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2009年8月12日 (水)

関ヶ原の合戦と伊達政宗

 

慶長五年(1600年)8月12日、宇都宮城に入っていた徳川秀忠が、北目城伊達政宗に、協力して作戦遂行する旨の書状を送りました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)8月12日徳川秀忠から伊達政宗協力要請・・・何への協力か?

もう、おわかりですね?
そうです・・・関ヶ原の合戦です。

・・・とは言え、関ヶ原は岐阜県・・・今の政宗は遠く宮城県、しかも、かの宇都宮城の秀忠は、この後、関ヶ原へは間に合わず、東軍の主力となるのは、東海道を西へ行った父の徳川家康とその仲間たち、一方の西軍・総大将の毛利輝元は大坂城に留まったままで、主力は石田三成とその仲間たち・・・。

これまで、ドラマや小説で度々描かれてきた関ヶ原ですが、この時、同時に起こった東北の関ヶ原とも言える一連の戦いは、ほとんど登場してきませんでした。

今年の大河ドラマ「天地人」は、上杉家が主役・・・今年こそ、この東北の関ヶ原が、くわしく描かれるものと期待に胸を膨らませている今日この頃ですが、この時、上杉は西軍側・・・かたや、東軍側に着いて東北の関ヶ原を主役なみで駆け抜けるのが、かの伊達政宗なわけです。

そもそも、生前の豊臣秀吉は、自分にもしもの事があった時、未だ幼い息子・秀頼を盛りたてて豊臣家を守ってくれるよう、五大老と五奉行をはじめとする配下の者に、様々な約束事をとりつけていたわけですが、秀吉の死後、その約束事を最初に破ったのは、他ならぬ家康と政宗です。

秀吉の後を追うように前田利家が亡くなると、もともと豊臣家内でくすぶっていた朝鮮出兵の最前線にて命がけで戦った武闘派と、天下人・秀吉の名の下で国家の内政をこなす文治派との亀裂が表に出てきます(3月4日参照>>)

その亀裂をうまく利用しながら京都は伏見城にて政務をこなす家康は、今や、豊臣家内で実力トップの座にいるわけですが、もちろん、家康の本心は、自らが、豊臣家に代わって天下を取る事であり、このまま豊臣家の家臣=五大老の1人として生きていくつもりはありませんから、徐々に、その意思表明・・・その第一歩が慶長四年(1599年)の家康の六男・松平忠輝と、政宗の長女・五郎八(いろは)姫との婚約でした。

かの秀吉との約束事の中には、「大名同士の私的な婚姻は禁止」というのも含まれていますから、これは明らかに約束違反ですが、実は、政宗にとっても渡りに船だったんです。

現在、上杉が治めている会津は、もともと政宗の領地・・・小田原参陣に出遅れ(6月5日参照>>)葛西大崎一揆への関与を疑われ(2月4日参照>>)て大幅減封となってしまい蒲生氏郷(うじさと)の物となった会津は、その氏郷亡き後、上杉の手の中にありました。

豊臣家どっぷりの上杉ですから、このまま豊臣の世が続けば、さらに領地を拡大する可能性もあり・・・なんとか、伊達家開祖の地・伊達郡も含めて、元の領地を取り戻したい政宗にとって、豊臣に反旗をひるがえす気配の家康と結んでおく事に越した事はありませんし、ここで天下が転べば、その混乱に乗じて、再び奥州の覇王になる事も・・・いえ、まだまだ歳若い政宗なら、天下を狙う事だってできるかも知れません。

そりゃ~ハリキリまっせ!

