薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ
文久三年(1863年)7月2日、鹿児島湾(錦江湾)に停泊中の薩摩藩の汽船を拿捕したイギリス艦隊に向かって薩摩藩が砲撃を開始・・・3日間に渡って繰り広げられる薩英戦争が勃発しました。
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薩摩藩の島津久光(ひさみつ)の行列を横切ったイギリス人を殺害した生麦事件(8月21日参照>>)・・・犯人の引渡しと賠償金の支払いを無視し続ける薩摩藩に、しびれを切らしたイギリス公使代理・ジョン・ニールは、旗艦・ユーリアラス号以下・7隻のイギリス艦隊を率いて、直接交渉のため鹿児島湾へとやってきます。
昨日のブログでは、西瓜(スイカ)売り決死隊によるスッタモンダと、結局、色よい返事を受け取れなかったニールが、艦隊司令長官・オーガスタス・クーパーに強硬手段に出るよう命令を下したところまで書かせていただきました(7月1日参照>>)。
・・・と、強硬手段とは言え、イギリス側は、あくまで、今回は、威しをかけるだけで、即、戦争に持ち込むつもりではなく、まずは、鹿児島湾に停泊中の薩摩藩の汽船を奪って、その汽船を言わば人質に、今後の交渉を有利に進めるのが目的だったようなのですが・・・
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(このイラストは位置関係とその動きをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
文久三年(1863年)7月2日・・・その朝は、昨日の午後からの雨がいっそう強くなり、今後は、さらに暴風雨が予想される悪天候でした。
旗艦・ユーリアラス号を先頭に、鹿児島湾の奥へと侵入したイギリス艦隊は、停泊中だった3隻の薩摩藩の汽船を奪取・・・えい航しながら、桜島付近にやってきます。
天祐丸(てんゆうまる)・青鷹丸(せいようまる)・白鳳丸(はくほうまる)・・・この3隻の汽船は、つい先日、薩摩藩がアメリカやイギリスから購入したばかりのほぼ新品で、その総額は約30万両。
イギリスが要求している賠償金・2万5000ポンドよりも、倍以上の高額ですから、まさに、人質・・・おそらく、これで、薩摩藩は態度を軟化させ、交渉のテーブルにつくだろうと、ニールらは予測していました。
ところが、どっこい・・・昨年の生麦事件の後、久光はすでに、イギリスの報復を視野に入れていて、鹿児島側と、その対岸の桜島側に合計10ヶ所ほどの砲台を設置し、準備万端のヤル気満々だったのです。
午前中に、この3隻の汽船の拿捕(だほ)のニュースを聞いた久光&藩主・忠義(ただよし)父子は、すかさず軍儀をを開き、即刻・開戦を決断します。
かくして正午頃・・・天保山(てんぽざん)砲台から一発の号砲が鳴り響き、これを合図に海岸線に設置された各砲台が一斉に砲撃を仕掛けました。
湾の奥深くにまで入って、イカリをおろして停泊し、いざ、これから交渉を・・・と思っていたところに、いきなりの攻撃を受けたイギリス艦隊は大慌て・・・
やがて、袴腰(はかまごし)砲台から放たれた一発が、桜島近くにいたパーシューズ号に命中!
それでも止まらない砲撃に、コケット号・アーガス号・レースホース号の3隻は、それぞれがえい航していた薩摩藩の汽船の、これ以上の確保を断念・・・汽船に火をかけた後に、桜島沖に放置し、一旦、旗艦・ユーリアラス号を中心に一塊となります。
その後、花倉沖で態勢を整えて、今度は、ユーリアラス号を先頭に一列になって、鹿児島側に沿って南に向かって走行しながら、鹿児島城下への砲撃を開始します。
このあたりで、最初の薩摩の砲撃から、すでに2時間ほどが経過していましたが、もともと戦うつもりではなかったユーリアラス号は、やっと砲撃の準備が整いますが、あまりにも鹿児島側に近づき過ぎたたため、弁天波止(べんてんはと)砲台の放った砲弾が命中し、艦長・ジョスリング大佐以下、数名の犠牲者を出してしまいます。
また、祇園州(ぎおんのす)砲台への砲撃を命中させたレースホース号は、これまた岸に近づき過ぎて浅瀬に乗り上げ座礁・・・助けに来てくれたアーガス号とコケット号にえい航され、やっとの思いで沖のほうへと戻り、再び、一塊となった艦隊は、しばらく、その位置に停泊・・・。
夜になって、再び激しい砲撃戦が再開される中、やはり、射程距離と速射の面で、薩摩藩の様式砲よりも、はるかに性能の良いアームストロング砲を搭載していたイギリス艦隊は、次々と各砲台を破壊していきます。
やがて、パーシューズ号の放ったロケット弾が、鹿児島城下に着弾して、町は炎に包まれ、当時、弾薬や工芸品・生活用品などを生産する工場群であった集成館も炎上し、大きな被害を受けました。
