり、さらに鉄砲軍団もあり・・・その時々で、それぞれが、協力もするし、反発もするといった状態の集団で、すでに、石山合戦の中盤のあたりで、信長の傘下に下ったグループもあれば、豊臣(羽柴)秀吉紀州征伐(3月21日参照>>)の頃まで、独立を保っていた集団もありました。

・・・とは言うものの、やはり雑賀衆と言えば、ゲームの戦国無双で、信長に抵抗する主役クラスのイケメンキャラをゲットした事で、昨今の戦国ブームの波に乗っている雑賀孫一(まごいち)こと鈴木孫一重秀率いる鉄砲軍団が有名ですね。

一旦講和した後再開された石山合戦の後半戦序盤、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦で、雑賀衆の鉄砲隊が、信長を大いに悩ませた事は、すでに、書かせていただいてますが(5月3日参照>>)、その2ヵ月後に大坂湾で展開された第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)でも、村上水軍の抜群のフォーメーションで手痛い敗北を喰らった信長・・・

その戦いの後、信長は、次回の海戦に備えて、かの鉄甲船の建造にとりかかると同時に、雑賀衆の鉄砲軍団をも潰すべく、攻撃を仕掛けています。

この時の戦いでドローとなった後、休戦状態に入った信長と孫一は、石山合戦が終結した後には和睦となり、結局は孫一は、信長の臣下となるのですが、その時の逸話は、その日のページ(3月15日参照>>)で見ていただくとして、そもそもは、なぜ、この雑賀衆が戦国一の鉄砲軍団になりえたのか?

もともとは、天文十二年(1543年)に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられたと言われる鉄砲(8月25日参照>>)は、領主の種子島時尭(ときたか)が、購入した2挺のうち1挺を島の鍛冶屋に調べさせた事で、その製法が徐々に明らかとなるわけですが、それを、本州に持ち帰ったのは根来寺(ねごろでら)の僧であったと言われています。

ご存知のように、その根来寺も紀州でし、その根来寺に搭頭(たっちゅう・本寺の敷地内に建つ所属する寺)を持っていたのが、雑賀衆の土橋平次(どばしへいじ)という人物で、物流にも長けていた雑賀衆ですから、おそらく、根来寺に伝わった鉄砲のノウハウは、またたく間に雑賀に伝わったものと思われます。

鉄砲造りの工房の跡などは、雑賀からは、発見されていないそうですが、雑賀には雑賀鉢(さいがばち)という独特の兜をを作る匠がおり、製造法さえわかれば、作れる技術は充分あったでしょうから、おそらく、どこからか買ってくるのではなく、雑賀衆自身で、作っていた可能性大でしょう。

その証拠と言えるがどうかわかりませんが、堺の代表的な鉄砲職人の榎並屋清兵衛(えなみやせいべい)が一時、紀州に住んでいたという事実もあり、さらに、現存する慶長大火縄銃の金具からは、和歌山在住の鎌倉屋藤兵衛の銘があります。

鉄砲は、堺と近江国(滋賀県)国友2大都市と言われますが、紀州もなかなかのものであったのかも知れません。

しかも、雑賀衆の1人・佐竹義昌(よしまさ)『働書(はたらきがき・由緒書)によれば、天文年間の後半(1546年~50年)には、すでに雑賀に鉄砲があり、「幼い頃から訓練に励んでいる」との事で、作るだけではなく、使い手の育成にも、力を入れていたようです。

ところで、戦国合戦の鉄砲の使用例としてよく引っ張り出されるのが、信長と武田勝頼(かつより)長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・

しかし、激戦地となった設楽ヶ原(したらがはら)から、ほとんど鉄砲玉が発掘されない事や、あの『信長公記』には、例の3段撃ちが書かれていない事もあって、現在では、「あの鉄砲の3段撃ちも、馬防柵(まぼうさく)も、実際にはなかったのでは?」と疑われているのは、皆さんもよくご存知でしょう。

実は、その『信長公記』には、信長と戦った時の、この雑賀衆の作戦として馬防柵が登場します。

さらに、『院徳太閤記(いんとくたいこうき)には、3段に鉄砲を構えて戦った事も・・・。

冒頭部分に書かせていただいた通り、信長が雑賀を攻めたのは、天王寺合戦の翌年ですから、天正五年(1577年)の事になり、歴史上は長篠の合戦のほうが、その2年前の事になるわけですが、その長篠の合戦での3段撃ちが書かれている『信長記』は江戸時代の、それも、軍記物(フィクションありの小説)ですから、ひょっとしたら、こっちが元ネタの可能性もなきにしもあらず・・・

雑賀孫一・・・なかなかやりますね~
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京阪電車・七夕イベント2009~織姫&彦星の出会い

 

今年も、行ってきました~

京阪電車の七夕イベント!

そのイベントがどのようなものであるかは、一昨年の【今年は違う!京阪電車七夕イベント】(2007年6月23日参照>>)で、昨年の様子は【京阪電車・新車両と七夕イベント(2008年7月8日参照>>)見ていただくとして・・・

とりあえず、今年のイベントの写真を・・・

Dscf5140a450  
 
ワクワクドキドキ・・・

「ひこぼし」の到着を今か今かと待つ「おりひめ」

 

 

 

 

「おお・・・待たしてスマン!今、行くでぇ~」
とばかりに、大急ぎの「ひこぼし」

Dscf5141a800

今年は、臨時列車「おりひめ号」が、私市(きさいち)に2時間停車している間に、イベント用ヘッドマークを掲げた「ひこぼし号」が、17時41分、18時21分、19時01分と3度停車・・・3回の出会いがありました。

 

Dscf5142a800

しかも、最後の3回目の出会いにはサプライズ!

天の川の電飾で、二人はとうとう結ばれました~

ビバ!七夕~おめでとう涙・涙・・・

Dscf5145800 歴代イベント用ヘッドマークがズラリ
 

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2009年7月 7日 (火)

南西諸島の七夕伝説~天降子と天人女房

 

7月7日は七夕・・・

これまで、このブログでは・・・

2006年には、昔々、七夕イベントの一つとして行われていた格闘技のお話(2006年7月7日参照>>)

Tanabata110 2007年には、ご存知の中国の七夕のお話と伝統的な七夕行事、大阪・池田に伝わる「星月夜の織姫」(2007年7月7日参照>>)と、七夕発祥の地とされる大阪・交野(かたの)七夕ゆかりの史跡京阪電車のイベント(2007年6月23日参照>>)

2008年には、日本の七夕伝説である「天稚彦(あめわかひこ)物語」(2008年7月7日参照>>)などなど・・・

毎年ご紹介させていただいており、「またかい!」とのお声もありましょうが、やはり、外せない七夕伝説・・・

本日は、南西の島々に伝わる七夕伝説をご紹介させていただきます。

実は、これ・・・いわゆる天女の羽衣伝説と七夕伝説がくっついたような物語になっているのですが、羽衣伝説自体は、北は東北から南は九州&沖縄まで、日本中に広く分布しているのですが、なぜか、七夕伝説とくっついたものは、関東から西のみ・・・

東北にはないのだそうで、もともとの中国から伝わった牽牛(けんぎゅう)織女(しょくじょ)、そして室町時代に成立した御伽草子(おとぎぞうし)天稚彦織姫、さらに、これら南西諸島の伝説と、その成り立ちや伝わり方を考えると興味津々です。
 .