かくして、自らの約束破りは棚の上に置いといて、領国へ戻った上杉景勝(かげかつ)上洛を求める家康・・・拒否の返事に謀反の疑いありとし、会津征伐を決意します(4月1日参照>>)

この時、家康が命じた諸将のダンドリは・・・
南の白河口家康本人&秀忠
東の仙道口からは佐竹義宣(よしのぶ)
同じく信夫(しのぶ)からは政宗
北の米沢口最上義光(もがみよしあき)
西の津川口からは前田利長掘秀治

こうして、東北があわただしくなる中、一方の上杉もじっとしてはいられません。

7月22日には、上杉の家老・直江兼続(かねつぐ)が、越後一揆を扇動し、現在の越後の領主である掘秀治を牽制します(7月22日参照>>)

ハリキリボーイ(と言っても30歳過ぎてますが・・・)政宗は、北上してきた家康が小山(おやま・栃木県)に到着した7月24日、早くも、上杉領の最北端にある白石城へ攻撃を仕掛け、翌・25日には開城させてしまいます。(7月25日参照>>)

しかし、ここで状況が変わります。

後に、「小山評定(ひょうじょう)と呼ばれる事になる、この25日の軍儀・・・ここで、家康は、ともに会津征伐へとやってきた諸将に、会津征伐を中止して西へと戻る事を発表します(7月25日参照>>)

そうです・・・すでに7月19日から、家康が留守にした伏見城へ、石田三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らの攻撃が始まっていたのです(7月19日参照>>)

これについては、兼続が家康を東北へ惹きつけておいて、その間に三成が挙兵するという二人の密約があったとか、逆に、家康が三成から攻撃を仕掛けさせるために、わざと会津征伐を口実に伏見城を留守にしたとか・・・後の歴史を知っている私たちから見れば、イロイロな想像を掻き立てられる部分ではありますが、いずれも、確固たる証拠があるわけではありません。

とにかく、家康は、ここで、ともに来た諸将に、「西軍につきたい者は、遠慮せず、この場から去ってくれ、ともに来てくれる者は残ってくれ」と問うたのです。

なんせ、彼らの妻子は大坂城に人質状態となってますから・・・しかし、福島正則山内一豊ら、東海道に城を持つ武将らが率先して、持城と兵糧を提供してまでの全面協力に、その場で西軍へと降った者はほとんどいなかったと言います(9月20日参照>>)

これにより、しばし会津は停戦状態となったのです。

家康は、次男・結城秀康(11月21日参照>>)を宇都宮城に配置して上杉の攻撃に備えるとともに、政宗や義光にも、その動向に注意を払うよう命じ、自らは、居城の江戸城へと向かいますが、ここで気になるのは、佐竹義義宣の行動・・・

実は、上記の会津攻めのメンバーに入っている義宣さんですが、なにやら怪しい動きをしていたのも、事実・・・この先、家康がもっと北へと向かっていたら、白河で上杉と合流して、取って返すつもりであったとも言われています。

さすがに家康も疑っていたようで、北関東の諸将には、佐竹の動向を探るように言い残して、自らは、この後、1ヶ月間江戸城に籠ります。

この時の、家康の江戸城滞在は、一つには、今後の戦況を有利に進めるために全国の諸大名に戦後の恩賞をチラつかせた手紙を送る事・・・細川忠興(ただおき)には但馬(兵庫県)を、加藤清正には肥後筑後(熊本・福岡県)を保証する」といった具合にです。

もちろん、かの政宗にも、8月22日付けで、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束・・・世に言う「百万石のお墨付き」を与えています。

100mangokunoosumitukicc これがウワサの「百万石のお墨付き」=『徳川家康領地覚書』(仙台市博物館蔵)

そして、もう一つには、豊臣恩顧の武将を中心に構成した東海道を西へ行く先発隊が、ちゃんと東軍として働いてくれるかどうかを見極めるため(8月11日参照>>)・・・なんせ、昨日まで、豊臣のために働いていた彼らですからね。

・・・と、ここで、上杉が、家康を追撃していたら、実際のところ、家康は相当危なかった・・・。

しかし、上杉は動きませんでした。

以前、「直江状のところで書かせていただきましたが(4月14日参照>>)、とにかく、景勝が首を縦にふらなかったのです。

この後の歴史を考えれば、この時の上杉の追撃のあるなしが、天下を分けたターニングポイントだったのかも知れません。

結局、ヤル気満々だったのに、殿様に反対されて家康への追撃ができなかった兼続は、次に、国境を接している最上の領地を占領すべく、北へと進攻します。

それが、関ヶ原の合戦と同じ日に勃発する長谷堂の戦い(9月16日参照>>)なのですが、もちろん、これにも東軍側として援軍を出した政宗・・・

ただ、ご存知のように、肝心の関ヶ原が、わずか1日で決着がついてしまいます.

