保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路
保元元年(1156年)7月14日、保元の乱に敗れた藤原頼長が、逃走先の奈良で死亡しました。
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藤原頼長(よりなが)・・・関白・藤原忠実(ただざね)を父に持ち、幼い頃から、その頭の良さはハンパなく、人は彼の事を「日本一の大学生」と呼び、そのうえ、男にまでモテモテのイケメン・・・
もはや、将来の大出世は約束されたようなもの・・・彼の人生のスタートは、こんな華やかな雰囲気でした。
忠実の次男として、保安元年(1120年)に生まれた頼長は、兄である忠通(ただみち)との年齢差が24歳・・・つまり、お父さんが、ずいぶんと高齢になってからガンバった子供であるため、もう、頼長の事がかわいくてかわいくて仕方がない!
やがて、成長した頼長は、子供がいなかった兄の養子となり、政治家の仲間入り・・・七光りだけでなく、マジメで頭も良く、努力家な彼は、右大臣を経て、左大臣にまで上りつめました。
一見、非のうちどころのない彼でしたが、そんな彼にも、欠点はあります。
それが、マジメで努力家・・・そう、本来は、長所であるはずのそんな部分でも、度が過ぎると、それは欠点となってしまうもの・・・
ある時、書庫を作る担当となった彼は、そうれはもう、見事なまでに蔵書を分類し、綿密な計算のもと、寸分の狂いもない完璧な書庫を作り上げましたが、そんな自分と同じ事を他人にも求めてしまうのです。
努力家な彼は、他人が努力しないと、本気で怒ります。
どれもこれも、完璧な仕上がりにならないと許せないのです。
それも、その怒り方が尋常じゃない・・・。
中には、公務に遅刻したために、自宅を燃やされてしまった人もいたくらい・・・。
そんな彼を、人はいつしか「悪左府(あくさふ)」(左府=左大臣の事)と呼ぶようになり、やがて、同僚や後輩からは嫌われ、上司からの信頼もなくしていくのです。
ちょうどその頃に、兄・忠通に待望の男児が誕生する事となり、兄弟の間にも大きな溝が誕生してしまいます。
なんせ、兄にとって、そんな弟は、自分の息子の出世の妨げになりますからね。
しかし、それでも、息子・頼長へのかわいさがおさまらない父・忠実・・・いや、逆に、こんなにマジメで優秀なのにも関わらず、他人からどうこう言われてしまう息子だからこそ、余計にかわいいのかもかも知れません。
父・忠実の頼長への溺愛が、ますますエスカレートしていくのです。
忠実は、関白の座を頼長に譲るように、兄・忠通に働きかけますが、当然、断られます。
すると、今度は、鳥羽上皇(第74代天皇)に働きかけて、関白に順ずる「内覧の宣旨(ないらんのせんじ)」を与えてもらい、さらに、藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の権利を、忠通から取り上げて、これも頼長のものにしてしまいます。
こうして、鳥羽上皇にも、時の天皇である第76代・近衛天皇にも、うっとおしがられる頼長でしたが、その近衛天皇がわずか17歳亡くなり、弟の第77代・後白河天皇が即位すると、その対立は決定的となります。
頼長は、後白河天皇からの「内覧の宣旨」を貰えなかったのです。
これには、上記の行動にブチ切れた忠通が、「近衛天皇の死は、頼長の呪いによるもの」という話を、後白河天皇にチクッた事も影響していました。
政界の中央の座から、転がり落ちてしまった頼長・・・こうなったら、力ずくでも、兄を失脚させて、自分が、その後釜に座ろうと考えます。
そんな頼長が目をつけたのが、自分と同じく、表舞台から引きずり下ろされた人物・・・後白河天皇の兄で、第75代の天皇だった崇徳(すとく)上皇(8月26日参照>>)です。
やがて、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が亡くなった事をきっかけに、その戦いは幕を開けます(7月2日参照>>)。
