孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!
永禄八年(1565年)7月28日、奈良の興福寺・一条院に幽閉されていた覚慶が細川藤孝らの手引きで、近江(滋賀県)へと脱出しました。
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この覚慶というお坊さん・・・
幼い頃に奈良は興福寺・一条院に入って、29歳のこの日まで仏門一筋の道を歩んで来た人なのですが、その父は室町幕府第12代将軍・足利義晴(よしはる)、母は前関白近衛尚通(ひさみち)の娘・慶寿院、さらに兄は第13代将軍・足利義輝(よしてる)・・・
・・・と、くれば、もう、おわかりですよね!
そうです、後の、室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)です。
この年の5月、三好三人衆と結託した松永久通に、兄の義輝を攻め殺され(5月19日参照>>)、鹿苑院の座主(ざす)となっていた弟も殺されたものの、彼だけは興福寺にて監禁状態にあったのです。
その義輝亡き後、永禄十一年までの約3年間、空席となる将軍の座ですが、もちろん、義輝を殺害した久秀らの心中には、次期将軍となるべき人物は決めてあります。
義輝の父の義晴の弟・・・つまり、第11代将軍・足利義澄(よしずみ)の息子・義維(よしつな)の、さらに息子・足利義栄(よしひで)です。
久通と三好三人衆は、阿波の御所と呼ばれていたこの義栄を、傀儡(かいらい・あやつり人形)の将軍に据えようと考えたのです。
足利将軍家は、代々、将軍職を継ぐべき長子以外は、寺に入って僧侶となるのがしきたりでしたから、義昭も、今の今まで、覚慶として生きてきたわけですが、その長子に万が一の事があった場合、還俗(げんぞく・出家して僧となっていた者が一般人に戻る事)すれば、次期将軍となる資格があるというのもない事ではありません。
あの「くじ引き将軍」でお馴染みの第6代・足利義教(よしのり)も、くじ引きに当選するまでは義円という青蓮院(しょうれんいん)の僧侶でした(6月24日参照>>)。
「こうなったら、是非とも還俗して自分も次期将軍候補に・・・」と、大張り切りの義昭・・・。
しかし、やはり、1人で、それを夢見ても、ムリ・・・とは言え、久秀らが「義栄を将軍に担ぎ上げで、そのおこぼれにありつこう」と考えると同じように、「義昭を担いで、自らの出世の糸口に・・・」と考える野心家は、どこにでもいるものです。
それが、かつて義晴に仕えていた細川藤孝(後の幽斎)でした。
つまり、義昭と義栄は、いとこ同士で次期・14代将軍の座を争う事となったわけです。
かくして永禄八年(1565年)7月28日、監視の目をすり抜けて興福寺を脱出した覚慶こと義昭は、藤孝の手引きによって、近江国甲賀郡和田村の豪族・和田惟政(これまさ)の館へと身を寄せます・・・惟政もまた、以前、義輝に仕えていた幕臣でした。
早速、義昭は、その近江から、全国の有力者に向けて、幕府復興の内容をしたためた手紙を送り、協力を要請しますが、諸国の武将たちの反応は、いまいち、おもわしくありませんでした。
・・・と、言うのも、やはり、それぞれの武将たちには、それぞれの野心はあるものの、その身に叶った実力という物もあります。
なんせ、久秀と三好三人衆は、前将軍を殺害してしまうほどの力を、現時点では持っているわけですから、やはり、それに対抗できるほどの力がなければ、すぐには、立ちあがる事はできません。
翌・永禄九年(1566年)2月、正式に還俗して、名を義秋(よしあき)と改めた彼は、やがて、若狭を経て、越前(福井県)一乗谷の朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せます。
ここでも、せっせと諸国の武将に手紙を書き続ける義昭でしたが、そんな中で、長年、敵対関係にあった朝倉氏と加賀一向一揆との関係(8月13日参照>>)を、足利将軍家として仲介に入り、見事、和解に持っていくという、将軍にふさわしい資質をも垣間見せてくれています・・・この頃、元服して、名を義昭としました。
そうこうしているうちに永禄十一年(1568年)2月には、かの義栄が、第14代将軍となりますが、それでも、義昭は諦める事なく、むしろ、亡き兄のためにも、自分自身が将軍になる夢は、燃え上がるばかり・・・。
ところで、ここで、せっかく中央へ進出できるチャンスの種である義昭が転がり込んで来てくれているのに、彼を奉じて上洛しようという意志を示さなかった義景の事を、みすみすチャンスを逃した愚将ように言う場合がありますが、以前、義景さんのお誕生日のページにも書かせていただいたように、私自身は、それは、義景の内政を重視したうえの適切な判断であったと考えております(9月24日参照>>)。
・・・で、上記のように、行動を起さない義景に業を煮やした藤孝が、諸国を放浪した後に、たまたま、その時、朝倉家に仕えていた明智光秀と(10月18日参照>>)と組んで、ちょうど稲葉山城を攻略して美濃(岐阜県)を手に入れたばかりの、織田信長に義昭をひきあわせるのです。
そして、ご存知の通り、永禄十一年(1568年)9月26日の信長の上洛(9月7日参照>>)となるわけですが、ドラマなどで描かれる義昭さんは、大抵、このあたりから・・・
これも、定番ですが、結局、自らが天下の差配をしたい信長にとって、義昭は、単なる上洛のための大義名分であったわけで、二人のイイ関係はすぐに崩れてしまいますので(1月23日参照>>)、ドラマに出て来る義昭さんは、この後の、信長にいいように扱われる感じのボンクラ将軍のイメージで描かれる事が多いですね。
しかし、今回の興福寺脱出と言い、越前での采配と言い、信長に出会うまでの義昭さんは、ちょっとだけカッコイイ気がします。
今後は、是非とも、そんなカッコイイ義昭さんを、ドラマで見てみたいものですね。
(*この後、信長にヤラレまくっても、しぶとく生き抜く放浪の貴公子の姿は、7月18日のページでどうぞ>>)
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コメント
細川家は足利幕府と徳川幕府に仕えた事になりますね。藤考・忠興親子は「中興の祖」ですね。義昭は晩年には朝鮮出兵の時に加勢していますね。
安土桃山時代は序盤・1570年代は近衛前久、中盤・1580年代は前田利家、終盤・1590年代は藤堂高虎が、キャスティングボートを持っていた感じが何となくします。
「江 姫たちの戦国」の回数ですが、1回削減されます。平年なら1週ずれますが、3月に地震で1週飛んでいて、12月に「坂の上の雲」があるので仕方ないです。
今年の大河ドラマはどこかツイてないような…。
投稿: えびすこ | 2011年8月15日 (月) 09時17分
えびすこさん、こんにちは~
江は、ある意味歴史に残る大河ドラマになると思います。
最後まで、目が離せませんね。
投稿: 茶々 | 2011年8月15日 (月) 15時50分