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2009年8月21日 (金)

毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防

 

永禄四年(1561年)8月21日、毛利元就が、大友宗麟の攻撃を受けていた門司城の救援に、息子・小早川隆景を派遣しました。

・・・・・・・・・

戦国三大奇襲戦の一つと言われる厳島に戦い陶晴賢(すえはるかた)を倒し(10月1日参照>>)た後、若き当主・大内義長を自刃に追い込んで、中国地方の名門・大内氏を滅亡(4月2日参照>>)させた安芸(広島県)の戦国大名・毛利元就(もとなり)

その大内氏と覇権を争っていた、やはり名門の尼子氏も、ここのところの度々の交戦で弱体化が見え始めていました(12月24日参照>>)

そんな中の、九州の玄関口・門司に建つ門司城・・・室町時代からこの城を支配していた大内氏が滅亡した事で、その後は豊後(大分県)大友宗麟(そうりん・義鎮)にゆだねられるはずであったこの城を、永禄元年(1558年)6月に元就の三男・小早川隆景(たかかげ)が奪取し、毛利はここを拠点に北九州への勢力拡大を謀ろうと考えます。

一方、その翌年の永禄二年(1559年)に、それまでの豊後・肥前(佐賀県)肥後(熊本県)に加え、新たに豊前・筑後・筑前((福岡県南部)の守護となり、室町幕府13代将軍・足利義輝から九州探題を任される事となった宗麟にとって、この毛利の体制を許しておくわけにはいきません。

もとより、日明(にちみん)貿易南蛮貿易でガッポガッポ儲けている大友氏にとって、門司と関門海峡の制海権は生命線とも言える物です。

かくして永禄四年(1561年)春、宗麟は、配下の名将の立花道雪戸次鑑連)に1万5千の大軍をつけ、門司半島を攻撃させますが、門司城は標高175mの山頂にあるなかなかの要害・・・しかも、守備を任された城将・仁保隆康(にほたかやす)以下、守備兵が踏ん張り、容易に落す事ができませんでした。

この状況にイラだった宗麟・・・前代未聞の作戦に出ます。

先ほども書いたように、海外との貿易に長けた宗麟・・・しかも、ご存知のようにキリスト教がらみで、外国にはかなり顔が効きます(11月11日参照>>)

Nanbansencc ・・・で、その人脈を利用して、なんと、博多に停泊中だったポルトガル船の出動を要請・・・

8月1日、関門海峡に現れた南蛮船は、海上から門司城に向かって砲撃を開始したのです。

日本の軍事史上、初の艦砲射撃だったとされるこの攻撃・・・インドゴアからやってきたこの最新兵器には、さすがのも隆康も驚愕し、城兵たちもビビりまくります。

今度、これに慌てたのは元就です。

「このままでは、門司城があぶない!」とばかりに、永禄四年(1561年)8月21日、かつて、この門司城を落した立役者=息子の隆景を救援に向かわせるのです。

Mozizyoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

隆景の到着後、ほどなく瀬戸内最強の毛利水軍が大量に押し寄せ、何とか関門海峡の制海権を握る毛利水軍・・・。

やがて、門司城に入った隆景を待っていたのは、内応工作・発覚のニュース・・・宗麟の仕掛けた内応工作に答えて、門司城内には、すでに内通者がいたのです。

事前に発覚した事で、この内通者を処分し、大事には至りませんでしたが、隆景は、逆に、この一件を利用する事を思いつきます。

周囲にいる大友勢に向かって烽火(のろし)をあげて、あたかも内通が成功したかのように見せかけたのです。

烽火の合図を信じて一気に門司城へと迫る大友軍・・・寸前のところまでひきつけておいて、いきなり、怒涛のごとく城外へ撃って出ると同時に、それまで海上に展開していた水軍の兵が、これまた怒涛のごとく上陸し、城に近づいた大友軍を挟み撃ちにします。

10月10日、明神尾の激戦と呼ばれるこの衝突で、戦況は一気に毛利へと傾きます。

しかし、大友軍はなおも諦めず、10月26日の激戦では、道雪らが、大量の弓矢と鉄砲を城内へと撃ちこんで奮戦したりもしますが、結局、最後まで毛利有利の展開をひっくり返す事はできず、ついに11月5日、大友軍はやむなく撤退を開始・・・ここに門司城攻防戦は、毛利軍の勝利となったのでした。

それにしても・・・
海上からの艦砲射撃と聞けば、幕末の薩英戦争(7月2日参照>>)函館戦争(5月11日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、戦国時代・・・それも、意外に早い段階で行われていたとは・・・

ちょっどびっくりですね。
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コメント

島原の役・原城攻略戦では、幕府軍がオランダ艦隊(東インド会社?)から火力支援を受けていますね。

宗麟の戦国時代なら国家間戦争みたいなものなんで外国の支援を引っ張るのも有りだったかもしれませんが、国内の農民相手の内乱鎮圧戦で、安保条約も駐屯地も存在しない外国軍の導入を思いついた初期の幕客の思考回路とかプライドとか、一体どうなっていたんだろうな?と思います。

投稿: 黒燕 | 2009年8月23日 (日) 23時01分

黒燕さん、こんばんは~

そうですね・・・
島原の乱のページでも書かせていただいてますが、あれには、ポルトガルに差をつけたいオランダの意図も、ちょっとだけ含まれてるかも知れませんね。

さすがに身内から「恥ずかしい」の声が出たようなので、やっぱり当時でもカッコ悪い事だったんでしょう。

投稿: 茶々 | 2009年8月23日 (日) 23時38分

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