あっぱれ!真田の嫁~小松姫(稲姫)の内助の功
慶長五年(1600年)7月25日、犬伏から舞い戻った真田昌幸・幸村父子に対して、沼田城にて夫の留守を守る小松姫が入城を拒否しました。
・・・・・・・・・・・
1度目は天正十三年(1585年)(8月2日参照>>)・・・
そして、2度目は関ヶ原直前・・・
わずかな兵で居城の上田城に籠り、大軍の徳川を2度も撃退した父・真田昌幸(さなだまさゆき)と、後の大坂夏の陣で徳川家康(とくがわいえやす)の本陣へと斬り込む大活躍をみせた弟・真田幸村(ゆきむら=信繁)・・・
人気の二人に囲まれて、大抵のドラマではカットの憂き目に遭う真田家の長男・真田信幸(のぶゆき=信之)さんですが、徳川の時代にも真田家が生き残り、松代藩10万石の大名として明治維新を迎えるまで、その家名を守り抜く事ができた礎は、なんと言っても、藩祖となった信幸さんあってこそ・・・。
その信幸を支えた大胆で豪快なゴッドマザーが、本日の主役・小松姫(こまつひめ=小松殿・稲姫・於小亥)です。
天正元年(1573年)に家康の四天王の1人・本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)の長女として生まれた小松姫は、天正十四年(1586年)に家康の養女となってから、かの信幸と結婚します。
時に信幸21歳、小松姫14歳・・・
父の忠勝は・・・
♪家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八♪
と唄われたほどの重臣・・・(10月13日参照>>)
その姫として知られていた小松姫は、その婿選びの時、家康の前にズラリと並べられた婿候補の若者のマゲを掴んで、1人1人顔を覗き込んでいったのだとか・・・
その時、皆が家康と忠勝の威光におののいて、冷や汗タラタラだった中、信幸だけが「御免!」と言って、鉄扇で彼女の手を払いのけた!
すわ!怒り爆発かっ!と思いきや、逆に、
「カッコイイ~ヽ(*≧ε≦*)φ」と、気の強いお嬢の乙女心はイチコロに・・・てな、逸話が残りますが、これは、何かと気丈なエピソードを持つ彼女のイメージを描くための伝説の域を出ない物。
おそらくは、その天正十三年の領地問題でゴタゴタした家康と昌幸の関係を改善するための豊臣秀吉(とよとみひでよし)の心遣いってトコでしょう。
わざわざ家康の養女にしてからお嫁に出しているところを見ても、両家のための縁組であった可能性大です。
そんな政略的な結婚ではありましたが、上記の「小松姫・信幸にゾッコン」のエピソードが生まれるのも当然と思えるくらい、二人は仲睦まじい夫婦であったようで、間もなく2男・2女という子宝にも恵まれます。
やがて訪れた慶長五年(1600年)・・・ご存知、天下分け目の関ヶ原ですが・・・
この時、秀吉亡き後、実権を握った家康が、上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に謀反の疑いをかけ、会津征伐を決行します。
当然の事ながら、居城・上田城にいた昌幸のところにも出兵の要請が届き、昌幸・幸村父子は、すでに沼田城主となっていた信幸とともに、家康の先陣として会津へ向かっていた徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)隊と合流すべく北へ向かいます。
しかし7月21日、下野(しもつけ・栃木県)の犬伏(いぬふし)宿で、すでに、反家康の行動を起していた石田三成(いしだみつなり)からの密書を受け取った事で、状況が一変します。
家臣抜きの親子3人で話し合った末、父・昌幸と弟・幸村は三成の西軍に、兄・信幸は家康の東軍に参戦する事を決定し、彼ら父子は、ここ犬伏にて袂を分かつ・・・「犬伏の別れ」となったのです(7月21日参照>>)。
その日の夜のうちに、闇にまぎれて陣を離れ、上田城へと急ぎ戻る昌幸と幸村・・・途中、通り道であった、息子の城・沼田城へと立ち寄り、休憩を取ろうとします。
それが、慶長五年(1600年)7月25日の事でした。
しかし、城門はピッシリと閉ざされたまま・・・。
「久しぶりに孫の顔か見たいんやけど・・・」
と、昌幸が声をかけると、城門の上には、長刀を持ち、鎧姿に身を固めた小松姫の姿がありました。
会津に向かっているはずの彼らが、戻ってきた事ですべて察した小松姫・・・
「たとえ、父君・弟君であっても、今となっては敵。
城主の留守に敵を城内に入れる事はできません!」
とキッパリ!