それでも、気持ちが収まらない政宗は、大勢が決まった後も、家康の制止を振り切りながら、福島城をはじめとする上杉領への進攻を度々繰り返しています。

なんせ、「百万石のお墨付き」ですから・・・

しかし、政宗のドサクサまぎれの行動に、家康がブチ切れ激怒した事により、しかたなく刀を納める事になった政宗は、わずか2万石が加増されただけでした。

この時、政宗34歳・・・もはや、戦での領地拡大の時代ではない事を悟った政宗は、これからは、内政を重視し、領国をを発展させる事によって石高を増やす近代大名への道を歩む事になります。

・・・と思いきや、まだ、諦めてませんね~

それは支倉常長(はせくらつねなが)の事。

そのお話は・・・
3年も前に書いたページですが、よろしければコチラからどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

合戦の描写が貧弱で、何でも愛だの義だの持ち出してきて、綺麗事にしてしまって凄惨な事例はスルーしてナレーションだけで流してしまう、天地人ですから…長谷堂城の戦いも案外サラッと流されてしまいそうな気配がして心配です。

投稿: マー君 | 2009年8月12日 (水) 12時50分

マー君さん、こんばんは~

確かに長谷堂の戦いは、たとえ険悪なムードであったとしても、実質的には、未だ何もしていない相手への侵略行為ですから、今年の兼続のキャラだと、攻める理由を作るのも指南のワザかも知れませんね。

武将・兼続・・・最も盛り上がる合戦なので、ぜひともおもしろく描いていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2009年8月12日 (水) 22時08分

最初は好意的に見てた、天地人も…利休の娘が福島政則を投げ飛ばす、しかもドリフのコントか香港映画のワンシーンみたいにワイヤーで空を飛ばしたのを見せられては、呆れかえってしまいます。オマケに父上の後妻なんて出してくる余裕があるなら、兼継のもう一人の弟も出しなさいと言いたい。それに前田慶次郎は出さんのかぁ〜!って声を荒げたくなります。大体…大国実頼が官位を賜った時に、兼継が実頼の行為を叱りつけた場面でも、上杉の義だの侍の誇りだの言って、精神的な話を持ち出して居たけど、そんなことは二の次でしょ…主君の許可を得ずに官位を受ける行為が家臣団の結束を乱し、反目しあう家臣たちの間に疑心暗鬼を生み、ひいては家臣団の分裂を招きかねない、というような政治的発言を以て叱らないといけない場面でしょうに、何でもかんでも愛だの義だの持ち出してきて見てるこっちが勘弁してよぉって言いたくなっちゃいますね。

投稿: マー君 | 2009年8月13日 (木) 08時19分

マー君さん、こんばんは~

原作を読んでないので、原作はどうなのか知りませんが、大河ドラマの「天地人」には、確か、大谷吉継も出てきてませんよね?

思うに、関ヶ原での吉継と三成の友情物語、長谷堂の戦いでの前田慶次郎のシンガリのかっこよさ・・・

最大の見せ場であるこの二つを、主役の兼続がやった事にする気なのではないか?と最近は思い始めています。

だからこそ、重要な二人を無視し続けるのではないかと・・・

投稿: 茶々 | 2009年8月13日 (木) 23時07分

 あの~、上杉側からしても何の問題もないのですが。
上杉討伐側の伊達は、家康の反転で、自ら和睦してるし(撤退戦では、和義を破り後ろから追い掛けて来たけど)、最上とは、現存してる書状からも分かるように、最初は和睦を呼び掛けてるけど上手く行かず、それから最上を攻めてますからね。しかも、家康に従って、上杉討伐の命令に従ってるのは最上の方でしょう。
それを和睦に応じなければ、やるしかないでしょう、やられる前に。
それから殿で活躍するのは兼続ですよ。
最上の記録でも、家康の記録でも。
残念ながら史実では前田慶次の活躍は出て来ませんので、兼続は困りませんが。

