たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦
慶長五年(1600年)7月21日、徳川家康とともに会津征伐へと向かい、そのまま東軍となった細川忠興の城・田辺城への攻撃が開始されました。
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ご存知、天下分け目の関ヶ原の合戦・・・・(一連の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でもどうぞ>>)
天下統一を果たした豊臣秀吉の死後(8月18日参照>>)、表面化する加藤清正ら武闘派の家臣たちと、石田三成ら文治派の家臣たちによる豊臣家内の対立・・・(3月4日参照>>)
そんな中、前田利家亡き後、豊臣配下の武将の中でトップの座となった徳川家康は、伏見城に居座り、徐々に、亡き秀吉の決めたルールを破りながら、天下人のごとく、会津の上杉景勝(かげかつ)へ上洛を要請します。
しかし景勝が、この上洛要請を拒否した事で(4月1日参照>>)、家康は、「上杉は謀反を企てている」として会津征伐を開始・・・伏見城を後にして、一路、東へと軍を進めます。
この家康の留守を見計らって、三成は行動を開始します。
まずは、西軍の大将として、西国の雄・毛利輝元を大坂城へと呼び(7月15日参照>>)、次ぎに、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)など、会津へ向かわなかった西国の大名の東下を阻止・・・
さらに、家康とともに会津征伐へと向かった諸将の妻子の帰国を禁止し、大坂城に留めおこうとします。
これは、もちろん、家康とともにいる武将を西軍に味方させるための人質で、しかたなく大坂城に入る者もいましたが、当然の事ながら、この強引な人質作戦に抵抗する者も・・・
その中で、加藤清正や黒田如水(じょすい=官兵衛)父子の妻子などは、うまく脱出しますが、悲劇たっだのは、やはり、家康とともに会津へと向かっていた宮津城主・細川忠興(ただおき)の妻・玉子(洗礼名:ガラシャ)・・・
彼女が、大坂城への入城を拒否して自害した事で(7月17日参照>>)、結局、西軍は、この人質作戦を中止せざるをえなくなり、逆に諸将の反感を買う結果となってしまいました。
次ぎに、西軍は、東軍配下の諸将の城への攻撃を開始・・・まずは、家康の留守を守る伏見城・・・(7月19日参照>>)
この西軍の動きに、居城の宮津城(京都府)を捨て、田辺城へと移って守りを固めるのは、すでに嫁が死を選んだ忠興の父・細川幽斎(ゆうさい・藤孝)・・・彼もまた、死を覚悟しての田辺城入城でした。
なんせ、領内に残る兵は、ごくわずか・・・領主の危機を聞いて駆けつけた農民や町民・僧侶たちを含めても、わずか500の軍勢で、田辺城を守らねばなりません。
一方の西軍は、一刻も早い畿内制圧を目標に、援軍を派遣・・・福知山城主・小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将に、援軍を含む1万5000で田辺城を囲み、慶長五年(1600年)7月21日、攻撃を開始しました。
東方では、会津征伐を中止した家康が、従う諸将に、大坂で待つ妻子の事を告げ、「このまま家康の東軍につくか?大坂に戻って西軍にくみするのか?」の選択を迫っていた頃・・・
ちなみに、西軍につく決意をした父・真田昌幸と弟・幸村(信繁)と袂を分かち、東軍につく決意をした兄・真田信幸(信之)父子の犬伏の別れ(2008年7月21日参照>>)も、同じ、この日でした。
・・・で、話を田辺城に戻しますが・・・
30倍もの数の兵に囲まれた風前の灯火の田辺城・・・もはや、「数日ももたずに落城するだろう」と、誰しもが思うところですが、これがなかなか踏ん張ります。
・・・というのも、籠城する細川側は、当然の事ながら、必死のパッチでの守り・・・なんせ幽斎自らが、死を覚悟しての籠城ですから・・・
しかし、一方の西軍の士気は、さほど高くはなかったのです。
それは、すでに戦いが開始されてまもなくの段階で、朝廷の干渉があったからなのです。
そうです・・・例の『古今伝授(こきんでんじゅ)』です。