「なんて、気のキツイ嫁なんだ!」
と、この仕打ちに怒り心頭なのは、弟の幸村です。
・・・と、確かに、ここで入城させずに、そのまま追いはらっただけなら、ただのキッツイ嫁ですが、さすがは小松姫・・・
ちゃんと、近くの正覚寺に、彼らを迎える準備を整えていたのです。
心づくしの酒肴で暖かくもてなし、子供たちも連れていって、しっかりとオジイチャンとの対面も果たさせました。
つまり、敵となった今、夫の留守に城に入れる事はできないという建前と、されど父子孫の縁は切れる物ではなく、それは次世代へもつなぐべき物という人の情けを見事使い分けたのです。
この気配りに感服した昌幸・・・
もともとは、忠勝の娘という事で、この結婚には反対していたという彼・・・結局、家康の養女となって「それならば・・・」と、昌幸は、半ば、シブシブ息子との縁談をOKしたとの事ですが、この時ばかりは・・・
「俺は、間違うとった・・・さすがは、日本一と言われる本多の娘や。
皆、見たか!武士の嫁とは、こういうモンや。
この嫁がいる限り、真田の家は安泰や」
と、皆の前で大喜びだったと言います。
まさに、東では、会津征伐を中止した家康が、西へとUターンする事を発表し、従軍していた諸将に今後、東西どちらかにつくのか?を問うた小山評定(おやまひょうじょう)を開いた(7月25日参照>>)、その日の出来事でした。
無事、上田城へと戻った昌幸・幸村父子は、この後、Uターンして東山道(中山道)を西へと向かう秀忠隊を、その上田城で迎え撃つ事になります(9月7日参照>>)。
そして、真田との上田城攻防戦に手間取った秀忠隊は、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまう事になるわけです。
しかし、ご存知のように、上田城を死守したものの、味方についた西軍が負けた事で、沼田と上田の領地は、すべて信幸のものとなり、昌幸・幸村父子は、九度山へ流罪となります(12月13日参照>>)。
その後は、もちろん、小松姫が、夫とともに、その配流地にたびたび便りを送り、金銀や思い出深い長野の名産品を差し入れ、流人生活の彼らを支えたのは言うまでもありません。
小松姫の菩提寺である長野県の大英寺蔵の姫の勇ましい肖像画(冒頭のです)・・・以前、大阪城天守閣の特別展で拝見しましたが、そりゃ~もう美しかったです。
それには及びませんが、「描きたい!」って気持ちにしてくれるお姿ですね~。
三つ葉葵の陣羽織に六連銭の胴・・・もう、たまりましぇ~ん
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コメント
こんにちは~。
小松姫は、むか~しNHK「真田太平記」で知ってファンになりました。紺野美沙子さんが格好良くてはまり役でした。ドラマでも勇ましいだけでなく、夫を立てる良妻で。
信幸さんもやはりどうしても若干影が薄い感じでしたが、渡瀬恒彦さんが、思慮深いがちゃんと昌幸相手でも言うべきは言う、男らしい信幸を好演されていました。こちらも良かった。幸村は憧れますが、自分的には信幸により好感が持てました。苦労人ですよね~。
ところで、1ページ目の下半分が「信幸」となるべき箇所が「昌幸」になっておりました。ご訂正されてはいかがでしょうか。
投稿: おみ | 2009年7月25日 (土) 13時35分
おみさん、お知らせいただいてありがとうございますo(_ _)o
間違った部分をお汲み取りいただきながら読んでいただいたようで・・・訂正させていただきました。