後白河(弟)VS崇徳(兄)の天皇家と、
忠通(兄)VS頼長(弟)の摂関家の争いに、
源義朝(子)VS源為義(父)
平清盛(甥)VS平忠正(叔父)と、それぞれの味方についた武士を巻き込んだ保元の乱(7月11日参照>>)です。
ご存知のように、この保元の乱は、わずか4時間ほどの戦いで後白河天皇側(上記の青色グループ)の勝利に終るわけですが、その勝敗を分けた最も大きな要因は、フットワークの軽さ・・・
つまり、いち早く仕掛けたほうが勝ったわけですが、この時、父・為義(ためよし)とともに、崇徳+頼長側についていた源為朝(みなもとのためとも)は、この乱の前夜に、敵に夜討ちをかける事を提案(3月6日参照>>)しますが、あっさりと却下・・・ところが、その夜、逆に敵から夜討ちをかけられ、彼らは、敗れてしまうのです。
この為朝の夜討ちの提案を却下したのが、頼長だと言われています。
そう、ここにきても、まだ、彼は、マジメな努力家・・・「天皇VS上皇という、由緒正しき人同士の戦いで、夜討ちなんて姑息なマネができるか!」というのが、彼の考えだったのです。
しかし、結局は、その夜討ちをかけられて敗走する彼ら・・・逃げる途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れます。
ご存じ、猿沢の池の東側から興福寺方面を見た景色…右奥が興福寺の五重塔で左に見える階段が「五十二段」よばれる階段です。
階段と塔の間にいくつかの木が見えますが、この木陰に、奈良へと逃れて来た頼長が身を隠したとされ「左府の森(さふのもり)」と呼ばれています。
実は、この奈良には、父・忠実がいたのです。
近くの木陰に身を潜めて興福寺に助けを求めるも断わられ、大量の出血を目の当たりにして、もはや死を悟った頼長・・・
その最後の望みは、最愛の父に会う事・・・しかし、最愛の父は、この対面を拒みます。
幼い頃から、その才能を開花させ、エリートの道を歩み続けるはずだった頼長・・・父の愛と期待を一身に受け、走り続けた最後の最後に、その父に拒まれた心境はいかばかりであったでしょうか。
かくして、保元元年(1156年)7月14日、失意のまま、その傷が悪化した頼長は、潜伏先の般若寺で37歳の生涯を閉じたのです。
しかし、彼の悲しみは、ここで終わりませんでした。
一旦、埋葬されていた彼の遺体は、「本当に頼長が死んだのかどうかを確認する」として、役人によって掘りおこされるのですが、当然の事ながら、すでに遺体は白骨化し、誰なのかは確認できない状態・・・。
しかも、その遺体が確認できないとわかった役人は、さっさと立ち去ってしまう・・・つまり、その遺体は埋め戻される事なく、そのまま放置されてしまったというのです。
乱を起こしたとは言え、あまりに悲しい末路・・・
確かに、戦いとは、常に無情なものではありますが、せめて、亡くなった以上は、敵にも敬意を現すという基本は守っていただきたいです。
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コメント
本当に悲惨ですね。
謀反 というトガをかけられた高貴な人達には、皆 恨みから化けて出てきても、そりゃあムリも無い ~ ~ と、思うものがあります。
同時代を生きた人達にすれば、恐くて堪らないでしょうね。
土を掘り起こして、ちゃんと見届けなければ不安、でも、そのガイコツを見たら恐怖心が爆発・・・、逃げ散った人達は、その後はきっと、ずっと生きた心地を失ったままになってしまったのではないでしょうか。。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月14日 (火) 15時35分
重用の節句を祝うさん、こんばんは~
そうですね~
