雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?
天正六年(1578年)7月8日、織田信長と戦闘中の本願寺・顕如が、雑賀衆らに、織田勢の迎撃を要請しています。
・・・・・・・・・
元亀元年(1570年)から天正八年(1582年)の10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長VS石山本願寺の石山合戦・・・
本願寺・法主(ほっす)の顕如(けんにょ)は、この合戦期間中に、17通に及ぶ督促状を、紀州(和歌山県)の雑賀(さいが・さいか)衆へと送り、延べ5400挺の鉄砲を要求しています。
ただ、この天正六年(1578年)7月8日の雑賀衆への要請は、鉄砲ではなく、信長が、毛利&村上水軍に対抗すべく建造していた鉄甲船の完成(9月30日参照>>)を受けての、雑賀の水軍衆への出陣要請であったようですが・・・。
実は、雑賀衆も一枚岩ではなく、水軍もあれば陸戦のゲリラ部隊もあり、さらに鉄砲軍団もあり・・・その時々で、それぞれが、協力もするし、反発もするといった状態の集団で、すでに、石山合戦の中盤のあたりで、信長の傘下に下ったグループもあれば、豊臣(羽柴)秀吉の紀州征伐(3月21日参照>>)の頃まで、独立を保っていた集団もありました。
・・・とは言うものの、やはり雑賀衆と言えば、ゲームの戦国無双で、信長に抵抗する主役クラスのイケメンキャラをゲットした事で、昨今の戦国ブームの波に乗っている雑賀孫一(まごいち)こと鈴木孫一重秀率いる鉄砲軍団が有名ですね。
一旦講和した後再開された石山合戦の後半戦序盤、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦で、雑賀衆の鉄砲隊が、信長を大いに悩ませた事は、すでに、書かせていただいてますが(5月3日参照>>)、その2ヵ月後に大坂湾で展開された第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)でも、村上水軍の抜群のフォーメーションで手痛い敗北を喰らった信長・・・
その戦いの後、信長は、次回の海戦に備えて、かの鉄甲船の建造にとりかかると同時に、雑賀衆の鉄砲軍団をも潰すべく、攻撃を仕掛けています。
この時の戦いでドローとなった後、休戦状態に入った信長と孫一は、石山合戦が終結した後には和睦となり、結局は孫一は、信長の臣下となるのですが、その時の逸話は、その日のページ(3月15日参照>>)で見ていただくとして、そもそもは、なぜ、この雑賀衆が戦国一の鉄砲軍団になりえたのか?
もともとは、天文十二年(1543年)に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられたと言われる鉄砲(8月25日参照>>)は、領主の種子島時尭(ときたか)が、購入した2挺のうち1挺を島の鍛冶屋に調べさせた事で、その製法が徐々に明らかとなるわけですが、それを、本州に持ち帰ったのは根来寺(ねごろでら)の僧であったと言われています。
ご存知のように、その根来寺も紀州でし、その根来寺に搭頭(たっちゅう・本寺の敷地内に建つ所属する寺)を持っていたのが、雑賀衆の土橋平次(どばしへいじ)という人物で、物流にも長けていた雑賀衆ですから、おそらく、根来寺に伝わった鉄砲のノウハウは、またたく間に雑賀に伝わったものと思われます。
鉄砲造りの工房の跡などは、雑賀からは、発見されていないそうですが、雑賀には雑賀鉢(さいがばち)という独特の兜をを作る匠がおり、製造法さえわかれば、作れる技術は充分あったでしょうから、おそらく、どこからか買ってくるのではなく、雑賀衆自身で、作っていた可能性大でしょう。
その証拠と言えるがどうかわかりませんが、堺の代表的な鉄砲職人の榎並屋清兵衛(えなみやせいべい)が一時、紀州に住んでいたという事実もあり、さらに、現存する慶長大火縄銃の金具からは、和歌山在住の鎌倉屋藤兵衛の銘があります。
鉄砲は、堺と近江国(滋賀県)の国友が2大都市と言われますが、紀州もなかなかのものであったのかも知れません。
しかも、雑賀衆の1人・佐竹義昌(よしまさ)の『働書(はたらきがき・由緒書)』によれば、天文年間の後半(1546年~50年)には、すでに雑賀に鉄砲があり、「幼い頃から訓練に励んでいる」との事で、作るだけではなく、使い手の育成にも、力を入れていたようです。
ところで、戦国合戦の鉄砲の使用例としてよく引っ張り出されるのが、信長と武田勝頼(かつより)の長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・
しかし、激戦地となった設楽ヶ原(したらがはら)から、ほとんど鉄砲玉が発掘されない事や、あの『信長公記』には、例の3段撃ちが書かれていない事もあって、現在では、「あの鉄砲の3段撃ちも、馬防柵(まぼうさく)も、実際にはなかったのでは?」と疑われているのは、皆さんもよくご存知でしょう。
実は、その『信長公記』には、信長と戦った時の、この雑賀衆の作戦として馬防柵が登場します。
さらに、『院徳太閤記(いんとくたいこうき)』には、3段に鉄砲を構えて戦った事も・・・。
冒頭部分に書かせていただいた通り、信長が雑賀を攻めたのは、天王寺合戦の翌年ですから、天正五年(1577年)の事になり、歴史上は長篠の合戦のほうが、その2年前の事になるわけですが、その長篠の合戦での3段撃ちが書かれている『信長記』は江戸時代の、それも、軍記物(フィクションありの小説)ですから、ひょっとしたら、こっちが元ネタの可能性もなきにしもあらず・・・
雑賀孫一・・・なかなかやりますね~
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コメント
『長篠の三段撃ち』今でも学校で教えてるんでしょうか?