・‥…☆━━━喜界島の天降子━━━☆・‥…

昔、姉妹の天降子(アムリガー・天女の事)が、天から喜界島(鹿児島県大島郡)に降りてきて、森の中の泉のかたわらに立つ木に飛羽(とびはね)を掛けて水浴びをしていたところ、近くに住む牛飼いの男が、これを見つけて、飛羽をひとつだけ隠してしまいます。

慌てた姉妹・・・ふと見ると、残っている飛羽は姉の物・・・

すかさず、姉は自分の飛羽を身につけて、天へと帰ってしまいました。

残った妹は、何とか牛飼いに頼んで返してもらおうとしますが、牛飼いは承知せず、しかたなく、妻として牛飼いとともに暮らす事になります。

・・・と、しかたなく一緒になったわりには、なんだかんだで楽しく、そして、仲睦まじく暮らしていた二人でしたが、ある時、一緒に天界へ里帰りする事になり、「一緒に行くなら・・・」と、牛飼いが、あの飛羽を妻に返してやると、妻は、その飛羽を着け、夫を小脇に抱えて、いざ、天界へ・・・

途中、妻が言うには・・・
「この先も、私と暮らしたいなら、私の両親が縦に切れと言っても、絶対、横に切ってね・・・でないと、とんでもない事に・・・」
と、夫に言って聞かせます。

天界では、二人が戻って来たお祝いにと、ちょうど、畑に生ったばかりのキュウリをたくさん収穫して来てくれていて、さぁ、料理をしようと、牛飼いが包丁を持ったその時!

両親が、いきなり、「ナイキリー(縦に切れ)!」と叫び、牛飼いは、その勢いにつられて、さっきの約束を忘れて、両親の言うがまま、キュウリを縦に切ってしまいます。

その途端、キュウリからドヮッと水が流れ出てきて、またたく間に川となり、妻と牛飼いは両方の岸に取り残されて、会えなくなってしまいました。

この日がちょうど7月7日で、それ以来、牛飼いと妻は、1年に1度、7月7日の夜にならないと会えなくなってしまったのです。
 .

・‥…☆━━━奄美大島の天人女房━━━☆・‥…

昔、奄美大島に住む一人のお爺さんがクロという犬を飼っていました。

ある夜、山の奥の池のほとりから、なんとも美しい音楽が聞こえてくるので、不思議に思い、見に行ってみると、天女が水浴びをしています。

これが、またメチャメチャ美人・・・爺さん、年甲斐もなく、興奮して、そこに脱いであった飛衣を隠してしまい、天に帰れなくなった天女は、しかたなく、翁の妻になり、やがて、二人の間には、3人の子供が生まれます(しかたなく嫁になっても子供は生まれるモンなんだ・・・(゚ー゚;)

子供が、少し大きくなった頃、1番上の子供が歌う子守唄の中に、飛衣の隠し場所が唄いこまれている事に気がついた妻は、隠してあった飛衣を探し当て、すぐに身に着けて、1番上の子供の手を引き、2番目の子供を頭に乗せ、天に帰ってしまいます。

3番目の子供は、重くて連れて行く事ができなかったのです。

妻が天に帰った事を知った翁は、自分も天に行きたくて行きたくて・・・

そこで、千足のぞうりを作り、それを踏みながら天へと昇っていく事にした翁・・・ところが、あと一歩で天にたどりつく、というところで、ぞうりは無くなってしまいます。

実は、千足作ったと思っていたぞうりは、999足しかなく、あと1足、足りなかったのです。

・・・と、そこへ、愛犬・クロがやってきて、「ボクがぞうりになりましょう」と言って、千足めの位置にうずくまってくれたのです。

翁は、最後の一歩をクロの背中に乗って、天へとたどりつく事ができました。

こうして、翁は一番目の夜明けの星となり、クロは2番目の夜明け星になったという事です。

・‥…━━━☆

・・・て、オイオイ、3番目の子供は置き去りかい!

という、なんとも、気になる終わり方をするお話ですが、民話という物は往々にして、こんな感じの終り方をする物・・・

むしろ、きっちりと出来上がった物語より、こういった昔話のほうが、「遠い昔より、人から人へと伝えられてきたんだろうなぁ」という感じがするものです。

中国の七夕、日本の七夕、南西諸島の七夕・・・

今宵は、どちらの七夕伝説で、古の星空に思いを馳せましょうや・・・

いつの時代も、七夕の夜はロマンチックです
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2009年7月 6日 (月)

浅間山、天明の大噴火~鎌原村の秘話

 

天明三年(1783年)7月6日、長野県群馬県にまたがる標高2560mの活火山・浅間山が大噴火しました。

・・・・・・・・・・・・

活火山である浅間山は、これまでに何度となく噴火しています。

古くは、『日本書紀』天武十三年(685年)3月噴火の記録があります。

さらに、そろそろ平氏が武士としての力をつけ、貴族社会に入り込んでいく天仁元年(1108年)7月21日にも・・・この時は、2ヶ月以上に渡って何度も噴火し、遠く離れた京の都でも、東の空が赤かったという事が記録されています。

もちろん、それ以前にも以後にも、被害の記録が残っていない物も含めれば、数限りなくあるわけですが、やはり、印象に残るには、天明の大飢饉を引き起こしたとされる、この天明三年(1783年)7月6日8日大噴火・・・現在、群馬県嬬恋村(つまごいむら)にある「鬼押し出し園(おにおしだしえん)も、この天明の噴火で流れ出た溶岩を公園として整備したものです。

この天明三年(1783年)・・・最初に噴火が起こったのは4月8日の事でした。

この時は、煙を噴き上げて地響きを鳴らしはしましたが、それ以上にはならず、その後、1ヶ月以上経った5月26日再び噴煙を上げ周囲には灰が降りました。

6月18日の3回目の噴火では、火口から10km程離れた鎌原村(かんばらむら・群馬県嬬恋村)にも、灰とともに小石が降り、少し積もりました。

その後、6月28日からは毎日噴火が起こり、軽石が降っていた状態でしたが、もともと4月8日の噴火以来、徐々に程度が大きくはなるものの、人間というものは、次第に慣れていくもので・・・

最初こそ、驚きはしましたが、こう、毎日噴煙が上がっていると、「いつか爆発するんじゃないか?」と思いつつも、「まぁ、10kmも離れてるし、ここは大丈夫なんじゃないの?」といった思いもあり、心配はありつつも、日々の生活はやっていかねばならないわけで、なんだかんだで、鎌原村の人々も、ある程度、普通の生活をしていたわけです。

この頃は、避難勧告なんてものも出ませんから・・・

ところが、天明三年(1783年)7月6日・・・とうとう浅間山が大爆発したのです。

その6日の夜から7日にかけて、火口の北側から溶岩が流れ出し、8日には、再び大爆発が起こり、ここにきて鎌原村の人々も、慌てて避難するわけですが、彼らがとりあえず目指したのは、近くにある鎌原観音堂というところでした。

この観音堂は、少し小高い丘の上にあり、おそらく、溶岩が流れて来ても、「ここは大丈夫だろう」と思える場所でした。

その予想通り、丘のふもとにあった村は、溶岩におおい尽くされ、村にあった家・93軒はすべて埋まってしまいましたが、何とか、この観音堂に逃げて来れた人たちだけは助かったのです。

生き残ったのは、村の総人口・597人のうち、わずか131人でした。

その131人の中には、この日、用事で他の場所に出かけていて助かった人も含まれているそうなので、実際に、観音堂で難を逃れた人は、もう少し少ない数なのかも知れません。

その後、様々な事情で、この鎌原村を去った人が38人・・・結局、村に残ったのは93人という事になったのですが、その多くは、夫婦や親子が揃った状態ではなく、夫が生き残っていても妻が死んでいたり、子供が生き残っていても親が死んでいたりと、様々なケースがありました。

考えた末、村では、夫を亡くした妻に、妻を亡くした夫を・・・
子供を亡くした夫婦に、親を亡くした子供を・・・といった具合に、家族を造りなおすところから再出発をする事になったという事です。

一方、この浅間山の大爆発は、ここから、東の地域に更なる被害をもたらしました。

Teneinodaikikin600 ご存知、「近世三大飢饉」の一つと言われる冒頭に書いた天明の大飢饉です(12月16日参照>>)