以前、幽斎さんのご命日のところで書かせていただいたので(8月20日参照>>)、少し内容がかぶりますが・・・この『古今伝授』・・・要するに、「古今和歌集を正しく読める奥儀を身に着けた人」という事なのですが、これが、現代人が思う以上に重要な人物だったわけです。
書面に写すとしても手書き、写真も録音機もビデオも無い時代ですから、こういった伝統ある歌集の解釈が、人から人へと口伝えされていくうちに、間違った解釈をしてしまう事を防ぐため、奥義をマスターした人から、直接その奥義を学び、教えた人が「こいつは完璧にマスターした」と判断した時点で、その生徒に『古今伝授』を授けるというシステムになっていたわけです。
幽斎は、この古今伝授を受けていましたから、彼がいなくなると正統が途絶えてしまう事になるのです。
時の後陽成(ごようぜい)天皇をはじめ、公家たちは、これが気にかかる・・・。
結局、そのために朝廷が介入した事によって、最初の数日間しか激しい戦闘は行われず、後は、ずっと膠着状態が続く事に・・・
7月27日には、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)(12月29日参照>>)が使いを出し、立て籠もる幽斎へ、開城するように説得します。
しかし、幽斎は逆に、その使者に手紙を1通・・・
そこには、
♪古(いにしへ)も 今もかはらぬ 世の中に
心のたねを のこす言(こと)の葉(は) ♪
の歌とともに、智仁親王に古今伝授を行った旨の「証明書」があったのです。
これで、幽斎の決死の覚悟を確認した天皇は、すぐに勅使(ちょくし・天皇の公式な使者)を派遣して、さらに、降伏&開城の説得を続けます。
この間の西軍は、天皇の介入におそれおおき事とひれ伏すばかり・・・攻撃なんてできるわけがありませんよね。
結局、ねばりにねばった幽斎が開城をしたのは、9月13日・・・あの関ヶ原の合戦の2日前まで頑張りました。
この2ヶ月近くの間、西軍は1万5000もの兵を、ただ田辺城を見守るだけに費やしてしまい、この時期の畿内の制圧に大きく影響したとされ、後にこれを知った家康は大いに喜んだと言います。
そういう意味では、幽斎の思惑は見事に成功・・・一般人を含めたたった500人で、関ヶ原の勝敗を左右する事になったわけですからね。
徳川の世で、細川が優遇されるのも、ここに端を発しているのかも知れません。
ただ・・・
自分の留守中に田辺城を攻撃された形の忠興は、そこに参戦した諸将を許す事ができなかったらしく、15日の関ヶ原本チャンの後、小野木重次の福知山城を攻める事になるのですが、そのお話は9月27日の【関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦】でどうぞ>>
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コメント
細川幽斎(剃髪前は、藤孝)については、その友人であった明智光秀と同様に優秀な武将であることは、以前、コメントをしましたが、幽斎の最大の武器は、したたかさと優れた教養に加えて、京都の情勢に詳しかったことにあると思います。もちろん、田辺城での籠城戦は、幽斎が武将としての本領を発揮したと言っても、過言ではないでしょう。幽斎は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の視点から見れば、家臣として召し抱えたい人物だったのではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年2月23日 (火) 13時19分
トトさん、こんばんは~
魅力的な武将だったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年2月24日 (水) 01時18分
茶々さん、こんばんは。
田辺城の戦いは、細川幽斎が古今伝授を受けていたことがよく取り沙汰されますが、よく考えると、合戦前に田辺城以外の城を焼き払って田辺城に全集中させた手腕は見事ですね。
そして籠城勢の中に三淵藤英の息子がいたというのもアツいですねw
投稿: 鷲谷 城州(元壮介) | 2021年8月20日 (金) 22時27分
鷲谷 城州(元壮介)さん、こんばんは~
少数で守り切った手腕は、やはりスゴイと思います。
投稿: 茶々 | 2021年8月21日 (土) 03時27分