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2009年7月25日 (土) 17時59分
こんにちは。小松姫ステキ(*^.^*)
男に生まれていたら、父上に劣らぬ名将の器だったかもしれませんね。
それとも、女に生まれて信幸さんの妻になったからこそ、内助の功が光ったのかしら。
戦国武将はとかく闘いに強い人にばかり注目してしまいがちですが、何よりも生き延びなくてはすべて終わってしまいますから、華々しく散るのはかっこよくてもその人一人のかっこよさ。むしろ、誰になんと言われようとも生き延びて次を考える人が本当に強いのかなと思います。そういう点で、私は真田家では幸村さんより昌幸さんや信幸さんを高く買っています(*゚ー゚*)
投稿: おきよ | 2009年7月26日 (日) 13時36分
おきよさん、こんばんは~
今年の「天地人」でも、初音という架空の娘を登場させてまで重用されている真田一家ですが、やはり信幸さんは・・・
これから、注目を浴びる機会があるのか?
楽しみにしています。
投稿: 茶々 | 2009年7月26日 (日) 23時39分
信幸が少年期に徳川家の人質になっていたから、その縁での結婚でもありますね。弟の幸村はほぼ同時期に上杉家の人質。この時代は策略でそうなりますが、のちに兄弟が別れた基点が少年期にあると思います。
来年の大河ドラマは欲を言えば、浅井三姉妹の他の女性にも着目してほしいです。「姫たち」がタイトルにつくから。
「大河ドラマは徳川びいき」(「天地人」まで「関が原の戦いの敗者」が主人公になってない)と揶揄される事もありますが、豊臣秀吉や北政所ねねが、主人公になるので必ずしもそうではないですね。あと徳川将軍が主人公になる回数も意外と少ないです。
投稿: えびすこ | 2010年6月25日 (金) 09時30分
えびすこさん、こんにちは~
来年は女性の活躍…あると思いますね~
期待したいです。
投稿: 茶々 | 2010年6月25日 (金) 12時11分
近年の研究で、豊臣政権時に信之が治めていた沼田は、独立大名領とされていおり、小松姫は上方で人質生活を強いられていたはずなので、その有名な話は、フィクションだと思います。
正室腹の信之子女は、沼田生まれと、寛政譜に書いてあることから、辻褄あわせに、創作されたみたいです。
投稿: 名無し | 2011年6月30日 (木) 02時15分
名無しさん、こんばんは~
関ヶ原の時には、昌幸父ちゃんの奥さんも大坂城で人質状態でしたからね~
ただ、この犬伏の少し前の真田父子宛ての手紙の中で大谷吉継が「昌幸の妻子は大坂にいるが信幸の妻子は沼田に戻った」と書いていますし、例の家康の弾劾状にも、「(家康の独断で)幾人かの武将の妻子を、勝手に領地に戻している」というような内容が含まれているので、最近では勝手に帰ってた説も出てきてるみたいですが…どうなんでしょうね?
まぁ、例え小松姫が沼田にいたとしても、この逸話が本当かどうかはわかりませんが、イイ話なので、事実であって欲しいですね~
投稿: 茶々 | 2011年6月30日 (木) 03時05分
昨日の投稿の「本多忠勝の大河ドラマ化」が実現すると、娘の小松姫、婚家の真田家はもちろん登場しますね。
「十勇士」はさすがに無理かな(*^.^*)。
投稿: えびすこ | 2011年6月30日 (木) 17時23分
えびすこさん、こんばんは~
信之さんには、もっとスポットが当たってほしいですね~
投稿: 茶々 | 2011年6月30日 (木) 18時51分