遠くは、仙台まで風に乗ってやってきたという灰・・・灰そのものが降りかかった事によって農作物は大きな被害を受けます。

また、成層圏まで達した灰が、太陽の光をさえぎったため、冷夏となり、東北地方を中心に大飢饉となりました。

中でも大量の餓死者を出した八戸藩では、人口・5万人のうち3万人ほどが亡くなった事が記録されているのだとか・・・

ところで、この浅間山の大爆発で、溶岩に埋まってしまったために、わずか15段の石段を持つだけになってしまっていた、先ほどの鎌原村の鎌原観音堂・・・「本当は、何段の石段があったのか?」という発掘調査昭和五十四年(1979年)から3年間かけて行われたそうです。

結果、もともとの石段は全部で50段あった事がわかったそうですが、この発掘調査で、一つのドラマも発掘されました。

それは、この石段を上り始めるあたり・・・その1段目に1体、そして2段目に1体、重なるように二つの遺体が発見されたのです。

すでに白骨化していたその遺体・・・更なる調査で、ともに女性の遺体である事、そして、1段目にいた女性の年齢が若く、その上に重なっていた2段目の女性が、少し、年老いていた事も判明しました。

そうです。

この日、若い彼女は、年老いた女性をおんぶして、この石段を登ろうとしたのです。

二人は親子でしょうか?
それとも、歳の離れた姉妹でしょうか?
嫁と姑だったかも知れません。

流れ出る溶岩、迫り来る火砕流・・・
取るものもとりあえず、手に手を取って逃げてきた彼女たちは、ここで、50段の石段を目の当たりにします。

年老いた人は、ポツリと言ったでしょう
「私は、もう、走れない・・・」

振り向けば、そこに燃え盛る川・・・
「アンタ1人なら、なんとかなる・・・早く行きなさい」

しかし、若い彼女は、年老いた人を背負い、この石段を上りはじめた・・・その直後、火砕流は二人を呑み込み、その命はここで尽きました。

50段上の観音堂前には、この二人の光景を、こぶしを握りながら見つめ、自然の猛威の前に、なすすべのない無力な自分を嫌悪した人もいた事でしょう。

まるで、タイムカプセルのごとく浮かぶ光景・・・せめて、心優しい彼女が、苦しむことなく逝かれた事を願うばかりです。
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2009年7月 5日 (日)

時代別年表:室町時代・後期2(戦国・桃山時代)

 

このページは、桃山時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

●便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

  Zidaisengoku2



・・・・・・・・・・

 

 