忠通の息子は、祖父にあたる忠実の怨霊に悩まされている事を、その日記に書き残しているようなので、やっぱ、怖かったんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2009年7月14日 (火) 18時38分
保元の乱って関わった人たちそれぞれの関係が覚えきれなくてそのまんまになってたけど、今日はすっきりとよくわかりました。ありがとうございます。いつの時代もリーダーになる人はカチンカチンのまじめ人間だけでなく、ある程度ゆとりを持って周りを見渡せる人、できれば自然に人を惹きつけられる人望ある人じゃなきゃうまくいかないんでしょうねぇ・・・頼長さんの骨は・・・そのままうっちゃっておかれたのかしら・・‘歴史に選ばれた人’はどんな人でも手厚く葬ってあげた方がいいような気がします。
投稿: Hiromin | 2009年7月14日 (火) 20時56分
こんばんは。
頼長さん真面目だけどそれが空回りというのがどこか悲しいですよね。
ところで、忠通との確執について次のような説が有力になりつつあります。元々頼長は子供のいない忠通の後継者となる予定だったのが、47歳になって忠通に男子(基実)が生まれた為に忠通が自分の子を後継者にすべく、頼長を忠通の後継者から外そうと工作を始めた、と。
(この説に基づくと忠通さんのほうが「我儘」ということになりますが・・・)
保元の乱では死体ひっくり返しという事態も悲惨ですが、平治の乱では保元の乱では行われなかった「晒し首」が行なわれ、20年後の治承寿永の乱ではタブーだった公卿の晒し首まで実行。敗者に対する仕打ちがエスカレートしているような気が・・・
敗者に対する残酷な処置の開始も「保元の乱」がある意味始まりだったのかも知れませんね。
投稿: さがみ | 2009年7月14日 (火) 22時46分
Hirominさん、こんばんは~
>頼長さんの骨は・・・
そのまま野ざらしだったようです。
おっしゃる通り、後で怨霊にビビリまくるんなら、最初からちゃんと葬ってさしあげたほうがいいと思います。
投稿: 茶々 | 2009年7月14日 (火) 23時09分
さがみさん、こんばんは~
おっしゃる通りですね~
本文にも書きましたが、忠通さんに息子が生まれた事で、兄弟の縁も切れたってとこでしょうか・・・
もはや、死人に口無しで、本当に「悪左府」って呼ばれてたかどうかも、アヤシイもんですよね。
投稿: 茶々 | 2009年7月14日 (火) 23時13分
記事ではライバル関係にある人が何組かいて、親族の因縁が相当絡んでますね。この戦いで武士に政治の主導権が移ったと言えますね。
次回のアンケートのテーマに「日本史における有名なライバルは誰と誰?」を提案します。武田信玄&上杉謙信以外にも「好敵手」がいると思うので。明治以降でも有名なライバルは相当います。
投稿: えびすこ | 2011年1月22日 (土) 08時45分
えびすこさん、こんにちは~
>「好敵手」
いいですね~
様々なライバルたち…特に戦国は、誰と誰をブッキングするかを考えるだけで楽しくなりますね~
投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 09時25分
かつて遠足で訪れた奈良公園近くの興福寺が、今、大河ドラマで話題の頼長ゆかりの地だったとは…。山本耕史さんの熱演に期待です。
投稿: ミヤコワスレ | 2012年4月 3日 (火) 16時36分
ミヤコワスレさん、こんばんは~
そうなんです。
興福寺を訪れる人は多いんですが、ここが「左府の森」と呼ばれる頼長さんゆかりの場所だという事は、ほとんど知られていないですね。
ガイドさんもスルーのようです。
大河の山本耕史さん…イイ味出してますね~
私も期待してます。
投稿: 茶々 | 2012年4月 3日 (火) 19時26分
再び、こんばんは。
麗しの山本頼長サマに、うっとりの今日この頃です。
さて頼長さんの亡くなる前の潜伏先ってどこなんですか?埋められた場所は?興福寺のあたりですか?
