薄命の将軍・徳川家茂が後世に残した物は?
慶応二年(1866年)7月20日、第二次長州征伐の最中、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂が大坂城にて、21歳の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・・・
昨年の大河ドラマ「篤姫」・・・松田翔太くん演じる徳川家茂(いえもち)が、北大路海舟の腕に抱かれて亡くなるシーンは、なかなかの感動モンでした。
確かに、実際には家茂さんを看取ったのは松本良順(りょうじゅん)(3月12日参照>>)という奥医師ですが、ドラマでの後半の勝海舟は、前半の尚五郎さんに匹敵する重要な役どころでしたから、そういう変更はアリだと思ってます。
・・・で、その家茂最期のセリフで・・・
「私は、いったい何を成したというんだろう」
と、自らが将軍となったにも関わらず、何もやり遂げられなかった事へのはがゆさのような気持ちを語っていたように記憶しておりますが、確かに、実際の家茂さんも、志半ば・・・といった感の拭えない死であったと察します。
朝廷と約束した攘夷(外国の排除)は決行できず、長州征伐の実戦に出る事もなく・・・しかも、亡くなった場所が大坂城という事は出陣中・・・徳川家康以来、歴代の江戸幕府将軍の中でも、陣中で亡くなったのは、この家茂さんだけだという事を思えば、さぞかし無念であった事でしょう。
ただ、彼が何も成し遂げられなかったのは、ボンクラ将軍だったからでも、傀儡(かいらい・操り人形)だったからでもなく、ひとえに、そのやさしさと、年齢の若さゆえではなかったか?と思います。
紀州藩主・徳川斉順(なりゆき)の長男として、江戸赤坂の藩邸で生まれた彼は、幼い頃から藩主としての英才教育を受け、聡明な少年に育ちます。
時は幕末・・・ペリーの黒船来航(6月6日参照>>)によって幕府が大きく揺れる中、第13代将軍・徳川家定が、子供もなく病弱だったため、その生存中から、すでに後継者決定の話が持ち上がります。
ご存知のように、一橋(ひとつばし・徳川)慶喜を推す徳川斉昭ら一橋派と、この家茂(当時は慶福)を推す井伊直弼(なおすけ)ら紀州派との間でひとモンチャクあった後、紀州派が勝利して、家定亡き後は、この家茂が第14代将軍となりますが、この時、彼は、まだ13歳・・・
確かに、その聡明さゆえ「吉宗公(8代将軍)の再来!」と称された彼でしたが、時代は幕末の動乱期です。
いくら聡明でも、わずか13歳の将軍が、采配を振ってやっていける状態ではないのは明らか・・・当然の事ながら、彼を将軍に担ぎ上げた周囲の者たちが、自分たちの思い通りにするために、自分を将軍にした事は、それこそ、聡明な彼には、わかっていたに違いありません。
やがて、安政の大獄で、反対派を徹底的に弾圧する大老・井伊直弼は、その反対派に桜田門外の変で殺され(3月3日参照>>)、幕府の威信は地に落ち、朝廷との関係も最悪になってしまいます。
そんな幕府が、何とか、朝廷との関係を改善して、巻き返しを図ろうと考えたのが公武合体政策・・・朝廷(公)と幕府(武)が一緒になって、何とか、この動乱期を乗り越えようというのです。
その象徴となったのが、彼・家茂と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚でした(8月26日参照>>)。
ただ一つの救いは、以前も、和宮さんのご命日の日に書かせていただいたように、100%の政略結婚であったわりには仲睦まじいお二人(9月2日参照>>)であった事くらいでしょうが、その結婚から、わずか一年後、家茂は、江戸幕府将軍として230年ぶりに上洛し、朝廷のゴリ押しで攘夷決行を約束してしまいます。
この上洛の時、攘夷祈願で、賀茂神社に詣でる天皇の行列のお供を命じられた家茂は、天皇や公家らが、御輿に乗って悠々と進む後ろから、馬に乗ってついていくという、「幕府は朝廷の下」という事を一般民衆にも見せ付ける、将軍にとっては屈辱的な事もさせられていますが、彼は従順に従っています。