出来事とリンク
1586 2 23 秀吉が聚楽第の普請を開始
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】
12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣姓に秘めた秀吉のコンプレックス】
1587 3 8 吉岡妙林尼が鶴崎城を奪回
【鶴崎城を奪回!女城主・妙林尼】
4 17 高城・根白坂の戦い
【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
5 6 北条綱成が死去
【「地黄八幡」の闘将…北条綱成】
6 18 秀吉が「六月十八日付覚」を発布
【2日連続の二つの『切支丹禁止令』】
6 19 キリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】
7 10 ~12日肥後国人一揆
【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
10 1 秀吉が「北野大茶会」を開催
【北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」】
10 28 新発田城落城で新発田重家が自刃
【上杉の宿敵・独立を夢見た新発田重家】
1588 4 14 秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く
【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
5 14 佐々成政が切腹
【黒百合事件と呪いの黒百合伝説】
7 8 刀狩り令・海上賊船禁止令を発布
【太閤検地と刀狩】
【瀬戸内水軍全盛と没落を見た村上武吉】
11 19 稲葉一鉄が死去
【頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄】
1589 4 15 毛利輝元が広島城の築城を開始
【毛利輝元と広島城~その出会いと別れ】
5 2 雑賀(鈴木)孫一が死去
【重秀・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】
6 5 摺上原の戦い
【破竹の独眼竜政宗~摺上原の戦い】
【蘆名の重臣・金上盛備が討死】
6 12 上杉景勝が佐渡を攻略
【金のなる木は俺のモノ!景勝・佐渡攻略】
10 23 北条が真田の名胡桃城を奪取する
【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】
10 26 須賀川城の落城で二階堂氏が滅亡
【政宗VS二階堂盛義の妻・大乗院阿南】
11 1 北条幻庵が死去
【北条氏の長老軍師~北条幻庵】
11 4 石川昭光が伊達政宗の傘下となる
【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
11 24 秀吉が北条に宣戦布告
【小田原征伐を宣言!秀吉宣戦布告状】
12 10 小田原攻めの軍儀を開く
【小田原攻め開始~その軍儀の内容】
12 29 秀吉が智仁親王との猶子関係を解く
【2人の天下人に翻弄された智仁親王】
1590 3 29 小田原征伐を開始する
【小田原征伐開始】
【山中城落城】
【小田原征伐・オモシロ逸話】
4 1 豊臣水軍が下田城を攻撃
【秀吉の水軍による下田城の戦い】
4 2 小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 5 伊達政宗・毒殺未遂事件
【政宗・毒殺未遂は本当にあったか?】
4 20 松井田城が陥落
【上杉&前田&真田の松井田城攻防】
5 15 白井城が開城
【長尾景広の白井城攻防】
5 27 堀秀政が陣中で病死
【大器が満たぬうち…秀政・無念の病死】
5 29 石田三成が館林城を攻略
【館林城・攻防戦と「狐の尾曳伝説」】
6 5 伊達政宗が小田原に到着する
【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
6 9 石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
6 14 鉢形城が開城
【鉢形城の攻防戦が終結】
6 16 忍城攻めの堤防が決壊する
【忍城…留守を守った成田夫人と甲斐姫】
6 20 天正遣欧少年使節が帰国する
【天正遣欧少年使節の帰国】
【戦国の活版印刷と世界最古の印刷物】
6 23 八王子城・陥落
【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
【八王子城の怖い伝説】
6 26 小田原攻め対の城・石垣山一夜城・完成
【秀吉・もう1つの一夜城~石垣山城の謎】
7 5 小田原城が落城
【城攻め天才・秀吉VS北条得意籠城】
【小田原城・開城への道】
7 13 家康に関八州が与えられる
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
【徳川家康…江戸転封の発想の転換】
8 1 家康が江戸に入る
【八朔と家康・江戸入府】
【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
9 20 岩見重太郎の天橋立の仇討ち
【重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち】
11 24 秀吉軍が葛西・大崎一揆で木村を救出
【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
1591 1 19 秀吉が京都・七条堀川に寺地を寄進
【時代とともに生きた東西・二つの本願寺】
1 22 豊臣秀長が死去
【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
1 27 豊臣秀保が大和郡山城主に…
【謎の死を遂げた秀吉の甥~豊臣秀保】
2 4 伊達政宗が一揆の弁明に上洛
【政宗、起死回生の弁明劇】
2 28 千利休が切腹
【利休・切腹の謎~握っていた秘密とは】
9 4 九戸の乱で九戸氏が滅亡
【九戸の乱~秀吉のもと東北の雄が散る】
【怪談…九戸政実~怨みます!】
9 8 太田資正が死去
【道灌のDNA…軍用犬を駆使した智将】
9 22 豊臣秀次が関白に就任
【殺生関白・秀次の汚名を晴らしたい】
11 4 北条氏直が死去
【北条氏直の肌の守りと督姫と】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発隊が九州に向けて出陣
【豪華絢爛!伊達男・政宗出陣in文禄の役】
3 26 秀吉が肥前に出発
【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
4 13 朝鮮へ派遣した第1軍が釜山へ上陸
【文禄の役・釜山上陸】
6 15 ~17 梅北の乱(梅北一揆)
【歴史のifを思う…謎多き梅北の乱】
11 24 本願寺顕如が死去
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
1593 1 5 蠣崎慶広が蝦夷地の支配を認められる
【世渡り上手~松前・蠣崎の生き残り】
1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
【家康を朝鮮に行かせなかったのは】
4 18 文禄の役で休戦協定が成立
【文禄の役~休戦協定と加藤清正】
8 3 豊臣秀頼・誕生
【豊臣秀頼・出生のヒミツ】
1594 1 4 曲直瀬道三が死去
【目の前の命を救う~戦国の名医】
2 27 秀吉が吉野にて花見を開催
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
3 7 秀吉が伏見城の築城を開始する
【秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割】
【幻の伏見城~徳川は何を恐れた?】
8 24 石川五右衛門を処刑
【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし…】
    伏見城築城にともなう文禄堤の造営
【東海道は五十七次!】
1595 2 7 蒲生氏郷が死去
【信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人】
6 10 家康の孫・松平忠直が誕生する
【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
7 15 秀次が謀反の罪で切腹
【殺生関白・秀次の汚名を晴らしたい】
【豊臣秀次の墓所~京都・瑞泉寺】
7 16 秀次事件に連座~熊谷直之が切腹
【熊谷直之と7人の小姓たち】
7 22 秀吉が藤堂高虎を召抱える
【斬り込み隊長・築城名人~高虎の転身】
7 24 島津の軍師・川田義朗が死去
【島津のメンタルトレーナー~川田義朗】
1596 7 12 瓜生島を大津波が襲う
【日本のアトランティス瓜生島・沈没伝説】
7 16 本多重次が死去
【家康の兄代わり~鬼作左が一筆啓上】
9 1 2度目の朝鮮出兵を決意する
【悲劇の人・おたあジュリア】
10 28 酒井忠次が死去
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
11 4 服部半蔵正成が死去
【服部半蔵に影はあったか?】
【忍者の教科書『万川集海』】
12 11 成田氏長が死去
【成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と】
1597 2 5 長崎で26人のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人殉教の日】
2 7 直江兼続が閻魔大王に手紙を書く
【ブラック兼続~閻魔大王に夜露死苦】
2   慶長の役で秀吉軍・朝鮮上陸
【慶長の役・終結・悲惨な戦の残した物】
5 4 木幡山伏見城の天守閣が完成
【幻の伏見城~幕府は何を恐れた?】
6 12 小早川隆景が死去
【自らの死後も見据える智略の将=隆景】
10 13 宇都宮国綱を改易処分にする
【パワハラ改易?不運続きの宇都宮国綱】
12 22 ~1/4慶長の役・蔚山城攻防戦
【死守はしたけれど・・・蔚山城攻防戦】
1598 1 10 秀吉が上杉景勝に会津転封を命ず
【秀吉の置きみやげ~上杉の会津転封】
3 15 秀吉が京都・醍醐寺で花見の宴を催す
【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきた】
7 15 秀吉が諸大名に忠誠を誓う誓詞を要求
【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】
8 9 病床の秀吉が家康らに遺言する
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】
8 18 豊臣秀吉が死去
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役が終結
【慶長の役・終結・悲惨な戦の残した物】
1599 3 3 前田利家・没
【ケチと呼ばせない!利家の金の知恵袋】
3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
3 13 長宗我部元親が配下の者に手紙を
【長宗我部元親、最後の手紙】
3 25 宮部善祥坊・継潤が死去
【秀吉に「日本無双」と言わせた男】
5 19 長宗我部元親が死去
【土佐の出来人~長宗我部元親】
9 27 家康が大坂城・西の丸に入る
【家康の大坂城入りと「大河ドラマ江」】
10 5 南部信直・没
【盛岡の基礎を築く中興の祖・南部信直】
12 10 施薬院全宗が死去
【秀吉のもと医療福祉を復活させた全宗】
1600 2 8 北条氏規が死去
【「真実」を貫いた交渉の達人…氏規】
3 1 龍造寺隆信の母:慶誾尼・没
【戦国のゴッドマザー=隆信の母・慶誾尼】
3 15 村上天流VS樋口定次の烏川原の決闘
【村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘】
3 16 三浦按針・日本に漂着
【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
3 23 小西行長らが朝鮮と講和のため捕虜送還
【朝鮮出兵後・関係改善に尽くす宗義智】
4 1 上杉景勝が家康の上洛要請を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
5 12 家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)と会見
【三浦按針ことウィリアム・アダムスのその後】
5 17 芳春院(まつ)が江戸へ向かう(20日とも)
【前田利家の妻・まつの江戸下向の謎】
7 11 大谷吉継が石田三成に賛同
【関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成】
7 14 大谷吉継が北陸諸将の勧誘に…
【関ヶ原へ向けて…北陸と越後が動く】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ昇天
【花と散る~細川ガラシャの壮絶最期】
7 18 高取城の攻防
【関ヶ原最初の戦い…高取城の攻防】
7 19 ~8/1 伏見城・攻防戦
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田・犬伏の別れ】
~9/13田辺城・攻防戦
【たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?】
7 22 直江兼続が越後一揆を扇動
【直江兼続・越後一揆を扇動】
7 24 家康の会津征伐軍が小山に着陣
【「小山評定」前夜…家康と花房職之】
7 25 小山評定
【老獪・家康…西へUターンの小山評定】
伊達政宗が白石城を攻略
【伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原】
真田信幸の妻が昌幸と幸村の入城拒否
【あっぱれ!真田の嫁・小松姫の内助】
8 1 伏見城落城
【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】
8 3 前田利長が大聖寺城を攻略
【北陸の関ヶ原~大聖寺城を攻略】
8 5 石田三成から真田昌幸への手紙
【三成&真田昌幸&上杉景勝の連携】
8 8 浅井畷の合戦
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦・・・】
8 10 西軍・石田三成が大垣城に着陣
【関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2】
8 11 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
【迫る関ヶ原!先鋒進軍の時家康は…】
8 12 秀忠が伊達政宗に協力を要請
【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
8 16 遠山友政が河尻秀長の苗木城を奪取
【河尻VS遠山の関ヶ原~苗木城・開城】
福束城攻防戦
【関ヶ原~福束城攻防戦】
8 19 関ヶ原~南美濃攻防戦
【高須城&駒野城&津屋城の戦い】
8 22 加賀野井城&竹ヶ鼻城攻防戦
【竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝】
~23 岐阜城・落城
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 23 河渡の戦い
【中山道でぶつかる河渡の戦い】
8 25 伊勢安濃津城・開城
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 1 ~3郡上八幡城の戦い
【稲葉VS遠藤の関ヶ原~郡上八幡城】
家康が江戸城を出陣
【関ヶ原に~徳川家康が江戸城を出陣】
土岐高山砦の戦い
【関ヶ原の影響~土岐高山の戦い】
9 2 信濃上田城攻防戦・開始
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 3 京極高次が大津城に帰還
【ホタル大名・京極高次…一世一代の決断】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
【三成らが作戦を練った茶室・作夢軒】
大津城・籠城戦が始まる
【大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原】
徳川秀忠が上田城攻略を断念
【真田昌幸の関ヶ原・上田城の戦い】
【中山道で関ヶ原へ…秀忠の任務は?】
9 9 上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
9 10 大友義統が杵築城を攻撃
【黒田VS大友~石垣原へ杵築城攻撃】
9 13 九州にて石垣原の合戦・勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原】
鳥羽城の戦い
【九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【勝山にて東軍が軍議を開く】
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
