浅井長政、最後の手紙
天正元年(1573年)8月29日、小谷城・落城を目前にした浅井長政が、片桐直貞宛に、最後の感状をしたためました。
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再三の上洛要請に応じない越前(福井県)の朝倉義景と、その義景に協力する姿勢の近江(滋賀県)の浅井長政を相手に、織田信長が戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)・・・。
あれから三年たった天正元年(1573年)・・・
7月に室町幕府最後の将軍・足利義昭を京都から追放(7月18日参照>>)して、事実上天下を掌握した信長は、翌・8月、姉川の合戦以降、未だに反目し続ける浅井氏を滅ぼすべく、長政の居城・小谷城(滋賀県湖北町)を囲みます。(7月22日参照>>)
窮地に立った小谷城を救援すべくやってきた義景を追撃し、先に朝倉氏を滅ぼした信(8月20日参照>>)信長は、すぐさまUターンし、8月26日には、小谷城攻撃の基地となる虎御前山砦に舞い戻ります。
信長の帰還に朝倉の滅亡を悟る長政・・・小谷城内も、さすがにあわただしくなってきます。
翌・27日、信長が、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉に、総攻撃・開始の命令を下す中、小谷城を守る国人衆の間では、
「総攻撃を受ける前に、速やかに開城して、信長の指示に従おう」
「いや、徹底抗戦して、城を枕に討死しよう」
と、喧々囂々の議論が飛び交います。
そんな議論の結果を待たず、家臣の1人・浅井井規(ゆきのり)が織田方に投降・・・彼が、道案内をした事で、怒涛のごとく押し寄せた秀吉軍は、またたく間に京極丸を占領し、続く小丸へと攻撃を仕掛けます。
この日、小丸を守っていた長政の父・浅井久政が、追い詰められて自刃・・・翌・28日、本丸にいた長政も、妻・お市の方(信長の妹?)に子供たちを託して、自ら命を断ちます。
・・・と、小谷城の落城と、長政の自刃による浅井氏の滅亡は、すでに、一昨年の8月28日に、このブログに書かせていただいている(2007年8月28日参照>>)のですが、そのページでも、父・久政の死が27日、長政の死が翌・28日とさせていただいております。
それは、信長に関する第1の史料とされる『信長公記』に上記の日づけで記載されており、『国史大辞典』でも28日とされ、この日づけが歴史の通説となっていますので、通常、浅井氏・滅亡は28日という事になっています。
しかし、ここに、落城を悟った長政が、家臣の片桐直貞に宛てた一通の感状が残っていて、それが、長政の最後の書状であるとされています。
その日づけは、「元亀四 八月廿九日」・・・
(注:元亀四年は、7月に信長によって天正元年に改元されますが、長政は天正の元号を使っていません)
当然の事ながら、死んだ後に書状を書く事はありえませんので、長政の自刃は、この書状を書いた直後の8月29日か、翌日の9月1日という事になります。
(注:もともと旧暦に8月31日はないうえ、この年の8月は小の月で30日もありませんでしたので、29日の翌日は9月1日となります)
これによって、ひょっとしたら、小谷城の落城は9月1日だったかも知れないとも言われますが、その決定は、歴史の専門家のかたにおまかせするとして、本題は、この書状の内容・・・
「今回は、思いもよらん事で、この小谷城も、もはや、無事なんは、この本丸だけになってしもた・・・
何かと、不自由な籠城の中、君は、忠義を尽くしてくれて、ホンマ、感謝してるで!
