織田信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落
永禄十年(1567年)8月15日、かねてより再三に渡って織田信長の侵攻を受けていた斉藤氏の居城・稲葉山城が陥落しました。
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弘治二年(1556年)4月20日、主君を倒して国を盗り、美濃(岐阜県)のマムシの異名をとった斉藤道三が、息子・義龍のクーデター(10月22日参照>>)により長良川に散りました。
ウソかマコトか、その道三から「娘婿に国を譲る」という約束(4月19日参照>>)をとりつけていた織田信長(正室・濃姫が道三の娘)は、「舅の弔い合戦」を大義名分に、その後、再三に渡って美濃へ侵攻しますが、天下の名城とうたわれた居城・稲葉山城はさすがに堅固であり、また、義龍がなかなかの名君であった事から、度々の苦戦を強いられます。
そんな中の永禄四年(1561年)、義龍が35歳とい若さで急死し、息子の龍興(たつおき)が14歳で家督を継ぐと、信長はチャンスとばかりに、すかさず美濃侵攻を開始・・・翌日の5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)、続く23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と立て続けに勝利します。
なんとなく、酒や色に溺れた愚将と称される龍興ですが、それは、あくまで信長側から見た後世の見解で、個人的には、それほどダメな武将とは思えないのですが、とにかく、祖父・道三と父・義龍が、あまりにすばらしかったため、「そこまでの器ではない」と言ったところでしょうか・・・やがて、家臣との亀裂が生まれ、それを諌めようとした竹中半兵衛の「稲葉山城乗っ取り事件」(2月6日参照>>)なんかもありつつも・・・
その間に尾張(愛知県西部)を統一し、ラッキーがらみの桶狭間(5月19日参照>>)で今川義元を倒した彼は、今こそチャンスとばかりに、本格的に稲葉山城の攻略へと的を絞り、その拠点とすべく小牧山に城を建設・・・
さらに永禄八年(1565年)にも、堂洞合戦(8月28日参照>>)、関城攻略(9月1日参照>>)で美濃に侵攻しつつ、かねてより、小回りのきく木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)によって、水面下で行われていた美濃の国人衆への調略が功を奏し、永禄十年(1567年)、斉藤氏以前の土岐氏の代からの美濃の重臣であった美濃三人衆=稲葉一鉄(いなばいってつ)・氏家卜全(うじいえぼくぜん)・安藤守就(もりなり)の勧誘に成功・・・その呼びかけに応じた彼らは、8月1日、稲葉山下の井ノ口城下に火を放ち、稲葉山攻略ののろしを挙げました(8月1日参照>>)。
美濃国人衆を含めた織田軍の総勢は約1万5千・・・一方の斉藤軍の詳細な数は不明ながらも、堅城の防御力を活かし、なかなかの抵抗を試みますが、あらかじめ兵を分散して配置していた事が、かえって致命的となってしまいます。
信長は、四方に鹿垣(ししがき・柵)を築いて金華山を囲み、城と外部の連絡を遮断する「取り籠め」作戦を決行しながら、徐々に攻め立てます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
正面の上り口にあたる大手・七曲がり口からは、美濃国人衆を含む旧斉藤家・家臣たちが、信長本隊とともに進み、城の守りの要所であった瑞龍寺口からは柴田勝家が佐久間信盛とともに攻め上ります。
かくして永禄十年(1567年)8月15日、信長の総攻撃に半月間耐えた堅固な城も、とうとう陥落する事となります。
この時、搦(から)め手に位置する険しい山道を、少数の精鋭のみで登り、ゲリラ的作戦で敵を翻弄させ、目を見はる武功を挙げたと言われているのが、かの木下藤吉郎・・・ただし、この藤吉郎の動きに関しては、前年の墨俣の一夜城(9月14日参照>>)の一件も含めて、創作の可能性が高いとの事ですが、果たして搦め手から劇的に突入したかどうかはともかく、この一連の稲葉山城の攻略において、彼が相当な働きをした事は確かなようで、この戦いが、木下藤吉郎・大出世の飛躍の合戦になった事だけは事実と言えるでしょう。
道三の死から11年・・・悲願の稲葉山城を攻略し、龍興を追放した信長は、井ノ口と呼ばれていたこの地を岐阜と改めます。
その名前の由来は、信長の側近だった僧・沢彦(たくげん)が発案した、古代中国の周王朝の文王が殷王朝を倒した時に挙兵した地名「岐山(ぎざん)」の「岐」と、孔子が誕生した地の「曲阜(きょくふ)」の「阜」を取ったものと言われています。
