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2009年8月28日 (金)

死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件

 

貞享元年(1684年)8月28日、江戸城内において、若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊に斬りかかって殺害するという刃傷事件がありました。

・・・・・・・・・・

思えば、あの浅野内匠頭(あさのたくものかみ)吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった江戸城・松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)からさかのぼること17年・・・

しかも、加害者が若年寄で被害者が大老なんて、どう見ても、こっちのほうが、登場人物のランクが上だし、何たって被害者が死に至ってますし・・・

なのに、あっちは、芝居になり浄瑠璃になり・・・さらに、平成の今の世となっても、話題に上るほどの一大事件となっているにも関わらず、本日の堀田正俊(ほったまさとし)殺人事件に関しては、ほとんど聞いた事かありません。

実は、コレ・・・加害者である稲葉正休(いなばまさやす)堀田に斬りかかった動機がまったくわからない・・・しかも、主君のご乱心で改易となった稲葉家も仇を討たない・・・(堀田さんも死んでますし)

なので、ストーリー的に浄瑠璃や芝居になりようもないのですが、それもそのはず、なんせ、上記のように、被害者・堀田は殺害され、加害者・稲葉は、騒ぎを聞いて駆けつけた大久保忠朝戸田忠昌安倍正武3名にその場でメッタ斬りにされ即死・・・

つまり、両者とも、その場で亡くなってしまった以上、もはや、その原因を調べようにも調べられないわけです。

それにしても、だいたい殿中で刃傷に及んだら、その身はどうなるのかは承知のはず・・・

まして、稲葉は美濃国(岐阜県)青野1万2千石領する藩主で、自らも若年寄という要職についた前途のある身・・・一族郎党が、この先、路頭に迷う事を考えれば、よほどの事がない限り、そんな行動に出る事はありません。

しかし、幕府の公式記録=徳川実記では、事件の発端は「正休の発狂」で片付けられていて、その動機は明らかにされていません。

だいたい、駆けつけた3人が、その場で稲葉を殺害っていうのも臭います。

現に、あの浅野内匠頭のほうは、取り押さえられています
(ドラマでは茶坊主に・・・)

現在にも通じる事ですが、こういう事件の場合、犯人をちゃんと捕まえて、その動機を究明してから処分するなりなんなりしてこそ、真の解決に至るわけで、直後に殺してしまって、その理由もわからずじまいというのは、むしろ、彼ら3人の不手際です。

しかし、事件後、彼らが、その不手際を罰せられたという記録は残っていません・・・不可解です。

有名なところでは、新井白石が後に語ったとされる話・・・淀川の改修工事でのモメ事です。

淀川の改修工事にあたって、稲葉は事前の視察を行い、4万両で工事を請け負う見積もりを立てていたのに、堀田が2万両で、河村瑞賢(ずいけん)という人物に依頼をしてしまった・・・ほんでもって、稲葉が、「ウチにやらしてくれ」と、頼み込んできたのを、堀田が断ったために、稲葉がブチ切れ・・・というもので、「二人が事件前夜に口論しているのを見た」という目撃証言もあります。

しかし、結局のところ、工事のモメ事は、命を賭けてまでブチ切れるほどの出来事ではないように思いますよね。

Tokugawatunayosi600 また、堀田の家臣が残した記録では、時の将軍=第5代・徳川綱吉との関係がこじれた事に要因があるとしているものもあります。

それによれば、もともと第4代将軍・家綱の臨終の際、次期将軍を決めるにあたって、時の大老・酒井忠清と大いにモメた堀田が、「何としてでも・・・!」と、強く綱吉を推した事で、綱吉は5代将軍になり、それとともに、堀田は、酒井に代わって大老に任ぜられたわけで、二人は、お互いが持ちつ持たれつのイイ関係にあったはずなのですが、綱吉自身が、何事も自分の意見を通したいタイプであり、堀田も、自分の意見を譲らない性格であったため、いつしか、綱吉が、堀田の事をうっとうしく思うようになっていたというのです。

