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2009年8月17日 (月)

幕末・日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲

 

慶応三年(1867年)8月17日、幕臣の栗本鋤雲がパリに到着しました。

・・・・・・・・・・

以前、慶応三年(1867年)にパリで開催された万国博覧会に日本が初めて参加した時に、そのご挨拶として、15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟・徳川昭武(あきたけ)将軍の名代としてパリを訪問した事を書かせていただきましたが(3月7日参照>>)、そのパリ万博でちょっとした問題が起こっていました。

もちろん、日本として漆器や刀など、日本らしい様々な品を出品した幕府でしたが、同時に、薩摩藩が「薩摩琉球国」として、独自に出品していたのです。

これでは、今の日本が一枚岩でない事がバレバレ・・・幕府としての面目まるつぶれです。

しかも、ここに来て、幕府とフランスの関係も微妙になってきつつありました。

それこそ、薩摩藩が独自に万博に出品するくらい、幕府の力が衰えつつある時、何とか、もちこたえていられるのは、フランスとの提唱があればこそ・・・の部分もあり、その関係が崩れてもらっては困るのです。

Kurimotozyoun600a そこへ、薩摩問題&フランスとの交渉のために派遣されたのが、外国奉行として活躍していた栗本鋤雲(くりもとじょうん)でした。

鋤雲は、文政五年(1822年)、幕府の典医だった喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男坊として江戸に生まれました。

兄である喜多村直寛(なおひろ)も、幕府医学館の重鎮で、多くの医学書を残した人なので、根っからの学者・医者一家の中、彼もまた、その優秀なDNAを受け継いで、天才・秀才の集まりである幕府の学問所でもトップクラスの成績でした。

ただ、好奇心や向学心があまりにも旺盛で、少し、破天荒なところがあり、学校を退学処分になってしまうような規格外の行動があったという事で、マジメ一方の秀才ではなく、なんとも魅力的な人です。

やがて、26歳の時に、幕府の奥医師であった栗本氏の養子となって栗本姓を継ぎ、彼自身も幕府のお抱え医師となります。

上記の通り、頭も良く、医師としても優秀だった彼は、即、奥詰医師に昇格し、何度も幕府からその腕前を賞賛される名医となりますが、その破天荒な性格は未だ健在・・・

35歳の時に、長崎海軍伝習所で練習船として使用されていたオランダ製軍艦・観光丸への試乗を願い出て、心踊らせながら、初めて外国船の中を見物させてもらいます。

ところが、これが幕府の逆鱗に触れるのです。

どうやら、当時の幕府の奥医師は、西洋医学を学ぶ事を禁じられていて、つまりは、彼が西洋文化に触れた事がお気に召さなかったようで・・・。

・・・で、いきなり免職され、蝦夷地への移住を命じられ、一家ともども函館に引っ越す事になってしまいます。

思いっきり左遷です。

しかし、これが、逆に鋤雲にラッキーをもたらします。

函館にて、布教活動をしていたフランス人宣教師・メルメ・カションと知り合い、お互いにフランス語と日本語を教えあう仲となり、フランス語を習得します。

さらに、樺太(からふと)国後(くなしり)択捉(えとろふ)の巡検を命じられた事も、自身の学識を高めてくれました。

あちらこちらを自由に探索し、のびのびと研究するうち、蝦夷地には、本州にはない薬草などが豊富にある事を知り、それを幕府に献上したりなんかして優秀さをアピールし、函館医学所をも創設して、意外にも、この地で大活躍したのです。

結局、そんな功績が認められて、文久三年(1863年)、再び江戸へと呼び戻されます。

舞い戻った江戸で、自らが学んだ学問所の頭取を命じられる鋤雲でしたが、そうこうしているうちに、今度は、横浜のフランス公使館で、あのカションと再開するのです。

そう、カションは、鋤雲から習った日本語力を活かし、フランス公使・ロッシュの通訳をやっていたのでした。

すでに、幕閣の小栗忠順(おぐりただまさ)からの信頼も篤かった鋤雲とカションの、この運命的な再会により、幕府はフランスと急接近・・・その提携によって幕府改革を進める事になるのです。