自分はただの兵器オタで戦史にはさっぱり明るくないのですが、たしかに有効射程が数十m、最大でも200m、なんていう火器が阻止に使えたとは到底思えません。
強固に守られた陣地から掃射して、押し寄せる敵を食い止める・・・なんてのは機関銃が普及しだした20世紀初頭になってようやく実用化された戦術じゃなかったかな。不確かな史料だけに基いた『三段撃ち』が定説化したのは存外最近のことで、それも近代戦術の機関銃運用のイメージが入り込んだ結果なのかもしれませんね。
不勉強ですが、あの馬防柵は本当は戦場に迷路のように張り巡らせて敵の大軍を寸断し、各所に設けたキル・ゾーン(袋小路のような罠)に誘導する為に使われたのではないか、そして鉄砲隊は現代の重火器よろしく、各ゾーン内の敵部隊を掃討するようにもっと細分化して配置されたのではないか、などと想像しています。(専門家の先生から見れば、とんだ的外れかも、ですが)
もしそうなら三段撃ちどころではない高度な管制や指揮が必要になりますが、火縄銃の特性や限界、火力の集中と効果について同時代の誰よりも知悉していたに違いないこの二人なら、時代の三百年や四百年くらい先取りしてそのくらい出来たはず、と夢見たいです。(いわばこれが自分なりのロマン?)
織田信長も鈴木孫一&雑賀鉄砲衆も、いわば16世紀の『人間オーパーツ』ですから・・・・
投稿: 黒燕 | 2009年7月 9日 (木) 00時22分
黒燕さん、こんばんは~
聞くところによれば、種子島に伝わってから後、またたく間に日本製の複製が作られたにも関わらず、外国の鉄砲がめまぐるしく別の形に変化していくのに対し、日本製の鉄砲は、幕末に西洋式のものが入るまで、基本火縄銃のまま独自の発展を遂げます。
それは、外国では、大量の銃器で、めったやたらと撃ちまくって、いわゆる機関銃のような使い方をされるのに対し、日本では一発必中の命中精度を重視したためだったからだという事だそうで・・・
黒燕さんのおっしゃる通り、現代人が想像する西洋っぽい使い方とは、別の使い方をしていたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年7月 9日 (木) 03時51分
どうも「さいが」とルビがふってあるように見えるのですがこれは誤りです。「さいが」とも読む、などと言っている本やサイトがありますが、正しくは「さいか」です。地元で「さいが」(地名でもあるので頻繁に聞く名ですが)と発音する人はいません。「さいか」が正しいのです。
投稿: 「さいが」は誤りです | 2011年1月26日 (水) 11時58分
「さいが」は誤りですさん、こんにちは~
読み方は記録に残らないので、イロイロと論争がありますね。
浅井が「あざい」か「あさい」か、
甲賀が「こうが」か「こうか」か…
それも、10年前と今では、主流が違ったりしますね。
ここは、一般的な歴史を一般の方に紹介していますので、現段階での一般的な読み方、一般的なお名前で紹介させていただいております。
投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 12時53分
ウィンドウズの変換も「さいか」では出てきますが「さいが」では出てきません。「さいが」の方が一般的と言うご意見には到底納得できません。私は雑賀の生まれです。地元のものがが代々使ってきた読み方を無視して「漢字ではそう読めるのだからそう読ませろ」、「さいが」と読むのも正しいはず、というのは土地や人の歴史を軽んじた態度だと思うのです。例えば「中田」という姓などは「なかた」と読む家ももあれば「なかだ」と読む家もあるでしょう。本人がうちの家は「なかた」だと言ってるのに「なかだ」とも読めるから俺はお前をそう呼ぶ、これでも正しいはずだと言ったらずいぶん馬鹿にした話ではありませんか。
この点に関して良い記述を見つけたのでお読みにな
て下さい。グーグルで「縁日童子」という人(あきらかに地元の人ではありません)のサイトで
「さいが」か「さいか」か?
