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2009年7月27日 (月)

第二次長州征伐も大詰め!最後の小倉・上陸

 

慶応二年(1866年)7月27日、第二次長州征伐で、長州軍は、いよいよ小倉城攻略をめざして、3度目の小倉上陸作戦を決行しました。

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初めてのかたは、まずは、第二次長州征伐の経緯から・・・
すでに、読んでいただいているかたは、以下へすっ飛ばしてください

上記の通り、大村益次郎が指揮をとった東側の石州口浜田城を攻略芸州口では膠着状態が続く中、高杉晋作が指揮をとる小倉口では、たびたびのゲリラ戦的上陸作戦に終止符を打ち、いよいよ小倉城を攻略すべく、3度目の上陸が行われるのです。

慶応二年(1866年)7月27日軍艦による援護射撃をともないながら上陸した長州の精鋭・約800名・・・

大里に本陣を構えた晋作は、軍を二手に分け、海側から赤坂、山側から大谷へと向かいます。

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこを守るのは、あの肥後藩・・・6月17日>>に書かせていただいたように、肥後藩の指揮官であった長岡監物(けんもつ)は、その方針の違いから、度々、幕府軍総督の小笠原長行(ながみち)と対立して、「ウチの担当となった場所は守りますけど、こっちのやりたいようにさしてもらいますよって!」と、全面協力とは呼べない感じではありました。

しかし、なんと言っても、肥後は大きな藩・・・しかも、最新鋭のアームストロング砲も持っています。

さらに、海上からは、幕府の軍艦3隻が赤坂&大谷に向けて援護射撃を繰り返し、長州は大きな損害を被り、やむなく撤退する事となり、この第二次長州征伐で、初となる長州側の敗北を喰らいました。

しかし、損害を被ったのは肥後藩も同じ・・・朝から夕方まで、肥後藩が矢面に立って、丸一日戦ったにも関わらず、援護があったのは、上記の軍艦からの砲撃だけで、陸兵の応援は、まったく来ずじまいだったのです。

しかも、この日の勝利を快く思った長行からは、「この勢いのまま彦島を占領せよ」との追加命令が出されます。

もともと対立していたところへ、この態度ですから、そりゃ、もう、監物は激怒!

「こんなんもん、やってられるか!帰ろ!」
と、さっさと、全軍を引き揚げ、帰国してしまうのです。

一応、全軍撤退の名目は、「兵の交代」でしたが、もちろん、新たな兵がやってくる事はありませんでした。

小倉藩は、肥後藩が守っていた最前線がポッカリと空いてしまった事で、その後方に位置していた幕府軍に前進して守備についてくれるよう要請しますが、「OK!」と返事した幕府軍は、そのまま小倉城へと撤退。

さらに、大藩の肥後藩が去った事を知った他の諸藩も、「ほな、ウチも・・・」次々と現場を離れて、帰国してしまいます。

さぁ、小倉藩は困りました。

この第二次長州征伐・・・このブログでも、毎度毎度書かせていただいているように、この戦いは、幕府と長州の戦いであって、各藩は、単に幕府の声かけによって、シブシブ協力しているに過ぎない立場で、それは小倉藩も同じ・・・

ただ、小倉藩は、長州と国境が接しているぶん、自分とこの領地が戦場となるわけですので、他の藩のように、「大義のない戦いなんで、帰りますわ」てな感じで帰る事はできません。

7月30日の夜、しかたなく、小倉藩・家老の田中孫兵衛は、かの総督・長行へ会いに、幕府の陣営に向かいますが、待てども、待てども、面会が叶いません。

「えぇかげんにさらせ!」
とばかりに、警備を振り切って、長道の部屋に入ると・・・部屋はカラッポ。

すでに長行は、小倉の沖合いに停泊する軍艦・富士山丸の上・・・。

そうです・・・先日、ブログにも書かせていただいた7月20日の、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の死(7月20日参照>>)・・・この日、そのニュースを受け取った長行は、こっそりと、陣営を抜け出して、船に乗り、一目散で大坂へと向かおうとしていたのです。

もはや、なす術ない小倉藩・・・急遽開いた軍儀での決定は、「城に火を放って撤退」・・・それしかありませんでした。

これらの状況を聞きつけた晋作は、無理な攻めはせず、小倉城の見える範囲の位置に留まりながら、様子を確認します。

やがて、8月1日、小倉城は、自らの藩士の放った火で炎上・・・事実上、陥落しました。

その後、亡き家茂に代わって総指揮官となった徳川慶喜(よしのぶ)も、もはや戦う気・ゼロなのですが、もともと、慶応二年(1866年)6月1日に、幕府が、半ば強引に天皇からの勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を取り付けて開始したこの戦い・・・再び、勅許を下していただかねば止める事もできませんから、慶喜は、急遽、朝廷に勅命をあおいで、終戦に持ち込みました。

8月21日、家茂の病死を理由に休戦の勅命が下り、ここに、第二次長州征伐は終結する事になります。

長州という一藩が、国家を相手に勝利するという、本来ならあり得ない結果となったこの戦いは、いかに幕府の力が衰えたのかを諸藩に見せつけ、その権威は地に落ち、この後の幕末の動乱に拍車がかかる事になるのは、もう、ご承知の通りです。

ただ、ご存知のように、この時の晋作は、すでに病も末期の状態・・・燃え盛る小倉城を見ながら、大量の吐血をしてしまった彼は、この後、再び表舞台に登場する事はありませんでした・・・そのお話は、(2年も前のものですが・・・)晋作の生涯について書かせていただいた2007年6月7日のページでどうぞ>>
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