【豊臣の五奉行~それぞれの関ヶ原】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
【討死上等!関ヶ原に散る猛将・島左近】
【小早川秀秋の東軍参戦】
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】
直江兼続が長谷堂に到着
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 関ヶ原の合戦・反省会
【朝まで生合戦】(このページはフィクションです)
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城に総攻撃
【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
伊予の関ヶ原~三津浜の戦い
【毛利の伊予出兵~宍戸景世の関ヶ原】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 20 徳川家康が大津城に入る
【勲功1番の戦い~京極高次の関ヶ原】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 22 留守政景が山形に着陣
【伊達政宗と長谷堂城の戦い】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・安国寺の失敗】
9 27 福知山城攻防戦
【細川VS小野木の福知山城攻防戦】
9 29 伊東祐慶が宮崎城を攻撃
【伊東祐慶の宮崎城攻撃…の後に…】
長谷堂の戦いで上泉奏綱が討死
【上泉奏綱=上泉憲元の討死】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
10 2 富来城が開城
【九州の関ヶ原~富来城が開城】
10 3 長束正家が自刃
【関ヶ原・水口岡山城の戦い】
10 5 鳥取城・総攻撃
【関ヶ原~亀井玆矩の鳥取城攻略】
10 6 伊達政宗が福島城を攻撃
【政宗と本庄繁長の福島城攻防】
10 10 岩村城が開城
【西軍・田丸直昌の岩村城が開城】
10 12 九鬼嘉隆・自刃
【戦国水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
10 14 黒田如水が小倉城を落す
【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】
10 17 加藤清正が宇土城・八代城を制圧
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】
10 20 鍋島直茂らが久留米城を攻撃
【生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原】
10 28 家康が赤松広秀(斎村政広)を切腹させる
【豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 5 浦戸一揆・終結
【土佐・一領具足の抵抗】
12 13 真田昌幸&幸村父子が高野山へ…
【真田昌幸&幸村・高野山へ…】
1601 2 1 井伊直政が近江佐和山城に国替え
【近江佐和山城・三成から直政へ】
4 26 松川の戦い
 【伊達政宗VS上杉景勝~松川の戦い】
 【岡左内~そのケチ的ポリシー】
8 7 加藤清正が熊本城の築城に着手
【熊本城・築城にまつわる怖い話】
8 24 上杉景勝に大幅減封・決定
【領地が1/4~上杉家・大幅減封の危機】
9 28 毛利輝元が息子・秀就を江戸へ人質に
【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
11 28 30万石に減封された上杉が米沢入城
【関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城】
    家康が文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
1602 2 1 井伊直政が死去
【徳川の斬り込み隊長・井伊の赤備え】
4 11 家康が島津の所領を安堵
【見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原】
5 1 家康が諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 前田玄以が死去
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
6 11 藤堂高虎が今治に築城開始
【戦国随一の築城術~藤堂高虎】
8 28 家康の生母・於大(伝通院)が死去
【家康を支えた生母~於大の方】
10 18 小早川秀秋・没
【わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】
【秀秋を苦しめた~岡山城・開かずの間】
11 13 小田氏治が死去
【不死鳥~小田氏治の負けっぷり】
1603 2 12 徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍への道】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】
7 28 家康の孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
11 10 池田家家老・伊木忠次が死去
【恒興・輝政…2代の補佐役・伊木忠次】
【天下の三大家老~伊木忠次】
    家康が京都・知恩院を永代菩提所とする
【三門の特別公開と知恩院の七不思議】
1604 3 20 黒田官兵衛が死去
【「若者よ!本を読め」~如水の名言】
8 22 村上武吉が死去
【瀬戸内水軍全盛と没落を見た村上武吉】
    彦根城・築城開始
【彦根城に菊は咲かない?人柱の伝説】
1605 4 16 徳川秀忠が2代将軍となる
【2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造】
5 10 家康の上洛要請を秀頼が拒否
【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】
9 20 山内一豊が死去
【したたかなのは一豊か?】
9 30 疋田景兼が死去
【三剣聖に次ぐ屈指の剣豪・疋田景兼】
10 26 村井長頼が死去
【加賀百万石の基礎を築いた村井長頼】
1606 4 19 柳生宗厳が死去
【男・柳生宗厳~68歳で掴んだ大きな1歩】
5 14 榊原康政が死去
【歯に衣着せぬ…徳川四天王・榊原康政】
1607 2 3 留守政景が死没
【「る」で始まる日本史の歴史人物は】
2 17 駿府城の天下普請を開始
【豊臣の最期を見据える家康の駿府城】
2 20 江戸城本丸にて阿国歌舞伎上演
【女歌舞伎の禁止令】
3 5 家康の四男・松平忠吉が死去
【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
9 6 龍造寺高房が死去
【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】
12 5 津軽為信が死去
【独立して弘前藩の祖となった津軽為信】
1608 2 15 仙桃院が死去
【上杉謙信の姉で景勝の母~仙桃院】
2 26 堀直政が死去
【秀吉をうならせた天下の陪臣・堀直政】
11 15 慶長宗論
【徳川家康の側室・養珠院お万の方】
1609 2 18 田中吉政が病死
【三成を捕えた田中吉政~出世物語】
4 4 家康が駿府城で肉人に遭遇
【徳川家康の未知との遭遇】
4 5 琉球王朝が薩摩に屈する
【悲しみの琉球王朝~尚寧王】
5 3 京極高次が死去
【姉と嫁のおかげで大出世?ホタル大名】
10 19 徳川家康の重臣・石川家成が死去
【家康様一筋…無二の忠臣・石川家成】
12   姫路城「天狗からの書状事件」
【真夏の夜の怪談話4…姫路城の刑部姫】
1610 2 24 長谷川等伯が死去
【智積院と長谷川等伯・障壁画】
8 20 細川幽斎(藤孝)が死去
【齢77!芸は身を助く~長寿の秘訣】
10 18 本多忠勝が死去
【家康と供に半世紀…四天王・本多忠勝】
1611 3 28 豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見
【会見で家康が感じた事】
【二条城で出された饅頭は・・・】
【二条城の会見と軍師・白井龍伯】
4 11 後水尾天皇が即位
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
6 4 真田昌幸が死去
【徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸】
6 24 加藤清正が死去
【加藤清正・疑惑の死】
9 19 謝名利山が処刑される
【琉球王国・最後の忠臣~謝名利山】
1612 1 26 亀井茲矩が死去
【戦国を生き抜いた鹿野藩初代藩主】
3 21 岡本大八事件・キリシタン禁止令を出す
【岡本大八事件と徳川のキリシタン禁止令】
4 13 巌流島の決闘
【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
【佐々木小次郎の実態】
5 20 閑室元佶が死去
【家康のブレーン・足利学校の閑室元佶】
6 4 前田慶次郎が死去
【人気の慶次郎・爺ちゃんでもカッコイイ】
6 25 興雲院お鍋の方が死去
【晩年の信長が最も愛した側室】
1613 1 25 池田輝政が死去
【「西国の将軍」と称された池田輝政】
4 25 大久保長安が死去
【江戸初期の謎・大久保長安の懲罰事件】
6 24 「笹の才蔵」の異名を賜った可児才蔵・没
【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
8 6 徳川家康が花火を観賞する
【花火の歴史】
8 17 北信愛が死去
【南部氏を支えた水先案内人~北信愛
12 23 秀忠が2度目のキリシタン禁止令・発令
【切支丹禁止令と戦国日本】
1614 1 5 高山右近が死去
【キリシタン大名・高山右近 神に召される】
1 18 最上義光が死去
【策士策に溺れる~謀略の将・最上義光】
5 20 前田利長が死去
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
6 3 板部岡江雪斎が死去
【世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎】
7 17 織田信包が急死
【病死か?毒殺か?織田信包・急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
7 26 家康が大仏開眼供養の中止を命令
【秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿】
8 20 方広寺・鐘銘事件で家康の最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく…】
9 21 中井正清が宇治川開削計画を上申
【築城の匠~家康専属大工・中井正清】
9 24 内藤如安に国外追放命令
【乱世を駆け抜けた異彩~内藤如安】
10 7 毛利勝永ら有名浪士が大坂城に入城
【大坂の陣~毛利勝永の入城】
10 9 真田幸村、九度山を脱出する
【幸村が九度山を脱出し大坂城へ…】
10   大坂城での軍儀
【真田幸村の必勝作戦!】
10 23 徳川秀忠が江戸を出陣
【「江」と大坂の陣直前の秀忠の手紙】
11 5 大坂方が平野郷を焼き討ちする
【平野焼き討ちと「みしかよの物かたり」】
徳川方の来襲に大坂方が城へ帰還
【冬の陣・直前~その時、大坂城内は?】
11 16 ~29日大坂冬の陣~野田福島の戦い
【初の決戦~博労淵・野田・福島の戦い】
11 26 大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
【激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
【真田幸村と松平直政】
12 12 熊野・北山一揆
【熊野・北山一揆in大坂の陣】
12 16 塙団右衛門が夜襲をかける
【夜討ちの大将・塙団右衛門in冬の陣】
徳川方の大筒が大坂城天守閣に命中
【家康×淀殿×治長=愛憎の三角関係】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
【浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣】
1615 3 19 真田幸村が姉と兄に手紙を出す
【真田幸村、最後の手紙】
4 19 家康が大野治純をして治長の負傷を問う
【かりそめの講和が破れ夏の陣へ…】
4 24 家康が大蔵卿局を帰阪させる
【交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局】
4 26 夏の陣・大和郡山城の戦い
【戦端を切った大和郡山城の戦い】
4 28 夏の陣・紀州一揆
【樫井の戦いに連動した紀州一揆】
4 29 大坂夏の陣・樫井の戦い
【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】
【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦い】
4 30 後藤又兵衛の大和口要撃作戦を採用
【大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い】
5 1 後藤又兵衛が平野へ出陣
【真田幸村の平野・地雷火伝説】
5 5 夏の陣・前夜、木村重成が兜に香を…
【露と消え…木村重成の夏の陣・前夜】
5 6 大坂夏の陣
【大坂夏の陣・開戦!】
道明寺・誉田の戦い
【後藤又兵衛・起死回生の大坂夏の陣】
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
若江の戦い
【若江に散った四天王=木村重成】
八尾の戦い
【桑名吉成の討死】
【藤堂高虎と渡辺了】
【八尾の戦い~ちょっとイイ話】
5 7 大坂夏の陣~大坂城・総攻撃開始
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦】
【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】
5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
【事実はドラマより~秀頼の子供たち】
【唯一の脱出成功者・明石全登】
【「山里丸の遺構発見」のニュース】
【落城記念~大阪城の怖い話】
5 11 長宗我盛親が捕まる
【逮捕から処刑までの最後の4日間】
5 12 豊臣秀頼の娘が京極忠高に確保される
【大坂城を脱出した秀頼の娘は…】
5 15 長宗我盛親が斬首される
【盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣】
5 21 「佐野道可事件」で内藤元盛が切腹
【陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭け】
5 23 豊臣秀頼の遺児・国松が処刑される
【事実はドラマより~秀頼の子供たち】
5 27 増田長盛が自刃
【五奉行・増田長盛…最後の大仕事】
6 1 江戸一帯に雪が降る
【異常気象と富士山信仰】
6 6 母里太兵衛友信が死去
【母里太兵衛~これぞ真の黒田武士】
6 11 古田織部が自刃
【家康暗殺計画は本当だったのか?】
島津忠恒の「真田日本一の兵」発言
【「真田日本一の兵」by忠恒の心の内は】
6 27 大野治胤が処刑される
【灰になっても…大野治胤の壮絶最期】
7 7 徳川幕府が「武家諸法度」を発布
【武家諸法度…元和偃武に徳川の基礎】
7 9 徳川家康が豊国神社の破却を命令
【豊臣の影を払拭…豊国神社・破却】
10 14 片倉景綱が死去
【独眼竜の在るところ片倉小十郎あり】
番外編 【西欧の地球分割支配と朝鮮出兵】
【大阪の昔話~大坂城の虎】
【大坂城を脱出した秀頼の娘は…】
【佐野道可・事件で内藤元盛が切腹】
【長宗我部盛親・斬首】
【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【石田三成はそんなに嫌われていたの?】
【トンチの帝王・曽呂利新左衛門と秀吉】
【岩見重太郎のヒヒ退治・一夜官女物語】
【真田丸はどこにあった?】
【「豊臣期大坂図屏風」を見てきました~】
【祝80周年・昭和の大阪城天守閣・復興】
【映画「のぼうの城」の感想】
【黒田一成と岩佐又兵衛と夏の陣屏風】
【真田信繁の討死~そして幸村伝説へ】
【枚方城の面影を求めて…】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【天下人だけが成しえた城割の重要性】
【戦国武将と茶の湯の流行】
【真夏の夜の怪談話2…新町化物屋敷】
【政略結婚と女性の役割】
【戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」】
【切支丹禁止令と戦国日本】
【戦国から江戸の城の変貌】
【娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止】
【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】