ちなみに、この行列を見た高杉晋作が「よっ!征夷大将軍!」と、バカにするような声かけをしたなんてエピソードもありますが、声をかけたのが、晋作だったかどうかは定かではないものの、本当に、このような声をかけた者が見物人の中にいた事は確かなようで、そんな事にも、黙って耐えなければならないほど、幕府の力は弱まっていたのです。
しかし、この時、朝廷と約束した攘夷も、そして、この2年後に勃発する第二次長州征伐(5月22日参照>>)でも、彼が積極的に事を行う事はなく・・・というより、彼は、いつも、周囲の大人たちに、その判断を聞かねばならなかったのです。
この時の長州への対応にしても、強硬派の老中が「藩主の毛利父子は死罪だ!」と言ったかと思うと、補佐役の慶喜は「いや、毛利は由緒正しき家柄なので半分くらいの領地没収でいいんじゃない?」と言い、守護職の松平容保(かたもり)は「藩主の助命はいいけど領地は3分の1くらいにしないと・・・」と、意見がバラバラ・・・しかも、そこには家茂の意見などは組み込まれない始末・・・
そんな心痛からか、家茂は、その第二次長州征伐が始まって間もなく体調を崩して、そのまま病床につき、慶応二年(1866年)7月20日、21歳の若さで亡くなってしまうのです。
その聡明さゆえ、自らが傀儡である事を知り、
その若さゆえ、周囲の意見を聞かねばならず、
そのやさしさゆえ、自らの意志を強引に貫く事ができなかった家茂さん・・・まさに、冒頭の「私は、いったい何を成したというんだろう」という生涯だった事でしょう。
そのため、昨年の篤姫でスポットを浴びるまで、「15代将軍の慶喜は知っていても、14代の家茂は知らなかった」という方も多かったのではないでしょうか?
しかし、そんな中、彼は、生涯でただ一度、誰にも相談せず、自らの意志で、後世に残るある事を決定しています。
それは、先に書いた、朝廷に対して攘夷の決行を約束した直後の頃の事でした。
幕府の威信が地に落ちてしまった事で、高飛車な態度の朝廷に、ムリヤリ約束させられてしまった攘夷の決行・・・しかたなく、「やります」とは言ったものの、もはや開国して外国人がどんどん入り込んできてしまっている状況で、できるわけがない事も明白でしたが、約束した以上、ちょっとくらいは、やってる感じのポーズもとらないとならないわけで・・・
そこで幕府は、「わが国は、周囲を海に囲まれた島国・・・まずは、海から来る敵を討ち果たしましょう」とウマイ事言って、何かやってるふりのパフォーマンス=大坂湾の湾岸警備の視察をやる事に・・・
そこには、当然、将軍の家茂もかり出されたわけですが、その時、その案内役をしたのが、まだまだ幕府の下っ端だった勝麟太郎・・・後の海舟でした。
その時、湾岸警備の重要性を熱心に家茂に説明する中で、勝は、家茂が、ただの傀儡だとウワサされているようなボンクラ将軍ではない事に気づき、一世一代の直訴をします。
「どうか、海軍を作らせて下さい」と・・・
日本は、それこそ、古墳時代の昔から渡来人がやってきて、奈良時代には遣唐使を派遣し、平安末期には平清盛が海運を発達させ、室町には足利義満が明と貿易し、戦国時代には織田信長が南蛮と・・・と、もともとは島国ならではの海洋民族であったはずなのに、江戸時代になってからは鎖国をし、幕府に反発させないため、各藩には大きな船を造る事さえ禁止にしていましたから、その頃の幕府には、海軍が重要であるという意識がほとんど無かったのです。
それこそ、ペリー来航という大事件で、慌てて「長崎海軍伝習所」なるものを、この数年前に設立してはいましたが、それも、充分な成果を挙げられないまま、わずか四年で閉鎖されていたのです。
しかし、上記のごとく、家茂は、何でも周囲の意見を聞かねばならない立場・・・「江戸に持ち帰り吟味いたす」と言ったら、おそらく、この話はウヤムヤになっていた事でしょう。