城の名も、稲葉山城から岐阜城に改められ、その城郭は、名城の稲葉山城を土台にしながらも、さらに難攻不落で、しかも、山頂とふもとの2ヶ所に天主(安土城と同じく天守ではなく天主です)がある壮麗な造りに建てなおされました。
現在、千畳敷と呼ばれる石組みのある場所がふもとの天主のあった場所で、それは信長の居館として使用され、広い庭園や豪華な障壁画で飾られていたのだとか・・・
この岐阜城にて天下取りの道へと歩む事になる信長と、興福寺を脱出した将軍家の後継・足利義昭(7月28日参照>>)が出会うのは、この翌年・永禄十一年(1568年)の事となります(10月4日の後半部分参照>>)。
一方の龍興は、一旦、伊勢に逃れて長島の一向一揆(5月16日参照>>)と同調した後、近江(滋賀県)の浅井長政から越前(福井県)の朝倉義景の元に身を寄せていた天正元年(1573年)、信長の越前征伐で最も激戦となった刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦い(8月14日参照>>)にて、壮絶な戦死を遂げています。
思えば、信長が稲葉山城攻略に費やした11年間というものは、半士半農の国人&土豪の集団を束ねるそれまでの戦国大名と同じだった尾張の田舎侍が、全国ネットに躍り出て、自らの家臣をプロの戦闘集団に育て上げるために費やした時間だったと言えるかも知れませんね。
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コメント
こんにちは。
昨日岐阜城に登城して来ました。
前回、5年ほど前ですが、軽く考えて「瞑想の小径」(搦め手の道だったらしいです)を5㌢のヒールはいて家族連れで上りΣ(゚д゚;)、とんでもない目に遭いましたので、行きはロープウェーに乗りました。
お城のある山は一個の大きな岩の塊だそうで、井戸を掘っても水は出ず、雨水を溜めていたそうです。
くだりは「七曲」を下りましたが、道は広いけれどなかなか大変でした(年をとったせいかも知れませんが(^-^;)
もう一本、「馬の背」と呼ばれる道があるようですが、こちらは立派な登山道で、「老人・子どもは立ち入らないで」と注意書きがありました。
たぶん、書いてらっしゃる元の千畳敷の辺りだと思われますが、居館の復元を建てているようで、工事中でした。屋根の銅板が夏の日差しに眩しかったです。
投稿: おきよ | 2009年8月15日 (土) 16時00分
おきよさん、こんばんは~
おぉ、以前は秀吉の搦め手に挑戦されたのですね~(。・w・。 )
現在のの地図を見ると、その搦め手の近くにロープウェイがあるようですね・・・是非とも、今度行ってみたいです!
その時は、きっと復元されているであろう信長の居館もいっしょに・・・ワクワク
投稿: 茶々 | 2009年8月15日 (土) 18時01分
岐阜城へ行ったのは30年前。どんなコースだったかもう定かではありませんが、子供の足でも楽に登れた道だった記憶があります。
むしろ麓の『名和昆虫博物館』の方が印象に残っているくらいで、美麗な蝶を中心に国内外で収集された貴重な昆虫標本が夥しく陳列されていました。
旧体制を打破して、今までにない形の統一国家を目指す。その信長の原点が岐阜ですね。もし彼が倒れず意図した通りの国家(羅門裕人の仮想戦記みたいな?)が成立していたら、今なお特別な意味を持つ都市として扱われていたかもしれません。
権力者自身によってこのような形で命名された都市、というのはそれ以前の日本にはなかったのではないでしょうか?
投稿: 黒燕 | 2009年8月15日 (土) 22時25分
黒燕さん、こんばんは~
岐阜という地は、信長の革新性の象徴とも言うべき場所だったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年8月15日 (土) 23時51分
お待ちしておりました(*^_^*)
イラスト付きで解りやすいです♪
先月岐阜城へ行きましたが、やはり最短距離とはいえ、馬の背あたりから攻めるのは難しいのでしょうね。
普通に攻めるのも大変そうですが。
難攻不落の山城でも敵に囲まれると逃げ場がないので、どれだけ持つのかと思っていましたが半月でしたか~。
勉強になりましたm(__)m
投稿: 花曜 | 2009年8月16日 (日) 14時32分
花曜さん、こんにちは~
>イラスト付きで解りやすいです♪
ありがとうございます。
頑張って図を描いた甲斐があります~
見るからに攻めるに大変そうな稲葉山ですが、やはり、外と遮断されれば、長期の籠城は難しいでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年8月16日 (日) 16時07分