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2009年7月15日 (水)

長州の完全勝利~石州口・浜田城陥落

 

慶応二年(1866年)7月15日、第二次長州征伐における石州口の戦いで、長州軍が大麻山を占領しました。

・・・・・・・

慶応二年(1866年)6月5日、半ば強引に勅許(ちょっきょ・天皇の許可)を取り付けた幕府の宣戦布告によって開始された第二次長州征伐・・・初めてのかたには、まずは、その経緯を・・・

幕府側に言わせれば長州征伐となるこの戦いですが、長州から言えば四境戦争・・・その名の通り、大島口芸州(げいしゅう)石州(せきしゅう)小倉口4方向から攻められる絶体絶命の長州なわけですが、6月16日、小倉口では高杉晋作が、石州口からは大村益次郎が、それぞれ指揮をとり、西へ東へと、同時進行で作戦を展開します(6月16日参照>>)

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・で、その16日と翌・17日の2日間で、津和野を越え、浜田藩領内の益田へと進攻した石州口側の長州軍・・・

その浜田藩は、現在、藩主の松平武聡(たけあきら)が闘病中で、もともと戦う気がほとんどないため、心配した幕府軍本営は、鳥取藩松江藩に援軍を要請し、紀州田辺城主の安藤直祐(なおひろ)先鋒の大将として浜田城へと送り込みました

慶応二年(1866年)7月15日、益田から浜田(島根県浜田市)へと向かう長州軍と、紀州兵がぶつかりますが、幕府の旧式の銃では、到底届かない距離からの長州の攻撃・・・しかも、ここまで何度か書いています通り、その腕前は見事で、遠距離から正確にターゲットを狙ってきます。

この日、長州軍は、浜田藩の最前線である大麻山を、やすやすと占領し、続いて、紀州藩の本陣をも崩しました。

さらに、長州にとってラッキーだったのは、浜田の一般市民の多くが、今回の長州征伐に関して、幕府への不審を抱いていた事・・・大義のない戦いに、なぜ、浜田が巻き込まれるのか?

そんな浜田の人たちは、本陣を崩された紀州兵が城下に逃げ込んできても、まったく助ける事がなかったと言います。

そのため、紀州兵の多くは浜田に留まる事なく、そのまま石見銀山のある天領・大森(島根県大田市)へと逃げ込みました。

そんな戦況を耳にした安藤は、結局、最初から最後まで浜田城を出る事なく「浜田城は放棄したほうがええんちゃう?」と言い残し、さっさと退却してしまいます

しかし、病床とは言え、藩主の松平武聡は、あの徳川斉昭(なりあき)の息子・・・言わば幕府の身内ですから、そう簡単に城を明け渡すわけにも行かず、今度は、「もっと大きい藩の、ちゃんとした人に指揮権を与えてチョーダイ」幕府に要請します。

そこで、白羽の矢が立ったのが、鳥取藩主池田慶徳(よしのり)・・・彼は、武聡と同じく徳川斉昭の息子=つまり、二人は兄弟です。

ところが、この慶徳も、病気を理由に大将を辞退し、しかも7月17日には、鳥取藩兵も撤退させてしまいます。

その後、1人取り残された感の松江藩も、「ウチだけが残るなんて事になったらえらいこっちゃ!」と、慌てて兵を撤退させます。

さらに、翌・18日には、最後まで残っていた浜田藩の兵たちが、本拠・浜田城に火を放って松江へと逃亡し、事実上、浜田は陥落しました。

・・・という結果となりましたが、実は、コレ、すべて演技です。

上記の通り、浜田藩も松江藩も、幕府とは密接な関係のある藩・・・本当は、こんな無益な長州征伐には参加したくないんだけど、親戚として協力せざるを得ない・・・

そこで、すでに16日の段階で、長州とは話をつけておきながら、いかにも「戦ってますよ!」というポーズだけを見せておいて、17日の松江藩の撤退の時に、病気の武聡と、その妻子を船に乗せて逃亡させていたのです。

18日の浜田城の炎上を知って、約束通り、戦う事なくすべての藩が撤退してくれた事を確認する長州軍・・・そこへ、浜田の住民代表がやって来て「どうぞ、浜田城へお入りください」と・・・

これで、浜田は長州のものに・・・

さらに、すでにもぬけの殻となっていた大森にも長州兵が入った事で、長州は石見一国を手に入れる事となりました。

もちろん、ここは、長州征伐が終結した後もそのまま・・・明治維新を迎えるその日まで、長州が統治する地となったのです。

一方、この石州口と同時進行で行われた小倉口・・・6月16日の夜には、高杉晋作坂本龍馬の、生涯ただ一度の夢のコラボが実現するゲリラ作戦を展開(6月17日参照>>)、さらに、7月27日には、3度目の小倉上陸作戦を決行(7月27日参照>>)するのですが、その頃には、幕府にも大きな動きが・・・

・・・って事で、そのお話は、またまた、それぞれの「その日」でご覧くださいませ。
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コメント

長州好きにはたまらない内容です(笑)
長州vs幕府といっても幕府側は一枚岩では無かったんですね。
勝ち目のない戦に参加したくない気持ちも解りますが…。
それだけ徳川の威光も地に落ちていたって事でしょうか。

8月18日も密かに期待しております♪

投稿: 花曜 | 2009年7月15日 (水) 18時59分

花曜さん、こんばんは~

当時の日本は、独立国家の集合体みたいな感じでしたから、幕府の方針に納得いかない藩も数多くあったようですね。

8月18日・・・
まだ、1ヶ月以上先なので、何を書くのかは決めていませんが、頑張りますです。

投稿: 茶々 | 2009年7月15日 (水) 21時21分

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