河井継之助・無念~長岡二番崩れ
慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、北越戊辰戦争にて、世に「長岡二番崩れ」と呼ばれる2度目の長岡城・陥落があり、これにて、戊辰戦争の舞台は、さらに北へと向かいます。
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慶応四年(明治元年・1868年)7月24日、泥まみれの八丁沖渡沼作戦(7月24日参照>>)にて新政府軍に奪われた古巣・長岡城を奪回した長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)・・・
★北越戊辰戦争の経緯につきましては
・4月25日【戊辰戦争~北へ】>>
・5月13日【朝日山・争奪戦】>>
・5月19日【長岡城・陥落】>>
・6月 1日【今町・攻略】>>
そして、上記の7月24日>>からどうぞ!
しかし、数に勝る新政府軍は、翌・25日、すぐさま攻撃を仕掛けてきます。
まずは、長岡城の北側の新町(あらまち)口へと押し寄せる新政府軍。
壮絶な激戦が繰り広げられたこの場所は、何としてでも守りたい場所ですから、継之助は、自ら出陣して陣頭指揮にあたりました。
しかし、最前線にいた彼は、敵の銃弾を左ヒザに受け、重傷を負ってしまい、その後は、指揮はとれなくなってしまいます。
一方の新政府軍は、2隻の軍艦と5隻の輸送艦に分乗した援軍が到着・・・新潟港の北・大夫浜(たゆうはま・新潟県北区)に上陸し、2手に分かれて進軍します。
一手は、奥羽越列藩同盟軍の海上からの補給地であった新潟港へ、そして、別働隊は新発田(しばた)城へと向かいます。
実は、この新発田藩・・・ここに来て新政府軍へと寝返っってしまったのです・・・まぁ、戦況を踏まえれば、いたしかたない事かも知れません。
もともと、新発田藩は、尊王攘夷派であったにも関わらず、その位置関係から、周囲の藩に列藩同盟に加わるよう強い要請を受けたための同盟参加だっただけに、もはや、新政府軍の上陸という状態になった以上、当然と言えば当然の寝返りです。
それに、城を枕に討死するばかりではなく、何とか、生き残る方法を模索するのも、戦時下の指揮官の務めですから・・・。
とにかく、その寝返ったばかりの新発田藩の現状を確認するために、一方の別働隊は新発田城へ向かったわけですが、この時の新発田藩の寝返りは、やられた同盟軍にも、少なからず動揺が走ります。
長岡藩を助けるべく進軍していた米沢藩兵が、この寝返りで進軍を止めたため、ここで、1日のロス・・・会津藩の指揮官・佐川官兵衛の登場によって、ようやく、安心して進軍を再開し、26日に長岡城に到着し、早速、新潟港の守備にあたります。
しかし、すでに新潟は激戦の真っ最中で、2隻の軍艦からは、次々と砲撃が繰り返され、上陸した歩兵部隊も容赦なく突き進み、やがて、新潟は新政府の手に落ちました。
かくして慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、援軍として加わった薩摩藩兵、長州藩兵と松代藩兵を中心に再編成された新政府軍は、山県有朋(やまがたありとも)の指揮のもと、関原方面から、長岡への総攻撃を開始します。
継之助に代わって、もう一人の家老・山本帯刀(9月8日参照>>)が指揮し、それを迎え撃つ同盟軍でしたが、やはり、継之助を欠いた軍の統制は以前ようには行かず、圧されっぱなし・・・さらに、新政府軍の別働隊が、信濃川を渡って西側から攻め寄せました。
これによって、もはや、長岡城を死守する事が不可能と判断した長岡藩首脳陣は、その日の正午頃、城内の火薬庫に火を放ち、栃尾(とちお)・見附(みつけ)方面へと退却します。
それでも、末端の長岡藩兵は、抵抗を続けますが、押し寄せる新政府軍の多勢には、いかんともし難く、午後2時頃、持ち場を捨てて、やはり栃尾方面へと落ちていきました。
歓喜の奪回から、わずか4日・・・ここに長岡城は、再び落城したのです。
新潟港という補給路を断たれてしまった同盟軍にとって、南へ進軍という事は不可能に近く、傷がさらに悪化する継之助も、この後は、会津へと亡命する事になるのですが、そのお話は、またその日に書かせていただく事とします。
ところで・・・
もともと、江戸無血開城の後は、抵抗する会津・庄内藩のみがターゲットのはずだった北の戊辰戦争・・・本来なら、新発田藩のように、すんなりと新政府軍に賛同すれば、3ヶ月に渡る北越の戦いは無かったのかも知れません。
その点では、腰抜け呼ばわりされながら、結果的に江戸を戦火から救った徳川慶喜と、許されるはずのない武装中立を守ろうとしたために、新潟・長岡一帯を焦土と化してしまった継之助と・・・
相反するこの二人の行動は、どちらにも、賛否両論あり、どちらが正しかったか?どちらも間違っていたのか?・・・おそらくは決着が着かない論争となるのでしょうが、ただ一つ言える事は、幕府側&新政府側の皆々を含めて、誰1人、自ら、軽んじた気持ちでとった行動ではなく、この時代に生きた人々が、マジメに真剣に取り組んだ結果である事は確かです。
それを判断する私たちも、軽い気持ちで良い悪いを決定してしまうのではなく、それぞれの立場、時代背景を踏まえながら、彼らのように、マジメに真剣に取り組んで、論じていかねば・・・と思う次第です。
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コメント
<誰1人、自ら、軽んじた気持ちでとった行動ではなく、この時代に生きた人々が、マジメに真剣に取り組んだ結果である
ホンとにその通りです。これが正しい歴史認識だと思います。宮部みゆきの「蒲生邸事件」って読んだことありますか?そこにも書かれていましたが、後世の人が今の価値観で「あーすりゃよかったのに、あんなことしやがって」と言うのはその時代を必死になって生きた人たちに対してとっても失礼だなぁ、と思います。長岡は親せきが住んでたので何度も行ったことありますが、歴史と伝統がしかっり根付いている、それでいてのどかな実にいい町で、子孫の方々がご先祖様から受けついだものを大切に守り続けているんだろうなぁという印象でした。
投稿: Hiromin | 2009年7月29日 (水) 20時46分
Hirominさん、こんばんは~
「蒲生邸事件」というのは、知りませんでしたが
>その時代を必死になって生きた人たちに対してとっても失礼・・・
まさに、そう思います。
投稿: 茶々 | 2009年7月29日 (水) 22時05分