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2009年8月18日 (火)

苦労人の宮さま~クーデターを決行した中川宮朝彦親王

 

文久三年(1863年)8月18日、公武合体派の公卿が会津藩・薩摩藩の武力を借りて、過激な尊王攘夷派であった公卿と長州藩を京都から追い出した八月十八日の政変がありました。

・・・と、八月十八日の政変については、すでに昨年の今日書かせていただいていますので、その経緯については昨年のページを見ていただくとして(2008年のページを見る>>)、本日は、その政変の中心人物となった中川宮さまについて・・・

・‥…━━━☆

戦国とともに日本史で最も人気の時代である幕末・・・何度も小説やドラマで描かれている時代ですが、そんなドラマに出て来そうで出てこない中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)・・・

ややこしいので、本日は中川宮で通させていただきますが、とにかく次から次へと名前を変え、実際にはたくさんのお名前をお持ちです。

そもそも中川宮という事は、宮さまなのですから皇族のかた・・・しかも親王さまですから、本来なら、とてもとても高貴なご身分なわけで、むしろ箱入りお坊ちゃまでなくてはいけない人生のはずなのですが、そのご身分とはうらはらな、さばけた性格をお持ちなうえ、下積みの苦渋をなめる経験も積まれた苦労人でもあります。

Nagagawanomiya600agt そんな中川宮は、北朝3代・崇光天皇を祖に持つ世襲親王家の一つ伏見宮の第20代・伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第4皇子として文政七年(1824年)に京都で生まれます。

天保七年(1836年)に第120代・仁孝天皇の養子となり、その2年後の天保九年(1838年)には、奈良興福寺の塔頭である一乗院の門主となります。

つまり、この時点では僧侶という事ですが、当時、奈良奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)には、自ら酌をして、ともにお酒を飲むというきさくな人だったようで、しかも、この僧侶時代に、すでにカノジョがいて子供までつくってしまうおおらかさ・・・なんとも魅力的です。

その後、青蓮院門跡門主の座につき、この時点では青蓮院宮、あるいは、その場所が粟田口にあった事から粟田宮と呼ばれます。

しかし、ここで、例のペリー黒船来航(6月3日参照>>)で起こった日米修好通商条約の締結に反対し、次期将軍問題で一橋徳川慶喜を推したために、その後、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄(10月7日参照>>)蟄居(ちっきょ)の処となって相国寺で隠居・幽閉生活を送り、獅子王院宮と称します。

そんな直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で倒れると、還俗(げんぞく・出家した人が俗世間に戻ること)して、ここで中川宮を名乗ります。

この頃、時の天皇である第121代・孝明天皇が、何かと相談していたのが、この中川宮です。

それこそ、俗世間とは一線を引く生活を送っている天皇にとって、他の環境を知り、下積みの苦労を知っている中川宮は、天皇という立場では知り得ない様々な事を知る強い味方であった事でしょう。

・・・で、この時に朝廷内で主流の立場にあったのが、尊王攘夷派の公卿たち・・・

この尊王攘夷(そんのうじょうい)というのは、もともと、天皇を中心に据えて尊ぶ文字通り尊王の思想と、かの修好条約以来、入国してくる外国人を排除しようとする攘夷の思想とが合体した物・・・

孝明天皇自身が、外国を排除したいと考えていたので、この尊王思想と攘夷思想がくっついたわけですが、確かに、天皇を大事にしてくれて、外国を追い払おうとしてくれて、それはそれで結構なのですが、孝明天皇が考える攘夷は、あくまで幕府が行うもの・・・しかし、現在の尊王攘夷派は倒幕すら視野に入れた過激なものだったのです。

そんな過激な尊王攘夷を嫌う孝明天皇の意を引き出した中川宮は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にし、文久三年(1863年)8月18日過激な長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外した・・・これが、八月十八日の政変です。

この日、御所の警備陣に阻まれた尊王攘夷派の公卿たちは、御所の中に入れてもらえず、警備から外された長州藩も、その舞台から下ろされる事となったわけです。

ちなみに、この年に元服して弾正尹(だんじょうのいん)に任ぜられた中川宮は、ここからは尹宮と呼ばれます。

・・・で、上記の通り、この政変で中央から追われた長州藩は、その中川宮と会津藩主・松平容保(かたもり)襲撃する計画を立てるわけですが、その計画を練っていた密会場所を一網打尽にしたのが、翌・元治元年(1864年)に起こったあの新撰組の池田屋事件(6月5日参照>>)です。