しかし、彼は、その場で、即座に決定したのです。
「わかった・・・余が、この場で許す。
勝が立派な海軍に育ててくれ」と・・・
それこそ、将軍の視察ですから、周囲には、証人とも言うべき幕臣がワンサカいます。
将軍が、皆の前で直接はっきりと口にした命令・・・もう、誰も逆らえません。
かくして、元治元年(1864年)、ご存知「海軍操練所」が造られ、勝は総責任者に任ぜられます。
結局、家茂自身は、その2年後に、海軍の成長途中で亡くなったわけですが、さらにそのわずか2年後の明治元年(1868年)、奇しくも幕府海軍の最後の姿となった榎本武揚(えのもとたけあき)艦隊(12月15日参照>>)が、すでに世界に誇れる海軍であった事を考えれば、その成長ぶりがいかにスゴイものであったかがわかるというものです。
さらに、その後も、引き継がれた海軍精神は、やがて、日本海海戦(5月27日参照>>)で世界を驚かせる事になるのです。
傀儡と呼ばれた薄命の将軍・家茂の、生涯ただ一度の独断でした。
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
こんにちは
家茂公の臨終は本当は19日の午後2時頃であったのを19が"重苦"として避けられたのか、江戸表には20日と伝えられたというのを小説で読みました。小説だから真偽のほどは私などのような歴史オンチにはわかりかねますが、そういうことは大いにありうるだろうなとは思いました。
いずれにせよ、夭折したのは事実なのでお気の毒なことです。
病弱だったということですが、生母である実成院という方は長命だったようなので『似れば良かったのに…。』と私は思いました。(笑)やはり将軍職の重圧が命を縮めたのか、紀州のお殿様であったのならもっと長生きしたかもしれないですね。
もっともそうだとすると、和宮さんとの結婚もなかったわけだけれど、和宮さんと婚約する前には婚約者もいたそうですから『その方とそこそこ幸せに暮らしたのではないかしら?』と私などは思います。"いい夫"の鏡みたいな方のようなので…。(笑)
大河ドラマ【篤姫】でも家茂公が勝海舟さんに海軍をつくり育てることを許すシーンがありましたね。海舟さん『やったぁ~!』という感じで喜んでいるようでした。
海舟さんも後年、早世した家茂公を想い、気の毒な方だと涙することも多かったそうですね。
投稿: おみや | 2009年7月20日 (月) 17時06分
おみやさん、こんばんは~
井伊直弼が桜田門外に倒れた時も、悲しみにあけくれて一時は食事もできなかったといいますから、やはり家茂さんは心やさしき人なのでしょう。
紀州で、ゆっくりとした生涯を送っていただきたかったと思いますが、やはり、それでも幕末の動乱に巻き込まれたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2009年7月20日 (月) 19時13分
「空蝉の 唐織り衣なにかせん あやも錦も 君ありてこそ」和宮
これだけでも、良いんじゃないかと思いますね~。
海舟さんの家茂公への思いは、孝明天皇に対する松平容保さんの思いにダブルのは、私だけでしょうか。「微忠を尽したい」って思いで。
「海軍創設許可」と「宸翰」と、それぞれ内容は違っても~。
投稿: 山は緑 | 2009年7月20日 (月) 20時18分
幕末期の主要メンバーは 若死する人が多かった、ということは分かっていたつもりでしたが、21歳 だったなんて ・ ・ ・ まだまだ これから という年齢ですよね。
ビタミンB1が不足して罹る 脚気 だったと云われていますよね。
目黒のサンマを食べるようなヤンチャな性格だったら、助かったかもしれません、
江戸城の奥深くで、あまりに大事な扱いを受けていたことが、却って寿命を縮めることになってしまったのだと思います。
家定の頃から、徳川家の斜陽が始まっていたという風にも感じます。