投稿: ふう | 2009年12月 6日 (日) 10時35分

ふうさん、こんばんは~

>あの~、上杉側からしても何の問題もないのですが・・・

私、何か問題定義をしましたでしょうか?
そこのところがよくわからないのですが、とりあえず、

>伊達が、家康の反転で、自ら和睦した事については、9月9日「直江兼続が最上領に侵攻」>>のページに・・・

>最上とは、最初は和睦を呼び掛けてるけど上手く行かなかった事については、9月16日「長谷堂の戦い」>>のページに、すでに書かせていただいておりますので、参照していただければ幸いです。

また、
>家康に従って、上杉討伐の命令に従ってるのは最上の方・・・
との事ですが、このページは「関ヶ原の合戦と伊達政宗」のお話なので、最上のお話にはあまり触れず、政宗中心に書かせていただきました。
そんな中で、合戦終了後も、政宗が上杉領へ侵攻していた事は事実とされていますし、和賀忠親の一揆に加担したりした事も含め、このドサクサで自らの領地を拡大しようとしていた事は、一般的にも認められている事と思いますが・・・

最後に、
>残念ながら史実では前田慶次の活躍は出て来ません・・・
確かに、前田慶次郎の一件は「会津陣物語」ですから、この時代の軍記物の記述がどこまで史実に近いかの判断による物と思いますが、この時代の史料のほとんどが、本チャンの関ヶ原の記述であり、東北にて行われた戦いに関しての史料が少ない現状では、軍記物のすべてを、「事実ではない」として無視してしまうのも、早計な気もします。
私は、歴史学の研究者ではないですし、ここは歴史学のブログでもありませんので、歴史好きの1人として思うところを発進させていただいております。

投稿: 茶々 | 2009年12月 7日 (月) 00時18分

タイムスケジュールで考えると、来年は6月に関が原の戦い。9月に大阪の陣となるはずでしょう。来年は「大阪の後」の出来事を触れないはずはないので、じっくりとお江さんの晩年をやってくれるでしょう。あと1ヶ月すると収録が始まるようなので、これからも出演者が決まるので興味が尽きません。

来年の伊達政宗は誰になるでしょうかね?「天地人」とは違う位置づけと思うので。
実際には秀忠と政宗は友好的だったんでしょうか?晩年の伊達政宗は家光に若い時期の武勇伝を話したらしいので。主演との兼ね合いを考えると40歳前後の人かな?

投稿: えびすこ | 2010年8月13日 (金) 10時34分

えびすこさん、こんにちは~

伊達政宗は人気なので、最近の傾向を考えると(人気のある人はイメージを損なうとかで)外される可能性も…

龍馬の主人公で中岡を出さない事をお考えになるスタッフですから、ひょっとすると…コワイ━━Σ(゚д゚;)━━!!

投稿: 茶々 | 2010年8月13日 (金) 11時56分

>人気者ははずされる…

う~ん、どうなるんでしょうか?出るとしても「端役」だと思うんですが。小説版を読んでいないので、出てくるかどうかわかりません。
もし配役が決まりましたら、報告いたしますね。

投稿: えびすこ | 2010年8月13日 (金) 12時54分

原作がアテにならないのが、最近の大河ですからね~どうなんでしょ

せっかく、原作がしっかりしてても、あえて変えちゃいますから…ちょっと心配

投稿: 茶々 | 2010年8月13日 (金) 14時56分

ここ数日前から、楽しく読ませていただいております。
最上義光(よしみつ)とありますが、よしあきの間違いかと思われます。
私もよしみつとずっと読んでおりました。
妹義姫への書状でよしあきと書いていた資料が出てきていたはずです。

投稿: 鮭様大好き | 2019年11月10日 (日) 20時01分

鮭様大好きさん、ありがとうございます。

最上義光さんの名前…深く考えずにババッと書いてる時(良く言えば筆が乗ってる時ww)よくヤッてまうんです(#^o^;)

いつも見つけ次第直してるんですが、なんせページが多いので間違ってるままになってる事がしばしば…

教えてくださってありがとうございます。
また、誤字脱字等見つけていただきましたら、お知らせくださいませ。
よろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2019年11月11日 (月) 04時00分

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