将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生
嘉吉三年(1443年)8月8日、猿楽から発展した能を、芸術の世界にまで引き揚げた世阿弥がこの世を去りました。
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能のルーツとなった猿楽は、もともと農村で行われていた神事の芸能です。
言い伝えによれば・・・
南北朝動乱の時代、大和(奈良県)には五ヶ所の声聞師(しょうもじ)の村があったのだとか・・・声聞師とは、門付けして経文などを唱える芸能人の事で、彼らの村には十ほどの曲舞座があったと言います。
世阿弥(ぜあみ)の父である観阿弥(かんあみ)は、そんな曲舞座の一つの乙鶴で女曲舞を学び、神事の芸能に女曲舞を取り入れた新しい芸能を生み出し、結崎座(ゆうざきざ・観世流)を組織して、各地を巡回・・・村の祭礼や社殿の造営の時に招かれて演技を披露し、これが、なかなかの喝采を浴びていました。
やがて、醍醐寺での興業で人気を博した結崎座は、京の都を中心に活動するようになりますが、そんな一座の一員として舞いを披露していた少年が、観阿弥の息子・鬼夜叉・・・後の世阿弥元清です。
そんな彼が12歳の時、一大転機がやってきます。
それは、京都は今熊野神社で行われた神事猿楽興業・・・その神事を見物に来ていた、時の将軍・足利義満が、その世阿弥の美しさに一目ぼれ!
世阿弥は、10歳の時に初舞台を踏んでから、その容姿の美しさとともに、演舞の見事さは目を見張るばかり・・・そう、彼は、メチャメチャ美少年だったのです。
・・・と、上記の「将軍が美少年を」という文章で、ほとんどの方が、戦国武将にありがちなオッサンと美少年の構図を想像されたでしょうが、おっとドッコイ・・・この時、将軍・義満も、まだ17歳!
絵的にも充分なBL案件ですなΣ(;・∀・)
ともあれ、これ以降、将軍の寵愛を受けた事で、能は隆盛を極めていくのですが、世阿弥自身は、父・観阿弥とは、少し違う道をめざす事になります。
それは、父の観阿弥の演舞が、あくまで庶民的な、いわゆる大衆芸能をめざしていたのに対し、世阿弥の能は、洗練された貴族的なもの・・・芸術=アートという高みをめざすものでした。
・・・と言っても、父の芸能を否定するのではありません。
彼は、全盛期と言われる応永七年(1400年)に、代表作である『風姿花伝(ふうしかでん)』を著していますが、その中でも、あくまで父・観阿弥の残した遺訓を通して、その芸能論を語ります。
世阿弥にとって、父は、生涯にわたって尊敬すべき師匠であり、美学の境地であった・・・彼にとっては、そんな父に追いつき、いつしか追い越す事が最終目標だったのかも知れません。
皆さん、よくご存知の言葉・・・
「初心不可忘=初心忘るべからず」
これは、世阿弥の『花鏡(かきょう)』の中にある言葉です。
その生涯で200番ほど書いた謡曲のうち、約120番以上が、今もなお演じられているという現実は、能を見た観客が味わう感動を「花」と称し、その「花」が咲き乱れる事を、最も大切にした世阿弥ならではの偉業とも言えるでしょう。
しかし、その晩年は、一転して不遇の日々となります。
それは、世阿弥が46歳の応永十五年(1408年)に義満が亡くなり、その息子で第4代将軍・義持(よしもち)の頃・・・
義持が、父・義満の、あまりに偏った世阿弥への寵愛を嫌っていた事や、豊作祈願の田遊びから発展した田楽が大好きであった事で、しだいに、彼を遠ざけるようになります。
すでに高尚な芸術となって民衆から離れていた能にとって、セレブから見放されるのは命取りです。
さらに、将軍家の能ばなれは、6代将軍・足利義教(よしのり)の時代に、決定的となります。
永享元年(1429年)、世阿弥と、その息子・観世元雅(かんぜもとまさ)は、仙洞御所での演能を禁止され、その後、間もなく、元雅は急死します。
しかも、世阿弥・72歳の永享六年(1434年)には、佐渡へ流罪となってしまうのですが、実は、この世阿弥の流罪・・・流罪にされた事だけはわかっているものの、その原因がまったくの不明です。
流罪というのですから、何か、他人を傷つけたり、大きな失敗をしたり・・・と、それなりの罪を犯しているはずなのですが、その記録はまったくありません。
一説には、義教が世阿弥の甥である音阿弥(おとあみ)を好んでいて、秘伝書とともに、後継者の座を音阿弥に譲るよう命令したにも関わらず、世阿弥が息子の元雅に観世大夫を継がせた事で、義教が激怒したとも・・・
確かに、この義教さん・・・このブログの嘉吉の乱(6月24日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまり評判の良い方ではありません。
自分の意にそぐわない者を、次々と抹殺したという噂が、本当だとしたら、世阿弥も、些細な事が、その逆鱗に触れ、流罪となったのかも知れません。
また、一方では、息子も元雅が急死している事から、なにやらきな臭い噂も飛び交います。
それは、観阿弥が、あの楠木正成(5月25日参照>>)の血縁だとし、それゆえ、観阿弥・世阿弥父子は南朝のスパイであったと・・・
・・・で、スパイ活動をしていたところがバレた息子は暗殺され、世阿弥は流罪にというわけです。
いずれにしても、やはり義教のご機嫌をそこねての流罪であったようで、義教が暗殺された嘉吉元年(1441年)頃に、罪を許されたとされていますが、その後は京都に舞い戻ったとも言われるものの、結局は、その消息もはっきりしない状態です。
日本の伝統文化の中で、その代表格である能というものを大成させたにしては、あまりに悲しい末路となった世阿弥の生涯・・・
しかし、芸術家にとって、その作品が命であり、生きた証だとすれば、600年の時を越えて、今なお演じられ、見る人に感動の花を咲かせている事こそが、彼のめざした最終目標だったのかも知れません。
女っぽくなってしまいましたが、妖艶な美少年という事で・・・
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コメント
わりと何処にでも入り込めちゃって、出自をうるさく問われることもなく、実力次第で各界の有力者ともお友達になれちゃうかもしれない、誰もが一度は夢見る素敵な肩書き『アーティスト』
・・・諜者の隠れ蓑にはあまりにもうってつけですね。
投稿: 黒燕 | 2009年8月 9日 (日) 22時27分
黒燕さん、こんばんは~
近くは、アジアをまたにかけて活躍し、日本でも人気だった某女性歌手がスパイではなかったかと言われていますね~
やはり、そういう仕事は活動がしやすいのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2009年8月 9日 (日) 23時13分
こんにちは。
世阿弥の「秘すれば花」という言葉が
印象的です。
佐渡に流されたおかげで、
この地で能が盛んに
なった功績は大きいと思います。
足利氏は滅んでも、観世流は今も
残っているから、文化の力はすごい。
投稿: やぶひび | 2010年5月19日 (水) 11時09分
やぶひびさん、こんばんは~
>残っているから、文化の力はすごい
ホントですね~
今、遷都1300年で賑わう平城宮跡も、政治の場だった官庁はすべて荒廃し、一面の田んぼとなってしまったのに、唐招提寺に移築された朝堂院だけは、講堂としてりっぱに生き残ってますからね~
すごいです。
投稿: 茶々 | 2010年5月19日 (水) 17時22分