戦国から明治まで有料だった?~富士登山
先日、知人から「富士山サブレ」なるお菓子をいただきました~。
「富士登山に行ってきた」のだそうです。
そう言えば、ちょうど今頃・・・夏休みは、富士登山のシーズンって感じなんですかね。
一生に一度は登ってみたいとは思っているんですが、未だ、例の車で行ける場所までで、残念ながら、その上へは行けていません。
ところで、この富士登山・・・
以前、【異常気象と富士山信仰】(7月9日参照>>)のところで、修験道の始祖・役小角(えんのおづね)が始めた、修行としての富士登山が、室町時代の後半の戦国の頃から盛んになるお話をさせていただきましたが、実は、この頃からすでに、登山は有料だったんですね~。
山梨県富士吉田市の富士山北口浅間神社を起点とする吉田口登山道・・・この道が、当時のメインの登山道だったそうで、かつては、神社の周辺に、登山者の宿泊所と教導所を兼ねたお坊が、それはもう、たくさん建っていたのだとか・・・。
・・・で、当時、このあたり一帯に勢力を誇っていた、あの今川氏が、この登山道の近くに関所を置き、登山者・1人につき244文の山役銭=通行料を徴収したのだそうです。
現在も、関所の目印だった金鳥居が健在です。
この徴収業務は、教導所の御師(おし)がおこない、例の白装束に金剛杖を持った登山者が、登山口で通行料を払うと、代わりに手形を受け取って、いざ!富士登山へ・・・というワケです。
もちろん、あの「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」も唱えます。
しかし、いつの時代も同じ・・・こんな神聖な場でも、やはりいます!通行料を払わずに登ろうとする神をも恐れぬ人・・・。
そのため、山の中腹と頂上にも関所を置き、手形の無い者は絶対に通さない・・・いや、富士山から追放!と、厳しくチェックしたようです。
徴収した通行料は、約半分は領主への上納とし、残った中から、御師が一部を貰い、あとは、登山道や周辺の整備を任されている近隣の農民に配られたのだそうで、高冷地で、農業と言っても多くの収穫を期待できない、このあたりの農民にとっては、良いアルバイトだったようで、近隣の村同士で、この権利を奪いあった事も記録に残っています。
そんなこんなの富士山有料制度・・・途中、今川から武田の支配に移った頃、一度、244文から122文と半額に値下がりした事があった(なぜ?)そうですが、なんだかんだで、その戦国時代から始まったこの制度は、江戸を通じて、明治の頃まで続いていたそうです。
本日のイラストは、ちょっと斬新な雰囲気で霊峰・富士を描いてみました~
いつかは、あの高みに・・・ヽ(´▽`)/
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