そんな中、一時は、イギリス軍の上陸も覚悟した薩摩藩でしたが、7月3日の午後3時頃に、再び、列をなしてイギリス艦隊は、鹿児島湾を南下・・・沖で各船体の修理を行った後、翌・7月4日には、横浜に向けて出発し、完全に鹿児島から姿を消したのでした。
こうして、7月2日から7月4日にかけて3日間の交戦となった薩英戦争ですが、上記の通り、実質的に砲撃戦が繰り広げられたのは、1日半ほど・・・しかも、勝敗の決着もないまま、イギリス艦隊は、鹿児島を後にする事になりました。
このイギリス艦隊の撤退理由についての正式な記録は残っていないそうですが、通訳としてアーガス号に乗り込んでいたアーネスト・サトウ(8月26日参照>>)の回顧録によれば、「弾薬・糧食・石炭などの供給不足が一因である」のだそうです。
やはり、今回のイギリス側の鹿児島入りは、薩摩に生麦事件の責任を取らせるための威嚇であり、徹底的に薩摩を攻撃するつもりではなかったというのは本当のようで、ちゃんとした準備はなされていなかったのでしょう。
結果的に、薩摩側にとって、城下の1割を焼失してしまうものの、死者・5名、負傷者・10数名(諸説あり)と、人的被害は少なかった薩英戦争ですが、彼らが、イギリスとの軍事力の差を目の当たりにした事は確かで、この後は、逆に、イギリスとの和平の道を探り、急激に接近していく事になるのは、皆さん、ご承知の通りです(戦後処理のお話は9月28日参照>>)。
やがて、維新を引っ張っていく事になる新生・薩摩の産みの苦しみといった感じの3日間でありました。
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コメント
こんばんは!!
丁度『生麦事件』という、薩英戦争のことを扱った小説を読了したところで、記事を愉しく拝読しました!!
そう言えば、今日が戦いの始まった日になるのですね…
投稿: Charlie | 2009年7月 2日 (木) 18時27分
今年は「坂の上の雲」が放映されるようですね~。 東郷さんが、出てこなかったのは、続きがあるってことですか~?
投稿: 山は緑 | 2009年7月 2日 (木) 20時22分
未明に引き続いてお邪魔します。
局地戦としてはドローでしょうが、その後イギリスから得た諸々の援助と差し引きすれば、これは勝利といっても良いのではないでしょうか?
しかしその援助にしたところが、普通の後進国ならハードウェアの供与だけで単純に喜んでしまうところなのに、それ以上に製造や運用のノウハウを求めて必死になるんですよね。
「魚はいい自分で釣るから。それよりその仕掛けの作り方と釣り方を教えろ!」
(魚を軍艦や大砲に置き換えればもっとわかやすいかも)
その薩摩藩が作った明治の日本が、まさにそんな国だったわけですが。
投稿: 黒燕 | 2009年7月 2日 (木) 21時48分
Charlieさん、こんばんは~
コメントありがとうございますo(_ _)o
リアルタイムな雰囲気で、記事をupする事ができてよかったです~
投稿: 茶々 | 2009年7月 3日 (金) 01時11分
山は緑さん、こんばんは~
そう言えば、東郷平八郎は、この薩英戦争が初陣でしたね。
まだ16歳だったので、最前線で奮戦する先輩たちのサポートをしていたと聞いていますが、「坂の上の雲」では、どのように描かれているのでしょうか?
小説を読んでいないぶん、ドラマが楽しみです。
投稿: 茶々 | 2009年7月 3日 (金) 01時17分
黒燕さん、こんばんは~
そうですね、
薩英戦争後の薩摩の変貌は、この後の日本の変貌に大きな影響を与えましたね。
薩摩藩の薩英戦争・・・
長州藩の下関戦争・・・
後に、この二つの藩が、日本を変える事になるんですもんね
投稿: 茶々 | 2009年7月 3日 (金) 01時25分
こんばんはぁ~です
平八郎さんは、負け戦を目の当たりにし、「海から来る敵は、海で迎えんとだっちゃかん」って云ったそうです。(セリフは正確ではないです)司馬遼太郎さんの歴史小説は、史実が100%でないそうですが、世界にその名を知られた後の「東郷平八郎」を彷彿させてくれるってもんでした。(個人的にです~)
投稿: へぇはちろうさんはぁ~ | 2009年7月 3日 (金) 19時26分
へぇはちろうさんはぁ~さん、こんばんはです。
最前線から帰って来る先輩たちの話が、その後の戦い方のヒントとして大きく役立ったという話は聞いた事があります。
男前の東郷さん・・・16歳の頃は、どんな感じだったのでしょうか?イロイロ想像してしまいます。
投稿: 茶々 | 2009年7月 4日 (土) 02時07分