ちなみに、この年に中川宮は、宮号を賀陽宮(かやのみや)の変更・・・

その後、京都を奪回すべく、兵を率いて押し寄せた長州藩が、御所の前で諸藩と交戦した禁門の変(蛤御門の変)(10月21日参照>>)、その報復にと幕府が決行した2度の長州征伐(5月22日参照>>)と続きますが、この長州征伐の陣中で第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が亡くなり(7月20日参照>>)長州征伐は終結・・・(7月27日参照>>)

さらに、その年末に孝明天皇が亡くなり(12月25日参照>>)、強い味方を失った中川宮とその仲間たちは、朝廷内で急激に力を失っていきます。

会津とタッグを組んでいた薩摩は、すでに長州と同盟を結び(1月21日参照>>)、ともに倒幕へとまっしぐら・・・やがて、中川宮らと交代するように朝廷内に暗躍するのは、やはり、以前は公武合体(朝廷と幕府の協力体制)を主張していたはずの、あの岩倉具視(ともみ)でした。

やがて慶応三年(1867年)12月9日の小御所会議で発せられた倒幕側のクーデター・王政復古の大号令(12月9日参照>>)にて、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)総裁に就任・・・以後、中川宮の出る幕はなくなりますが、ここで、ムリに政情にあらがう事なく、万事をスルーするのは、やはり、下積みを味わった経験と皇族のおおらかさの両方を兼ね備えた中川宮のなせるワザと言ったところでしょうか。

明治維新がなった後、もともとの本籍であった伏見宮に戻し、その後、明治八年(1875年)には新しい宮家・久邇宮(くにのみや)を創設・・・で、最後のお名前は、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)となります。

しかし、大胆でおおらかな中川宮ではありますが、明治の世となった後も、その心の奥底に流れる真の強さを見せつけてくれます。

かの政変で敵となった長州へ屈する事を許さず、新政府に入らないばかりか、生涯、東京に引っ越す事もありませんでした。

それでも、公家社会に隠然たる勢力を持ち続けるのは、やはり、世情を知り尽くした、その人生経験によるものでしょうか。

誇り高く、それでいて気さくな皇子は、伊勢神宮の祭主も務め、皇學館大学を創設し、9男・9女という子宝にも恵まれ、明治二十四年(1891年)、68歳でこの世を去ったのでした。
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コメント

自分が知っている歴史の表舞台の裏側が知れるのが、こちらの素敵な所ですね♪

公卿もどの藩に付くかでのちの身の振り方が変わったんですね。
表舞台に出ないから不幸せなんじゃなく、こういう信念貫いた老後?の過ごし方も素敵だと思います。

投稿: 花曜 | 2009年8月18日 (火) 20時58分

花曜さん、こんばんは~

戦国と幕末の交代々々で、ここ何年はマンネリ気味と言われる大河ドラマですが、中川宮さまの生き方を見ていると、幕末という時代も、まだまだ、違う視点からの描き方が豊富にあるように思いますね。

投稿: 茶々 | 2009年8月18日 (火) 22時45分

始めてコメントさせていただきます。
そして始めてブログ拝見させて
いただきました。

とってもステキなブログですね。
すごく感動しました。

私は歴史に全然詳しいわけじゃ
ないのですが

色んなお寺を巡ってみようと
興味がわきました。

これからも読ませていただいて
勉強させていただきます!!
たまにコメントさせて
いただくと思いますが、
よろしくお願いします。

投稿: 香凛 | 2009年8月18日 (火) 23時26分

香凛さん、ありがとうございますo(_ _)o

また、遊びにきてくださいね!

投稿: 茶々 | 2009年8月19日 (水) 00時50分

非常に勉強になりました。ありがとうございます。こんな風に表現できれば、いいなと思います。

投稿: Yoshi | 2010年5月 6日 (木) 10時20分

Yoshiさん、うれしい書き込みありがとうございました。

励みになります。

また、遊びに来てくださいo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2010年5月 6日 (木) 13時17分

こんにちは。
幕末が大好きで、
いろいろと調べています。
しかし、
人名や地名がコロコロ変わったり、
人間関係などが非常に複雑で、
大変に解りにくい部分も多いですね。

書籍やウィキなど読んでも
すっと頭に入りにくいことが多いのですが、こちらのサイトは、非常に理解しやすく
書いてくださってます。
その上、守備範囲も広く深い…。
いつも大変助かっております。素晴らしい!

これからも、お体に気をつけて、
頑張ってくださいませ。
ほんとに感謝!

投稿: 八河清郎 | 2013年5月10日 (金) 08時32分

八河清郎さん、こんにちは~

うれしいコメントありがとうございます。

お名前からも、幕末好きな事が伝わってきます。
これからも、時々、覗きに来てくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2013年5月10日 (金) 10時33分

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