 

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2009年7月 3日 (金)

最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話

 

本日は歴史・・・というより、少々気になっている疑問・・・

昨日、NHK大人のドリルという番組で、地球温暖化が取り上げられていました。

本当は、番組をちゃんと見ようと思っていたんですが、「ビデオの録画設定をし忘れる」というぼんミスで、結局、最後の5分ほどしか見られなかったので、番組の感想を書くわけにはいかないのですが、新聞のテレビ欄の番組紹介には「この100年間で地球の平均気温は0.74度上昇し、異常気象による災害も頻発・・・」てな事が書かれていました。

確かに、その通り・・・この100年間で、地球の平均気温は上昇しています。

Seisyounagonkakigooricc では、1000年前は?

実は、木の年輪の調査などから、平安時代の日本の平均気温は、今より3度ほど高かったという結果がはじき出されています。

あくまで、仮説にすぎないかも知れない話ですが・・・
地球上をかっ歩した恐竜が絶滅した後に訪れた大きな氷河期の後、地球は小さな氷河期と小さな温暖期を繰り返しているという話があります。

その説によると、日本では・・・

縄文時代の半ば頃から弥生時代頃までは寒冷期

その後、卑弥呼邪馬台国の頃から大和朝廷の支配が進む西暦500年頃までは温暖期

そこから、大宝律令が制定される西暦700年頃までは再び寒冷期で、次ぎの奈良時代・平安時代・鎌倉時代温暖期が続き、その後、室町時代の1400年前後から小氷期に入り、その寒い期間は昭和の初め頃まで続くと言う・・・。

確かに、これなら、平安時代の気温が今よりも高かったという話も、近代の測定方法で気温が測定されるようになってからの平均気温が上昇し続けているという結果もうなづけます・・・なんせ、測定を開始した頃は、小氷期の最後のあたりになるわけですから・・・

さらに、歴史を紐解いてみても、ところどころ、符合する点があるのも確かです。

聖武天皇を恐怖に陥れた天然痘の流行・・・(10月15日参照>>)

平安京遷都を決行した桓武天皇は、平安京の前に、長岡京へと遷都(11月11日参照>>)しますが、未だ建設途中の段階で2度も洪水に襲われたうえ、夫人・皇后・母・息子・・・と次々と(おそらく疫病で)身近な人を亡くし、わずか10年で長岡京を捨てて、平安京の建設に切り替えます(10月22日参照>>)

その平安京で発達した寝殿造りには壁がなく、(すだれ)や几帳(きちょう)のみで仕切るという寒冷期なら考えられない造りです(12月7日参照>>)

さらに、その寝殿造りの清涼殿には、ゲリラ豪雨とともに雷が落ち、人々は菅原道真の怨霊だと恐れて、彼を天神として祀ります(6月26日参照>>)

確か、あの平清盛(2月4日参照>>)の死因となった熱病も、文献に残されたその症状から、現在では「マラリアに感染したのでは?」と推測されていますが、ご存じのように、マラリアは熱帯から亜熱帯地方に分布する感染症です。

京都の祇園祭(7月1日参照>>)や大阪の天神祭など、多くの「疫病退散のお祭り」が、この頃に生まれているのも興味深いですね(6月16日参照>>)