加えて、堀田が、あまりにも綱吉の信頼を受けている事に増長して、調子にに乗りすぎの横柄な態度を取っていた事にも、綱吉は怒っていたのだと・・・

それで、綱吉は、堀田に隠居を勧める決意をするのですが、その将軍の意向を、堀田に告げる役目を頼まれたのが、稲葉だった・・

しかし、城内の御用部屋にいた堀田に、稲葉が将軍の意向を伝えても、堀田はあっさりと拒否・・・将軍の命令は絶対だと思っていた稲葉は、将軍の命令に従わない堀田にブチ切れ・・・というのが、その家臣のお話・・・

でも、この話でもやっぱり、稲葉のブチ切れとなっているのが、どうも引っかかります。

かの浅野内匠頭は、なにやら日頃からブチ切れやすい性格で、本人もそれを悩んでいて、精神安定剤のような薬を常用していたなんて聞きますが、稲葉に関しては、そんな話はありません。

むしろ、同時代の学者・戸田茂睡(もすい)などは、彼の事を、「忠義といい、分別といい、他に類を見ないほどの良い人物」と称しています。

そんな人が、そう簡単にブチ切れるでしょうか?

確かに、その忠義の精神から、「将軍の命令は絶対だ」と思っていて、それを堀田が断ったとしても、戸田さんが言うように、他に類を見ないほどのすばらしい人物であるなら、その場でブチ切れる事なく、冷静に説得するか、新たな方法を考えて出直すはずです。

・・・と、ここで、ムリヤリなトンデモ説ではありますが、一つだけつじつまが合うのではないか?と思う事が・・・

それは、将軍・綱吉が、稲葉に頼んだのは、「堀田を説得する事」ではなく、「堀田を殺害する事」ではなかったのか?という事です。

この時に、綱吉が何等かの報酬的なものを約束したかどうかは微妙ですが、殿中で刃傷沙汰を起せば、自分自身は死ぬ以外にないわけですから、いくら将軍の頼みだと言っても、自分も死に、お家も取り潰しになるのなら、ワリにあわないでしょう。

しかし、もし、自分自身は死ぬ運命にあったとしても、残された一族郎党の前途が約束されるなら、彼はやったかも知れません。

もともと、将軍の命令にさからう事も処分を受けるだろうし、自らの命と引き換えに、事が丸く納まり、お家が守られるなら・・・と、

・・・で、駆けつけた老中たちは、そのすべてを知っていて、何も聞かず、即座に正休を殺害し、死人に口なしとばかりに、その後、お家も改易に・・・

まぁ、トンデモな仮説ですが・・・
 .

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コメント

おはようございます。
トンデモ説とはおっしゃいますが、昨日の
>この後、何百年に渡って引き継がれる武士同士の暗黙のルールという物
に適っていて、なかなか興味深いのでは、と思いました。でももしそうだったら、綱吉さんひどい~
ところで、西暦年が違うようですのでお確かめください(゚ー゚;

投稿: おきよ | 2009年8月28日 (金) 08時19分

おきよさん、ありがとうございます~o(_ _)o

百の位の6と8を打ち間違えておりました~
1884年なら、明治になってしまいます~
早いうちに教えていただいて助かります~

>武士同士の暗黙のルール・・・

そうなんですよね~
正休さんが、言われてるような優れた人物なら、何か、そういった約束がない限り、刃傷に及ぶなんて考えられない気がします。

投稿: 茶々 | 2009年8月28日 (金) 09時42分

当方は、堀田筑前守が稲葉石見守に暗殺された理由は、淀川河川工事の見積もりを巡るごたごたが原因だと思っています。
石見守は、勘定方の役人に見積もらせた金額より、筑前守が河村瑞賢に見積もらせた金額が安かったこと、これが綱吉の耳に入れば、職務怠慢とされ、若年寄罷免か場合によっては減封、改易になることに怯えていたから、河村の見積もりを躍起になって否定し、それが堀田と稲葉の衝突の遠因と理解されうる

投稿: 御側御用取次の本郷大和守 | 2009年12月20日 (日) 02時54分

御側御用取次の本郷大和守さん、こんばんは~

新井白石説という事ですね。

投稿: 茶々 | 2009年12月20日 (日) 04時20分

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