世界情勢とともに変化した遣唐使の役目
舒明二年(630年)8月5日、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣され、中国へと向かいました。
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以前、第10回の遣唐使派遣のページ(4月2日参照>>)で、そのルート変更により、危険性が格段に増した事など書かせていただきましたが、本日は、第1回の派遣という事で、日本をとりまく周辺諸国の状勢により、徐々に変化していく遣唐使の役目などについてお話させていただきます。
ちなみに、上記の第10回のページと同様、有名な小野妹子(おののいもこ)に始まる遣隋使は、遣唐使とは、また、別の使節とご理解いただきたいと思います。
この頃は、すでに隋が滅びて唐に代わってから12年・・・唐にとっては内政も整い、国内も落ちついていた時期で、皇帝の玄宗(げんそう)も、たいそうご機嫌で犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを、熱烈歓迎してくれています。
翌年、彼らが帰国する時には、高表仁(こうひょうじん)に節(皇帝の正式な使い)を持たせてお礼の訪問をさせ、「日本は遠いよって、毎年貢物せんでもえぇねんで~」てな、おやさしい事をおっしゃって、次に遣唐使が派遣されるのは22年後という事になります。
・・・にも関わらず、この次の回となる白雉四年(653年)と白雉五年(654年)には、立て続けに二年連続の第2回と第3回の遣唐使を派遣・・・。
これは、おそらく、朝鮮半島の情勢の悪化によるもの・・・例の白村江の戦い(8月27日参照>>)が、天智二年(663年)ですから、それを睨んでの派遣という事でしょう。
そして、結局その朝鮮情勢に、百済(くだら)の救援という形で参戦して、唐&新羅の連合軍に敗れた日本は、天智八年(669年)派遣の遣唐使では、「高麗を平定したお祝い」という姿勢をとっています。
しょっぱなの遣隋使の時の、皇帝・煬帝(ようだい)を怒らせたとウワサの、あの聖徳太子の「日出(い)ずる処(ところ)の天子・・・」の手紙(7月3日参照>>)以来、一貫して同じ独立国家として対等の外交姿勢を貫いていた日本としては、ちょっと、腰が退けた状態となってしまいました。
・・・とは言え、やはり、中国にとっての日本は、陸続きの他のアジア諸国とは、少し違う存在だったようです。
もともと中国は、国は代われど伝統的に『冊封(さくほう)体制』をとっていました。
いわゆる、世界の中心に中国という国があり、周辺の諸国は、その中国に臣下の礼をとる事で国家として認めてもらい、その国の王も、中国の承認があってこそ、名実ともに王なのだ・・・といった具合で、ときには、中国の要請によって兵役を課せられる事もあり、属国とまではいかないものの、それに近いものだったのです。
しかし、日本は、その冊封体制には組み込まれておらず、あくまで『朝貢国』・・・一定期間に決まった回数の使節を送り、挨拶を欠かさないという立場でした。
ただ、これは、あくまで、上記の聖徳太子の時代から日本側の主張する一環した姿勢であり、中国から見れば、結局は臣下の国の一つに過ぎなかったようですが、それでも、他のアジア諸国が毎年、しかも一年に何度も使節を訪問させているのに対し、日本は、相変わらず20年に1度のままだったわけで、その点では、やっぱり、特別扱いです。
それには、もちろん、先の玄宗が言ったように、日本は海を隔てた遠くにあり、その航海が危険を伴うものであったからという事が第一ですが、それよりも、中国自身にとって重要だったのは、日本の位置です。
朝鮮半島を臣下としておくためには、その向こうの位置にある日本と仲良くしておく事が大事だったわけです。
何か事を起こそうとしても、中国と日本が友好関係にあれば、必ず、挟み撃ちとなるのですから・・・。
それは、中国だけでなく、周辺諸国も充分承知・・・高句麗滅亡後の文武元年(698年)に、朝鮮半島北部から中国東北部を領土とした渤海(ぼっかい)は、神亀四年(727年)には、自ら使節を日本へと派遣して国交を樹立した後は、むしろ日本の朝貢国のような立場を自らとっています。
これは、渤海滅亡までの200年間・・・日本の遣唐使制度が終った後も続けられていました。
あの新羅でさえ、たびたび日本とは険悪なムードになりながらも、その都度、使節を派遣して、数の上だと、遣唐使をはるかに上回る頻度での交流を持ったのは、やはり、挟み撃ちを恐れての行動なのでしょう。