横須賀の造船所建設、フランス式の陸軍を目標にした陸軍への移行・・・などなど。

その後、外国奉行となって、外国との交渉の役目を荷う彼は、あの下関砲撃事件(5月10日参照>>)の交渉役もこなしました。

そんなこんなの慶応三年(1867年)・・・冒頭のパリ万博の問題です。

男、鋤雲・46歳、慶応三年(1867年)8月17日、パリに到着した彼は、その交渉を見事成功させ、フランスとの関係を修復させました。

ところが・・・です。

ご存知のように、彼がフランスに行っている間に、大政奉還(10月14日参照>>)王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・この一連のニュースを聞き、慌てて帰国する鋤雲でしたが、彼が、日本に到着したのは、翌・慶応四年(1868年)の4月・・・

すでに、ともに幕府改革を行った小栗は、新政府の手によって処刑され(4月6日参照>>)、友人の多くは亡くなるか、新政府に移ったか・・・変わり行く日本の地に、もう彼の居場所はなかったのです。

もちろん、優秀な鋤雲の事は、誰もが知るところですから、新政府からのお誘いは当然あったわけですが、彼は、そのすべてを断ります。

自らを育て上げてくれた幕府への義を貫きたい彼は、「忠臣は二君に仕えず」の言葉を残して隠居の道を選び、歴史の表舞台から去る事になります。

・・・が、しかし、鋤雲の旺盛な好奇心&破天荒な性格は、ここにきても、まだ健在だったのです。

その右手の刀をペンに持ちかえて・・・明治の世を生きる鋤雲は、報知新聞の記者となり、反政府の立場を貫くジャーナリストとして、再び表舞台に登場する事となります。

まさに、「忠臣は二君に仕えず」・・・彼は、優秀な医者であると同時に、義に篤い根っからのサムライだったのかも知れませんね。
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コメント

はじめて聞く名前です。なかなか気骨のある魅力的な人ですね。へこたれないポジティブ思考の人だったのかしら。今日も力いっぱいクリックします!(毎日してますが)

投稿: Hiromin | 2009年8月17日 (月) 21時53分

Hirominさん、こんばんは~

いつもありがとうございますo(_ _)o

鋤雲さん・・・少々マイナーな方ですが、とても魅力を感じますよね~。

投稿: 茶々 | 2009年8月17日 (月) 22時40分

反明治政府の論客となったこの人ですが、後に静岡に隠棲する元将軍・慶喜に接触を試みたようですね。
明治政府に批判的なインタビュー記事でも書くつもりだったのかもしれませんが、政治利用を極度に恐れていた慶喜さんが玄関払いしたので、果たせなかったとか。

投稿: 黒燕 | 2009年8月18日 (火) 07時40分

黒燕さん、こんにちは~

慶喜さんは、多くを語りませんでしたからね~

今でこそ、江戸を戦火から救った功績を少しは評価されるようになりまたが、以前は、散々でしたから、何も話したくない気持ちもわかります。

投稿: 茶々 | 2009年8月18日 (火) 10時20分

毎日毎日、お疲れ様です。大変でしょうが、毎日毎日、楽しく拝見さしていただいています。今後も頑張ってください!

投稿: DAI | 2009年8月18日 (火) 11時41分

DAさん、こんにちは~

うれしいメッセージありがとうございますo(_ _)o
今日も元気になれました!

投稿: 茶々 | 2009年8月18日 (火) 13時31分

茶々さまこんにちは

大河ドラマ「八重の桜」が会津戦争に突入して、
ハラハラドキドキの展開ですが、
あれこれと史実がストーリーに盛り込まれてるとのこと、twitterでも賑わっています(*^_^*)

悲惨な戦争の中で、これだけの史実が伝えられているあたり、
ほんとに、幕末が"ついこの間"だったことを実感します。

鋤雲さん…知りませんでしたが、
茶々さまのお話や皆さんのコメントを読んで、リアルに存在を感じました。
やっぱり、幕末~明治って、「この間」ですね・・・(^^ゞ

投稿: hana-mie | 2013年7月17日 (水) 12時46分

hana-mieさん、こんにちは~

こないだの回(「自慢の娘」だったかな?)は、本当に良かったですね。
やっとこさ、八重さん主役の回でした。

>あれこれと史実がストーリーに盛り込まれてる…

そう言えば、敵からの砲弾の火を消して不発弾にする方法を皆に教えたり、その不発弾を分解して、主君の容保に説明したり…

それらの、史実とされる事がうまく盛り込まれてました~

投稿: 茶々 | 2013年7月17日 (水) 14時01分

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