投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月20日 (月) 22時27分
山は緑さん、こんばんは~
家茂さんの生涯には、和宮さんさえいればイイ・・・なんか、ロマンチックです。
投稿: 茶々 | 2009年7月20日 (月) 22時49分
重用の節句を祝うさん、こんばんは~
増上寺の発掘調査では、歴代将軍の遺骨は、かなり一般人と違った風に変形していたと言いますから、やはり、特殊な生活を送っておられたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年7月20日 (月) 22時53分
「篤姫」では記念撮影するシーンがありましたが、実際の家茂はカメラを見る事なく、生涯を終えたのではないでしょうか?後任の慶喜はカメラマニアでしたね。
さて松田翔太くんですが、来年は後白河天皇になります。主人公・平清盛の「朝廷のライバル」です。
投稿: えびすこ | 2011年5月29日 (日) 09時21分
えびすこさん、こんにちは~
>「篤姫」では記念撮影するシーンがありましたが…
篤姫と3人で撮ったかどうかはわかりませんし、その写真も現存しないので何とも言えませんが、確か、家茂が(江戸城に)写真屋を呼んで撮影したという記録があったように記憶してます。
確かな記憶じゃありませんが…
投稿: 茶々 | 2011年5月29日 (日) 12時12分
写真屋を呼んだ(説がある)んですか?初耳です。
徳川家茂の風貌は肖像画でしか知らないので、どういう風か「篤姫」放送前までは、イメージが湧きにくかったです。
家茂は慶喜より10歳くらい若いんですね。
もし実際とは逆に、家茂が慶喜の10年後に将軍になっていれば、「幕末」がもう少し長かったかもしれないですね。
投稿: えびすこ | 2011年5月29日 (日) 12時55分
虎屋さんのHPに、家茂さんの事が出ています。お菓子が好きだったようですね。
http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_062.html
投稿: やぶひび | 2012年5月18日 (金) 18時30分
やぶひびさん、こんばんは~
へぇ~家茂さんもお菓子好きだったんですね~
確か、篤姫の旦那さんの家定さんも…
将軍様は、そういうのがお好きなんでしょうか
投稿: 茶々 | 2012年5月18日 (金) 19時46分
徳川家茂に対する私なりの印象ですが、病弱な上に、井伊直弼ら紀州派が、血筋重視で、無理やり担ぎ上げられたような気がします。もし、家茂が、10~20年早く生まれていて、丈夫な体であって、生まれる時代が違っていたら、徳川幕府の未来に何らかの影響を与えたのではないでしょうか。もしかしたら、家茂は、心の葛藤を抱きやすい性格だったかもしれないからこそ、命を縮めてしまった可能性が高いのではないかと思います。
投稿: トト | 2015年8月31日 (月) 10時08分
トトさん、こんにちは~
1番心労が重なるような時期に将軍となられましたからね~
時代が違い、年齢が違えば、有意義に歳を重ねられ、優秀な将軍に成長なさった事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年8月31日 (月) 17時46分
増上寺の徳川家墓所を移転、改葬した時に
調査がありました。
和宮の棺に写真が入っていました。
写真には男性で、家茂?と言われていますが、
写真版から消えてしまったそうです。
投稿: やぶひび | 2022年7月27日 (水) 09時38分
やぶひびさん、こんばんは~
写真のお話は・・・
本文にリンクを貼らせていただいた和宮さまのページ>>にも書かせていただきましたが、
私も家茂さんだったんじゃないか?と思っています。
てか、そうであってほしいですね!
投稿: 茶々 | 2022年7月28日 (木) 04時13分