・・・と、その時代々々によって、政治的背景は多少の差があって、国家を背負って訪問する使節の意味は微妙に違うものの、一貫しているのは、彼らとともに海を渡った留学生による文化的交流です。
遣唐使の留学には、短期と長期があるのですが、一旦中国へ着いたその船は、1年後に再び日本への帰途をたどる事になるので、短期というのは、この1年間の留学という事になります。
長期留学の場合は、先に書いた通り、基本、20年に一度の派遣なので、必然的に20年という事になりますが、国の命により派遣された使節の官人よりは、自らの学びたいという意志で渡海してきた留学生のほうが、その情熱も高く、僧ならば、かの最澄や空海(12月14日参照>>)、学生ならば、吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)や小野篁(たかむら)(12月15日参照>>)といった、後に中央政界で大活躍する優秀な人材を輩出する事になります。
なかには、あまりに優秀すぎて、唐に滞在中の段階で政治手腕を発揮して、帰るに帰れなくなった安倍仲麻呂(8月20日参照>>)のようなケースもありますが、そもそも、あの鑑真和上(がんじんわじょう)(12月20日参照>>)だって、おそらくは、彼ら留学生の情熱にほだされて、「日本へ行きたい!」という気持ちになったのでしょうから・・・。
それにしても・・・
近代になってこそ、発展途上国の優秀な人材を、国費にて先進国へと向かわせ、その最先端を学ばせるという留学制度が行われるのは当たり前となりましたが、1300年もの昔に、このような制度を行っていたというのは、世界広しと言えど日本くらいなのでは?
・・・と思ったら、外国にもあるそうです(゚ー゚;
下記コメントで“おみそしるさん”に教えていただきましたので、コメント欄でご確認を・・・(世界史が苦手なもので申し訳ないです・・・加筆させていただいときます)
*補足=トップページでまとめて記事を読んでくださってる場合は、この記事の末尾の【固定リンク】をクリックしていただくとコメント欄が出ます。
かくして、寛平六年(894年)に菅原道真(1月25日参照>>)の進言によって廃止されるまでの260余年・・・命がけで海を渡った若者が、勇気ととも持ち帰った最先端の知識と情報が、当時の日本に様々な影響を与えた事は言うまでもありません。
やがて、遣唐使廃止から9年後には、唐のほうが滅亡してしまいますが、伝えられた文化が見事に融合し、日本人の奥深くに根付いていくのはご承知の通りです。
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コメント
はじめまして、
いつも楽しく拝見させていただいております。
遣唐使の時代は、中国も非常に発展した
時代でしたので面白い話題が多いですよね。
ところで、留学制度に関してですが、
歴史的にはかなり古い時代から行われています。
西欧では紀元前のギリシャやエジプトで
軍事や算術を学ぶために国費留学した
という記録が残っています。
勿論、中国でも東周の時代には他国からの
留学生を受け入れていたという記録があります。
私費で留学することが始まるのが
西欧では中世以降、中国では春秋時代だったりするので、
昔は国費留学生が多かったわけですね。
確かに祖国を離れて他国で暮らすのには、
警備の人間、家人などを雇わないといけないので、
資金が大量に必要で国費でしか行けないのかもしれません。
国費で留学した人たちのプレッシャーは
なみなみならぬものだったかも知れませんね。
投稿: おみそしる | 2009年8月 5日 (水) 12時27分
うわぁ・・・おみそしるさま~ありがとうございますo(_ _)o
世界史が苦手なもので、この記事を書くにあたって、改めて調べてみたんですが、どれも、これも遣唐使の事ばかりで、外国の事がまったく出て来なくって・・・
遠い昔の小耳に挟んだ記憶で書いてしまいましたが、このページを読んでくださったかたにも、その事を知っていただきたく、本文にも「コメント欄」の事を加筆させていただきました。
外国の制度が、どのようになっていたのか、もう少しくわしく知りたいところではありますが、日本の遣唐使の場合は、たとえ官人ではなくても、留学というよりは、朝貢という名目で行っていたので、滞在費用は、すべて中国持ちだったそうで、そのぶんの資金面は、外国の制度よりは少し楽だったかも知れませんね。
教えていただいて、ありがとうございました~
投稿: 茶々 | 2009年8月 5日 (水) 12時52分