しかも、他のヤツが次々と城を抜け出して敵に投降して、城内はメチャメチャ混乱状態やのに、それでも、頑張ってくれて・・・僕の気持ちは、言葉にできひんし、ここには書ききられへんほどや」
・・・てな感じの内容なのですが、長政が、この手紙を渡した片桐直貞という人は、後に、秀吉VS柴田勝家の賤ヶ岳の合戦で「賤ヶ岳の七本槍」(4月21日参照>>)の1人として名を馳せ、大坂の陣の時には、豊臣と徳川の交渉役ともなった片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)のお父さんです。
上記の書状は、単に、直貞に感謝の意を伝える手紙・・・というよりは、彼が、次に仕える事になる新たな主君への推薦状の意味合いが込められているのです。
つまり、前の主君=長政が、これほど感謝するようなすばらしい家臣である事の証明書・・・
言い換えれば・・・
「僕は、ここで死ぬけど、君は、新たな場所で、また、頑張ってね」
と、家臣との主従関係を断ち切る、別れの手紙でもあったわけです。
死を目前にしてもなお、家臣を統率し、家臣の事を思いながら、毅然とした態度を貫く長政の姿が目に浮かぶようです。
別れの言葉が、一語も書かれていない別れの手紙・・・心、うたれます。
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コメント
この親父さえ大人しくしていれば・・・といつも思うんですよね。
信長の信望厚く、十分に若かった。何より天下人の義弟ともなればゆくゆくは天下の政治に参与し、諸大名に彼自身の影響力を及ぼすことも可能だったでしょう。
代々朝倉の盾たるが存在理由、と幼少より刷り込まれて老いた久政には、それ以上の思考も発想も不可能だったんですかね?
ならば息子夫婦と家臣を巻き込まず「われ一人のみにても祖の盟を守り奉る!」と単騎で一乗谷に亡命すれば、それはそれでカッコよかったのに。
それほどに信頼できる朝倉殿なら、むげに粗略には・・・扱われなけりゃ将軍にも光秀も出て行かれる道理はないか。
投稿: 黒燕 | 2009年8月29日 (土) 22時22分
黒燕さん、こんばんは~
関ヶ原の時の真田や前田のように、親子で別れるという風にはいかなかったんでしょうか・・・
長政さんの評判がいいだけに惜しいですね。
投稿: 茶々 | 2009年8月29日 (土) 22時32分
来年の序盤(1月にも?)で小谷落城に触れますね。お市の方と三姉妹が、城から救出される場面が出てきますね。浅井長政はできれば30代前半の俳優にしてほしいです。中年の俳優が演じる事が多いので、享年にあわせた配役をm(_ _)m(願)。
大河ドラマでたまに主人公などの子役を立てない事(最初から子供時代にふれない事もあります)がありますが、これは途中で子供から大人へ役が変わると、場合によっては「(通しで出る)俳優との連帯感が持てないのと、交代するタイミングが難しい」らしいです。主人公の親が出る場合はあまりこういう事がありませんが。
投稿: えびすこ | 2010年6月 4日 (金) 11時03分
えびすこさん、こんばんは~
やるとしたら、おそらく、お江さんは子役だと思うので、それだと若い俳優さんの可能性も高いですね。
でも、お市の方とのかね合いもあるので、お市の方の女優さんに合わせた年齢になるのかも・・・
投稿: 茶々 | 2010年6月 4日 (金) 21時20分
スポーツ紙によるとお市の方は、おそらく鈴木保奈美さんです。正式発表で変わる可能性もありますが。そうなると40代初めの人にも可能性がある。
でも今回は主要配役の1次発表会見が遅いと思いませんか?天正~慶長期はよく出る時代だから選考に慎重なのか?
付き合いの長い朝倉家と義兄の織田信長との板ばさみで、「袋のねずみの暗示」の直前まで悩んだんでしょうね。浅井が弱い一因に近江一国を、完全には手中にしていなかったからでしょうね。一般に武田信玄や上杉謙信のような「国主」(「城主」より格上)には認知されていないですね。
投稿: えびすこ | 2010年6月 5日 (土) 09時25分
えびすこさん、こんばんは~
今年の龍馬のように彗星のごとく現れ去っていく人と違って、お江さんは、長いスタンスで歴史に登場する人なので、なかなか配役が難しいのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年6月 5日 (土) 18時46分