ところが、室町時代に入って、その様子が一変します。

足利尊氏の京都入りに備えて、後醍醐天皇から皇位を譲られた息子の恒良親王を連れて、福井敦賀へと落ちた新田義貞北国落ち・・・

その延元元年(建武三年)10月13日を、太陽暦に換算すると1336年11月22日・・・確かに、雪深い北陸では、そろそろ雪の便りも聞かれる頃ですが、彼らが一夜を過ごしたとされる木の芽峠は、わずか海抜600mほどの高さです。

そんなところで、それなりの装備をした軍隊のほとんどが凍死するという悲劇は、やはり、その年が異常に寒かった事を意味します(実際に木の年輪調査でもこの年の冬が異常に寒かった事が確認されています=10月13日参照>>)

そんな小氷期の真っ只中であった戦国時代には、例の疫病の流行はほとんど見られません。

あの大坂夏の陣の1ヶ月後の慶長二十年6月1日には、江戸一帯に雪が降った(7月9日参照>>)事が記録されていますが、これを太陽暦に換算すると1615年7月9日・・・7月の、それも東京に雪が降る事は、想像すらし難い事ですが、これも小氷期のなせるワザなのでしょうか。

そんな小氷期が徐々に終っていく時期と、日本を含めた世界中が近代化へ向けて走り出すのが、ちょうど同じ1900年頃・・・「この100年で気温が上昇している」というのは、この頃からの記録という事になります。

地球物理学によれば、地球は、この先、500年ほど現在の状況を保った後、大きな氷河期に向かっていくそうですが、その話も、そして上記の内容も、仮説の一つに過ぎません。

ただし、地球が温暖化していて、その原因が二酸化炭素にあるというのも仮説です。

どれもこれも、それを否定したり肯定したりできるほどの知識は持ち合わせていない私ですので、大きな事は言えませんが・・・

誰も見た事がないし、誰も証明した事がない・・・それは、歴史と同じで、明確な答えがない以上、多くの仮説の中から、どれを支持するかは、個人の自由のような気がするのですが、なにやら、誰かが推し進める一つの説に、誘導されている感が拭えない今日この頃・・・

ただ、一言付け加えさせていただくのは、本日のこのページ・・・

ひとつ、地球温暖化について、歴史の観点から見てみるのも一興かと思って書かせていただきましたが、決して、エコロジーそのものを否定しているわけではありません。

地球が温暖化してようがしまいが、その原因がCO2にあろうがなかろうが、エネルギーは限りある資源なのですから、無駄なエネルギーは使わないに越した事はなく、海も川も空も、そして空気だってキレイなほうがいいに決まってます・・・節約という意味でのエコは大切な事だと思います。

それこそ、江戸時代のように、修理&修理を重ねながら、使える物は最後まで丁寧に使いきり、着物や紙は幾度も作り替えられ、人の排泄物さえ畑に再利用する・・・そんな、労働力は惜しみなく使い、限りある物は大切に使う節約型のエコこそ、本来のエコであるべきなのに、いつの間にやら、新しい製品に買い換える事がエコになってしまっている事に、少しの疑問を感じてしまうのです。

確かに、電化製品は電気代は少なく、車はCO2の排出量も少ないのなら、エコかも知れませんが、まだ使えるのに廃棄された物はどうなるのでしょう?

いくつかは、リサイクルされるとしても、いくつかはどこかに捨てられるのでしょう。

それを、エコポイントやエコカー減税なる物で、政府が後押しする・・・なにやら、そこンところに少々疑問に感じる次第です。
 .

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2009年7月 2日 (木)

薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ

 

文久三年(1863年)7月2日、鹿児島湾(錦江湾)に停泊中の薩摩藩の汽船を拿捕したイギリス艦隊に向かって薩摩藩が砲撃を開始・・・3日間に渡って繰り広げられる薩英戦争が勃発しました。

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薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人を殺害した生麦事件(8月21日参照>>)・・・犯人の引渡しと賠償金の支払いを無視し続ける薩摩藩に、しびれを切らしたイギリス公使代理・ジョン・ニールは、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻のイギリス艦隊を率いて、直接交渉のため鹿児島湾へとやってきます。

昨日のブログでは、西瓜(スイカ)売り決死隊によるスッタモンダと、結局、色よい返事を受け取れなかったニールが、艦隊司令長官・オーガスタス・クーパー強硬手段に出るよう命令を下したところまで書かせていただきました(7月1日参照>>)

・・・と、強硬手段とは言え、イギリス側は、あくまで、今回は、威しをかけるだけで、即、戦争に持ち込むつもりではなく、まずは、鹿児島湾に停泊中の薩摩藩の汽船を奪って、その汽船を言わば人質に、今後の交渉を有利に進めるのが目的だったようなのですが・・・

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(このイラストは位置関係とその動きをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

文久三年(1863年)7月2日・・・その朝は、昨日の午後からの雨がいっそう強くなり、今後は、さらに暴風雨が予想される悪天候でした。

旗艦・ユーリアラス号を先頭に、鹿児島湾の奥へと侵入したイギリス艦隊は、停泊中だった3隻の薩摩藩の汽船を奪取・・・えい航しながら、桜島付近にやってきます。

天祐丸(てんゆうまる)青鷹丸(せいようまる)白鳳丸(はくほうまる)・・・この3隻の汽船は、つい先日、薩摩藩がアメリカやイギリスから購入したばかりのほぼ新品で、その総額は約30万両。

イギリスが要求している賠償金・2万5000ポンドよりも、倍以上の高額ですから、まさに、人質・・・おそらく、これで、薩摩藩は態度を軟化させ、交渉のテーブルにつくだろうと、ニールらは予測していました。

ところが、どっこい・・・昨年の生麦事件の後、久光はすでに、イギリスの報復を視野に入れていて、鹿児島側と、その対岸の桜島側に合計10ヶ所ほどの砲台を設置し、準備万端のヤル気満々だったのです。

午前中に、この3隻の汽船の拿捕(だほ)のニュースを聞いた久光&藩主・忠義(ただよし)父子は、すかさず軍儀をを開き、即刻・開戦を決断します。

かくして正午頃・・・天保山(てんぽざん)砲台から一発の号砲が鳴り響き、これを合図に海岸線に設置された各砲台が一斉に砲撃を仕掛けました。

湾の奥深くにまで入って、イカリをおろして停泊し、いざ、これから交渉を・・・と思っていたところに、いきなりの攻撃を受けたイギリス艦隊は大慌て・・・

やがて、袴腰(はかまごし)砲台から放たれた一発が、桜島近くにいたパーシューズ号に命中!

それでも止まらない砲撃に、コケット号アーガス号レースホース号の3隻は、それぞれがえい航していた薩摩藩の汽船の、これ以上の確保を断念・・・汽船に火をかけた後に、桜島沖に放置し、一旦、旗艦・ユーリアラス号を中心に一塊となります。

その後、花倉沖で態勢を整えて、今度は、ユーリアラス号を先頭に一列になって、鹿児島側に沿って南に向かって走行しながら、鹿児島城下への砲撃を開始します。

このあたりで、最初の薩摩の砲撃から、すでに2時間ほどが経過していましたが、もともと戦うつもりではなかったユーリアラス号は、やっと砲撃の準備が整いますが、あまりにも鹿児島側に近づき過ぎたたため、弁天波止(べんてんはと)砲台の放った砲弾が命中し、艦長・ジョスリング大佐以下、数名の犠牲者を出してしまいます。

また、祇園州(ぎおんのす)砲台への砲撃を命中させたレースホース号は、これまた岸に近づき過ぎて浅瀬に乗り上げ座礁・・・助けに来てくれたアーガス号とコケット号にえい航され、やっとの思いで沖のほうへと戻り、再び、一塊となった艦隊は、しばらく、その位置に停泊・・・。

夜になって、再び激しい砲撃戦が再開される中、やはり、射程距離と速射の面で、薩摩藩の様式砲よりも、はるかに性能の良いアームストロング砲を搭載していたイギリス艦隊は、次々と各砲台を破壊していきます。