と題されたページを探してみて下さい。これがもっともな意見だと思います。 結論のみ(無断ですが)引用します。
・・・多少なりとも時代考証を心がけた創作作品では、総じて一般に知られた「雑賀孫市」の表記を使用しながらも、「さいか」と正しく読ませるようにしている場合が多いようだ。
なお彼が例にあげる神坂と津本は地元の作家。特に津本は雑賀の出身といって良いでしょう。
貴兄のサイトは確かに一般歴史ファン向けの読み物でしょうが、情報についてはいい加減なことを書いていないようにお見受けしたので私はこだわらせていただきました。
投稿: お言葉ですが納得できません | 2011年1月26日 (水) 15時27分
お言葉ですが納得できませんさん、こんにちは~
では、納得していただくためにも、書き加えておきますね。
変換では両方で出てきますので…
投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 15時57分
縁日童子と書いてしまいましたが「草子」でした。
面倒なので、これです
http://en-nichi.seesaa.net/article/142254265.html
それから「さいが」でも「雑賀」が出てくる場合があるかもしれませんが私は変換を論拠に「さいか」が正しいと言ってるのではありません。それはあなたにも明白でしょう。
ところでほかの読者の方でこれを読んだ方は(いたとして)どう思いますか。私はずいぶんぞんざいな返答だと失望させられました。
投稿: 訂正です | 2011年1月26日 (水) 16時10分
訂正ですさん、こんにちは~
「ぞんざいな返答」をしたつもりはありませんが、ご気分を悪くされてしまわれたのでしたらお詫びいたしますm(_ _)m
名詞の読みの「濁る」or「濁らない」は、言語学的には方言で、それは時代によっても変化していく物だそうで…くわしくはコチラを参照>>していただけるとありがたいです。
あと、ややこしいのでハンドルネームは一つにしていただけませんでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 16時28分
地元の方であるのだとしたら、郷土資料にあたってみてはどうでしょうか。平凡社の歴史地名大系を参照してみれば、和名抄ではどうなっておるとか、詳しいことがわかると思いますよ。
長篠合戦は、近年の武田研究で元亀2年の武田の三河侵攻が長篠合戦の前提事情であったことが指摘され、合戦の政治的背景が再考されていますね。
三段撃ちや馬防柵も、果たして長篠合戦は信長方にとってそこまでの投資をすべき戦いであったかどうか、政治的背景から再考してみるのも面白いかもしれません。
投稿: 黒駒 | 2011年1月26日 (水) 16時38分
黒駒さん、こんばんは~
設楽ヶ原では、弾丸がほとんど発見されていない点をみても、伝わる状況とは、随分と違うような気がします。
長篠合戦についても、研究が進んでいっているようなので、今後に期待したいですね。
投稿: 茶々 | 2011年1月27日 (木) 02時18分
>※欄「訂正です」さん; ところでほかの読者の方で~
私には、あなたのほうが不思議です。
漢字変換を先に持ち出したのはあなたですし、
引用も一個人の主観です。
さらに、引用部分と同じページには、
”多少なりとも時代考証を心がけた創作作品”が原作の漫画で、『さいが』と読ませるとあります。
矛盾していませんか?
これは出版社と原作者が、一般的には『さいが』でも良いと判断したからでしょう。
ついでに言えば、地名の『雑賀』と『雑賀孫一』は、別個の固有名詞です。
当時の人たちが『雑賀孫一』をどう読んだのかが重要なのであって、語源となった地名の読み方とは関係ないのです。
ましてや『雑賀孫一』は、通称(あだ名)でしょう?
勘違いされた読み方が定着していても、不思議ではありません。
それを否定することは、あなたの言うように、
“人の歴史を軽んじた態度だと思うのです。”
お目汚し、失礼いたしました。
投稿: ことかね | 2011年1月28日 (金) 17時43分
ことかねさん、コメントありがとうございます~
つい先日、池上さんの「学べるニュース」でやってましたね。
我が国の名前は「日本」と書いて「ニホン」と読むのか?「ニッポン」と読むのか?
結論としては「どちらでも良い」「決まってない」のだそうです。
江戸時代に日本を訪れた外国人が、「日本」と書いて何と読んでいるのかを巷の人々に聞いて、その発音をアルファベットで書き残しているらしいのですが、それによると、
「ニホン」の人もいれば「ニッポン」の人もいて、さらに「ニフォン」と言う人や「ジフォン」という人など様々だったそうです。
結局、昔の人が「ニホン」と言ってたか「ニッポン」と言ってたかがわからないのだからどちらでも良いというのが、今の政府の見解だそうですが、「自国の呼び方が決まっていない国」というのは、世界に類をみないのだそうです。
全知全能の唯一の神を信じる西洋と違って、日本には八百万の神様がいて、その神様が恋をしたり失敗したり怒ったり泣いたりする…0か1かのデジタル思考ではない曖昧さは、そんな土壌から生まれたのかもしれません。
私は、そんな日本の曖昧さが、けっこう好きだったりします。
投稿: 茶々 | 2011年1月29日 (土) 02時16分