「米百俵」の精神~焦土の長岡に小林虎三郎が立つ
明治十年(1877年)8月24日、幕末の北越戊辰戦争で焦土と化した長岡の復興に尽力した儒学者・小林虎三郎が、50歳でこの世を去りました。
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このブログでも何度か書かせていただいている北越戊辰戦争・・・
*くわしくはコチラ↓を・・・
●戊辰戦争~新政府軍・北へ
●北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意
●ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落
●河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略
●北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦
●河井継之助・無念~長岡二番崩れ
一連の戊辰戦争の中で最も激戦となった、この北越地方・・・慶応四年(明治元年)7月29日に長岡城が陥落した時、藩主・牧野忠訓(ただくに)をはじめ、多くの藩士やその家族は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結んでいた会津へと逃れますが、その中心人物であった家老の河井継之助(つぎのすけ)が、長岡城攻防戦で受けた傷がもとでまもなく死亡すると、あれだけの激戦をくぐり抜けた藩兵たちの士気も一気にさがります。
さらに、三春藩(みはるはん・福島県)や盛岡藩など、周囲の藩が次々と降伏していく状況を目の当たりにして、忠訓は、これ以上の抵抗は意味のない事であると判断し、9月25日、新政府に降伏の文書を提出しました。
結果・・・藩主・忠訓こそ、東京にて謹慎の処分となりますが、先代藩主の牧野忠恭(ただゆき)と家臣たちは長岡に戻る事が許され、石高も大幅カットの2万4千石とは言え、お家そのものは取り潰される事なく、無事、再興できる事になりました。
しかし、長岡城陥落以来・・・2ヶ月ぶりに長岡に戻った彼らが目にしたのは、戦火によって85%が失われた故郷の姿でした。
そんな長岡の町を、亡き継之助に代わって立ち直らせたのが、儒学者・小林虎三郎でした。
文政十一年(1828年)、長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれた彼は、幼い頃に天然痘にかかり、左目を失明するというハンディを背負いながらも、地元の学校ではトップクラスの成績をおさめた秀才でした、
23歳で江戸に出てきて、佐久間象山(しょうざん)の門下として学んだ時は、あの吉田松陰(しょういん・寅次郎)とともに、「象門の二虎」と、門下生の中でも飛びぬけた二人が、並び称されるほどの存在でありました。
長岡に戻った虎三郎は、早い段階から「横浜開港説」を藩主に訴えて謹慎させられた事もありましたが、『興学私議』なる著書を通じて、教育によって優秀な人材を育てる大切さを訴える姿を見て、彼の開いた塾に入学する者も少なくありませんでした。
かの継之助とは幼なじみではあるものの、政治の方向性による違いから疎遠になった時期もあり、虎三郎が火事に見舞われた時に、支援してくれた継之助に対して「感謝のしるしにイイコトを教えてやる」と言って、継之助の藩政を痛烈に批判した事もあったのだとか・・・
しかし、継之助は、それでも「お互いの意見は違っても優秀な人物」と、虎三郎を高く評価していたと言います。
やがて、冒頭の北越戊辰戦争の果て・・・廃墟と化した故郷で、虎三郎が手腕を発揮する時がやってきます。
亡き継之助と共通の友人であった三島億二郎の依頼で、新政府への嘆願書を起草した事から藩政に関わるようになった彼は、明治二年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)によって、藩が朝廷の配下に組み込まれる事になり、その組織が大きく変わる中、かの億二郎とともに、大参事という役職に抜擢されます。
新体制では、藩主は世襲制ではなく、中央政府から任命される知藩事となり、その下に大参事・権参事・少参事・権少参事などの役職が設けられ、彼ら二人の他に、元家老の牧野頼母(たのも)も、大参事に抜擢されていました。
・・・で、先に書いた通り、以前から教育の大切さを訴えていた虎三郎は、「一日学問をサボれば、それだけ他藩から遅れをとる!」とばかりに、まずは、城下の昌福寺(しょうふくじ)に仮の学校を開設します。
それまでの藩の正式学門であった漢学に加えて、国学も学ぶ事から「国漢学校(こっかんがっこう)」と呼ばれたこの学校は、翌年、さらに大きな元家老屋敷跡へと移転され、新たに学堂や演武場も併設され、身分の分けへだてなく教育が受けられる場所となっていきます。