投稿: ミヤコワスレ | 2012年4月 4日 (水) 16時48分
でも、すとく帝だけには、わかったんですよね?。あの世で仲良くしてれば、光栄です
投稿: ゆうと | 2012年4月 4日 (水) 17時19分
ミヤコワスレさん、こんばんは~
潜伏先…というか、保元の乱での敗走中に重傷を負った時点で、おそらくは頼長さん自身も、命が長くない事を悟っていたと思います。
奈良に逃げて来たのは、そこのお父さんがいたからで、死ぬ前にひと目会っておきたかったという事じゃないでしょうか?
本文に書いた通り、父は門を開けてはくれず、頼長は、そのまま、そこで亡くなります。
埋められたのは、奈良の般若野です。
投稿: 茶々 | 2012年4月 5日 (木) 01時20分
ゆうとさん、こんばんは~
そうですね、
崇徳天皇と、心安らかに眠っておられる事を願います。
投稿: 茶々 | 2012年4月 5日 (木) 01時22分
ありがとうございました。
投稿: ミヤコワスレ | 2012年4月 5日 (木) 06時37分
ミヤコワスレさん、申し訳ありませんo(_ _)o
私、勘違いをしておりました。
「左府のもり」のお話は、以前、奈良市埋蔵文化研究所長の森下さんに、周辺を案内していただいた際に教えていただいたのですが、その時のメモ書きを発見したので確認してみますと、
この時の頼長は、「左府のもり」に身を隠して興福寺に助けを求めるも断わられ、その後、般若寺で亡くなったと教えていただいておりました。
昨年見た「ヒストリア」で、父に面会を断られた直後に道端で亡くなるシーンがあって、記憶がゴッチャになってしまっていました。
すみませんでした。
本文も、そのように訂正させていただいときます。
投稿: 茶々 | 2012年4月 9日 (月) 04時51分
単純な疑問なんですがなぜ頼長さんはあんなに溺愛されてた父上に最後お目通り叶わなかったのでしょうか?
やはりどんなに可愛くても、賊軍として逃亡してきた息子には関わりたくなかったのですかね?
気になりすぎて夜しか眠れません(Θ_Θ;)
投稿: ゃぷん | 2012年5月 5日 (土) 16時58分
ゃぷんさん、こんばんは~
あれだけ可愛がっていたのになぜ?
という疑問は残りますが、やはり、考えられる理由としては、「息子より自らの保身に走った」しか無いような気がします。
なんだかんだで兄貴の方は勝利者ですし、父親にとっては、こっちも息子ですしね。
投稿: 茶々 | 2012年5月 6日 (日) 01時34分
先週の大河で頼長さまの最期が描かれていましたね。
知に生きた頼長さまらしく、書物に執着するという演出や、瀕死で輿の中で涙するシーンなど、心打たれました。
山本耕史さんがこれで見納めかと思うと、そちらの意味でも切なくなりました。。。
投稿: やんたん | 2012年6月 6日 (水) 15時16分
やんたんさん、こんにちは~
山本耕史さん、良かったですね~
全盛期の聡明さ憎たらしさが、ここに活きて来て、その振り幅の大きさに、最期の哀れさが倍増…
見事な演技でした!
ホント、これから見られないのが残念です。
次の振り幅の大きさを塚地さんに期待します。
投稿: 茶々 | 2012年6月 6日 (水) 16時23分
頼長さんは自分の仕事について有益な相手と男色関係を結んで、そのことを日記に記録していたそうですが…。
仕事熱心にも程があります。
まあ、まつりごとを行うっていうのは、自分のような小市民には計り知れない深い闇があるのでしょうかねえ…。
投稿: とらぬ狸 | 2015年7月13日 (月) 18時50分
とらぬ狸さん、こんばんは~
確かに…
戦国時代もそうですが、こういう方々の男色というのは、単に「男同士で愛し合う」というよりは、「契りを交わす」という感じ…言うならば「親分子分の盃を交わす」みたいな?絶対に裏切らない約束の意味合いがあったですね。
それだけ政争や裏切りが多かったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年7月14日 (火) 01時25分