やがて、パーシューズ号の放ったロケット弾が、鹿児島城下に着弾して、町は炎に包まれ、当時、弾薬や工芸品・生活用品などを生産する工場群であった集成館も炎上し、大きな被害を受けました。

そんな中、一時は、イギリス軍の上陸も覚悟した薩摩藩でしたが、7月3日の午後3時頃に、再び、列をなしてイギリス艦隊は、鹿児島湾を南下・・・沖で各船体の修理を行った後、翌・7月4日には、横浜に向けて出発し、完全に鹿児島から姿を消したのでした。

こうして、7月2日から7月4日にかけて3日間の交戦となった薩英戦争ですが、上記の通り、実質的に砲撃戦が繰り広げられたのは、1日半ほど・・・しかも、勝敗の決着もないまま、イギリス艦隊は、鹿児島を後にする事になりました。

このイギリス艦隊の撤退理由についての正式な記録は残っていないそうですが、通訳としてアーガス号に乗り込んでいたアーネスト・サトウ(8月26日参照>>)の回顧録によれば、弾薬・糧食・石炭などの供給不足が一因である」のだそうです。

やはり、今回のイギリス側の鹿児島入りは、薩摩に生麦事件の責任を取らせるための威嚇であり、徹底的に薩摩を攻撃するつもりではなかったというのは本当のようで、ちゃんとした準備はなされていなかったのでしょう。

結果的に、薩摩側にとって、城下の1割を焼失してしまうものの、死者・5名、負傷者・10数名(諸説あり)と、人的被害は少なかった薩英戦争ですが、彼らが、イギリスとの軍事力の差を目の当たりにした事は確かで、この後は、逆に、イギリスとの和平の道を探り、急激に接近していく事になるのは、皆さん、ご承知の通りです戦後処理のお話は9月28日参照>>)

やがて、維新を引っ張っていく事になる新生・薩摩の産みの苦しみといった感じの3日間でありました。
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2009年7月 1日 (水)

薩英戦争前々日~未遂に終った「スイカ売り決死隊」

 

文久三年(1863年)7月1日、イギリス公使代理のニールが、鹿児島湾に停泊中のイギリス艦隊のクーパー提督に、薩英戦争へのGOサインを出しました。

・・・・・・・・・

もとはと言えば、前年の8月に起きた生麦事件

ペリー黒船来航(6月3日参照>>)によって、長く閉じていた鎖国の門を開いた幕府・・・安政の大獄によって、開国に反対する尊王攘夷派を弾圧した井伊直弼(なおすけ)桜田門外の変(3月3日参照>>)で殺害された後、関東一帯では、尊王攘夷派による外国人殺傷事件や、外国公使館襲撃事件などが多発していました。

そんな中で起きたのが生麦事件・・・江戸を出発して京都へ向かっていた薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列が、神奈川宿近くの生麦村に差し掛かった時、その行列を横切った4人のイギリス人に、薩摩藩士が「無礼である」として斬りつけ、うち1人=リチャードソンを殺害してしまったのです(8月21日参照>>)

これまでも、同様の事件が起こるたびに実行犯に代わって賠償金を支払ってきた幕府は、今回もイギリスの求めに応じて見舞金を支払ったわけですが、イギリスは、薩摩藩にも犯人の引渡しと賠償金支払いを要求します。

ところが、かの久光は、引渡し&賠償金どころか、謝罪すら、する気ゼロ。

「幕府を通しての交渉ではラチあかん」とばかりに、イギリス公使代理のジョン・ニールは、薩摩藩と直接交渉すべく、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻の艦隊を鹿児島へと向わせたのです。

総乗組員1400余名、大砲90門を有する大艦隊の指揮官は、就任したばかりのオーガスタス・クーパー少尉・・・そんな彼らが鹿児島湾に姿を見せたのは、文久三年(1863年)6月27日の事でした。

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英艦入港戦争図(尚古集成館蔵)

翌日、少し岸に近づこうとするイギリス艦隊に向って、薩摩藩の役人・伊地知正治(いちじまさはる)ら4人を乗せた小舟が登場・・・ニールは、その4人にイギリスの要求書を手渡します。

そこには、かねてより要求していた賠償金2万5000ポンドの支払いと、生麦事件の実行犯の処刑の事が記載され、30時間以内にその回答を提示するよう求めていました。

一旦、その要求書を持って陸に戻った伊地知らは、さらに翌日、再び、旗艦のユーリアラス号を訪ねて、今度は、「交渉するためには・・・」と、ニールとクーパーの上陸を要請しますが、さすがに、それは拒否します。

・・・と、その日の夕方の事です。

イギリス艦隊に近づいて来る8隻の小舟・・・そこには、100人余りの者が分乗していて、「何事か?」と、覗き込む乗組員に向って、なにやら話しかけてきます。

商人の格好をして、手に手に西瓜(スイカ)を持って・・・どうやら、「このスイカを買わないか?」という事らしいですが、困惑気味の乗組員と、「船に乗せろ」「乗せない」の押し問答の中、ユーリアス号に近づいた2隻の船に乗った約40名の中の薩摩藩主の親戚を名乗る者から、「回答書を持参している」との報告を受けます。

「それならば・・・」と、その約40名がユーリアラス号への乗船を許されたのですが、実は、その中には、あの生麦事件で、最初に「無礼である」と斬りつけた奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)と、リチャードソンにとどめを刺した有村武次(ありむらたけつぐ・後の海江田信義)も含まれていました。

そうです。

このスイカ売り・・・ニールとクーパーを殺害して、ユーリアラス号以下・イギリス艦隊を略奪する使命を受けて、薩摩藩士から選りすぐられた精鋭たち=『西瓜売り決死隊』だったのです(現に西郷従道大山巌など後に大活躍する面々が多く含まれてます)

そうとは、まだ気づいていないニールとクーパー・・・先ほど、「藩主の親戚だ」と名乗った町田六郎左衛門(まちだろくろうざえもん)江夏喜蔵(こうかきぞう)志岐藤九郎(しきとうくろう)3名を艦長室に招き入れます。

彼らは、なにやら、回答書のような紙をちらつかせながらも、交渉をまともにする様子もないうえ、何となくソワソワ・・・それも、そのはず、彼らは、事を決行する合図となる、陸からの号砲を待っていたのです。

ところが、その号砲は、いくら待っても鳴る事なく、逆に、旗を振りながら近づいて来た1艘の小舟から、「中止!中止!」との叫び声・・・。

血相を変えて、慌ててユーリアラス号から退去する町田たち・・・かの2隻はもちろん、他の軍艦のそばにいた残りの6隻も、クモの子を散らすように、我先にと岸へと漕ぎ急いだのでした。

イギリス人もポッカ~ン( ̄○ ̄;)!

どうやら、かの久光が、もともと、この計画には乗り気でなかったのに、大久保一蔵(後の利通)に推されてしぶしぶOKしたものの、途中で気が変わった・・・という事ようなのですが、それなら、その久光と息子・忠義(ただよし・現藩主)から、出発時には酒盃を賜ったという決死隊の覚悟は何だったんだ?って感じですよねぇ・・・。

白虎隊奇兵隊などなど・・・幕末・維新に数多く出現する隊の中で、「西瓜売り決死隊」って・・・失礼だとは思いながらも、ちょっと笑っちゃうようなネーミング・・・

まぁ、昨年の大河のように、大久保利通=原田泰造ならアリかも知れん(;´▽`A``

・・・で、結局、この後すぐ、薩摩藩から正式な回答書が、ニールのもとへと届けられるのですが、その内容は、イギリスからの要求をまったく無視したものでした。

かくして文久三年(1863年)7月1日、ニールはクーパーに強硬手段に踏み切る命令を出し、ここに、かの薩英戦争が勃発する事となるのですが・・・

そのお話は、あ・し・た・・・って事で、コチラからどうぞ>>
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