ちょうど、その移転が実施されていた頃です。
近隣藩が集まって行われた大参事会議に出席していた億二郎の尽力で、牧野家の分家筋に当たる三根山藩(みねやまはん・新潟県西蒲区)から、敗戦後の困窮にあえぐ長岡藩へ支援として、「米百俵」が送られて来たのです。
そう、某総理大臣の所信表明演説の中で引用され、超有名となった「米百俵の精神」・・・アレです。
もちろん、ここで、飢えをしのぐために、この米を皆に分配しようという多数の意見に反対して、その米百俵を金に換え、教育資金に回そうという意見を貫いたのが、虎三郎と億二郎だったわけです。
「今、この米を食べて飢えをしのいでも、わずか数日後には、また飢える・・・教育によって優秀な人材を育成すれば、その何倍もの富をもたらす!」と・・・。
こうして約270両に換金された米百俵は、教科書や学習器材の購入にと、有意義に使われたのです。
・・・と、ここで、ドラマやお芝居なら、やがては、すばらしい人材を輩出する、夢多き長岡藩の未来像へと舞台は飛んで、ハッピーエンドとなるのでしょうが、実際には、そう、うまくは行きません。
なんせ、人材が育つには時間がかかる・・・で、結局、わずか1年後に長岡藩は潰れます。
米百俵の名場面の後も、当然の事ながら藩の困窮は続くわけで、先代の忠訓から藩主を受け継いだ牧野忠穀(ただかつ)自らが、率先して酒屋を営み、藩士総出で、工業や製造業に従事するのですが、それでも、藩の財政が立ち直る事はなく、明治三年(1870年)10月、忠穀が知藩事を辞職し、藩の廃業を願い出たのです。
まぁ、その翌年の7月に廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)が実施されて、結局、全国すべての藩は廃止されるわけですが、長岡藩は、その一年前に、自らの意思で廃したという事になります。
・・・とは、言え、虎三郎の理念は、そこで学ぶ多くの若者たちに引き継がれた事は確か・・・
その性質ゆえ、少しの時間を要しますが、その芽は、確実に花開く事となるのです。
駐米大使としてバネー号事件で日本を救った斉藤博。
政治学者で東京帝国大学総長となった小野塚喜平次。
解剖学者で東京大学に銅像がある小金井良精(よしきよ)。
このブログにも書かせていただいた渡辺豹吉(ひょうきち)さんの弟・廉吉(れんきち)さんもそうですね(9月8日参照>>)。
もちろん、同じそのページに余談で登場した連合艦隊司令長官・山本五十六(いそろく)も・・・
薩摩や長州といった勝者ではない、敗者・長岡から、多くの優秀な人材が輩出されるのは、「人材」という、何ものにも替えがたい未来への遺産を最優先した虎三郎の武士の心意気と言ったところでしょうか。
当の虎三郎は、明治四年(1871年)に、自らの事を「病翁」と呼ぶくらい持病に苦しんでいたようで、明治十年(1877年)8月24日、湯治先の伊香保温泉で50歳の生涯を閉じました。
・・・いつか、長岡出身の若者が、全国で活躍する来たるべき未来を夢見て・・・
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コメント
この話は、長岡や新潟市に、昔、出張に行った時、知りました。とても良い話だなぁ~と思います。結果はすぐには出なかったけど、そういう事があったと語り継がれるだけ良かったのだと思いますね~。富山は~米蔵壊して~盗んでいった~ ってなもんです(笑)
投稿: 山は緑 | 2009年8月24日 (月) 20時22分
山は緑さん、こんばんは~
富山=米騒動の女一揆ですもんねww
投稿: 茶々 | 2009年8月24日 (月) 21時57分
こんにちわ~
この話は大変素晴らしいと思います。今だって、食糧不足な国には(食糧そのものの援助も大事ですが)食糧の作り方などを教えて、飢えに強い仕組み作りをお手伝いするほうがより効果的だと思います。やはり将来のため自ら学ぶことが大事だと思います。
ところが、この話を引き合いに改革を行なったかの小泉さんは、逆に教育関連のお金を削っています。
辛いけど我慢しようとは言ってましたが、結局なんのために我慢するかの提示がなかったし、実際我慢させられただけに終わっています。
引き合いに出された虎三郎さんも、あの世で苦笑いされているかもしれませんね(笑
投稿: おみ | 2009年8月25日 (火) 10時56分
おみさん、こんにちは~
そうなんですよね~
この話の良いところは、お米をガマンしてより有意義な部分にそのお金を使うところにあるんですが、小泉さんは、何か有意義なものにお使いになったんでしょうか?
ただ我慢するだけの例えにこのお話を引用されるのは、何だかズルイ気がしてなりませんね。
投稿: 茶々 | 2009年8月25日 (火) 11時57分