鉄砲伝来~異説とその後…
天文十二年(1543年)8月25日、種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝えられました。
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鉄砲伝来については、すでに3年前の8月25日に、島民の様子やら領主の種子島時尭(ときたか)の話やら書かせていただいたので、その定番の経緯については、そちらでご覧いただくとして(2006年8月25日を見る>>)、本日は、異説・・・というか、別ルートでも伝来していた?というお話と、戦国の戦い方を変えた鉄砲のその後のお話をさせていただきます。
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そもそも、定番となっている鉄砲伝来についての記録というのは、慶長十一年(1606年)に成立した『鉄砲記』なる書物に書かれている事で、それが、書面に残る唯一の鉄砲伝来の記録という事になっています。
しかし、実は、この書物・・・種子島久時という時尭さんの息子が書いたもの・・・
つまり、戦国の戦い方を一変させた鉄砲という武器を最初に手に入れたオヤジさんの功績を、メッチャかっこよく書いてる可能性アリって事です。
そもそも、伝えた側のポルトガルの記録によれば、「日本を発見したのは1542年」という事で、すでに1年前に、誰かが日本に来てるという事になります。
また、この時代のヨーロッパでは、火縄ではなく火打ち石式の銃が主流で、火縄が主流だったのはベトナムやマレーなど東南アジアだったのだとか・・・
・・・で、上記の様々な矛盾を解決する説として考えられているのが、前年の天文十年(1542年)に例のごとく、中国船の漂着というサプライズで種子島に来たポルトガル人が、まだ、日本に鉄砲が伝わっていない事を知り、「これは商売になるゾ!」とばかりに、翌年、見本とも言うべき鉄砲を持って、再び、種子島にやって来る・・・
持参したのは、もちろん、母国で使ってるほうではなく、アジアで大流行している火縄銃のほう・・・という事になります。
先ほどのポルトガル側の記録にある1542年に日本を発見した人物は、アントニオ・ダモッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットという3人の人物・・・
日本側の記録にある翌・天文十二年(1543年)8月25日に鉄砲を伝えたポルトガル人の名前は「牟良叔舎」←コレ、「フランシスコ」と読むんですよ~同一人物なのでは???
・・・とは言うものの、「売る気満々の商売人から買った」というよりは、「たまたま漂着して助けてやった人物が持っていた物を、若き殿様が目に止め・・・」ってなほうが、世紀の武器の伝来ドラマとしては、確かにカッコイイですわな。
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・・・と、公式の鉄砲伝来のお話とは別に、もう一つ、非公式の伝来のお話も残っています。
それによれば、鉄砲伝来は、先の種子島より3年早い天文九年(1540年)に、当時、五島列島付近を中心に荒らしまわっていた海賊の頭目・王直が、平戸城主だった松浦興信(おきのぶ)に、弾薬付きで一挺の火縄銃を献上したのだそうな。
この王直という人物は、名前でお察しの通り中国人・・・明を追われて倭寇(わこう)を率いていた人物で、以前、応永の外寇(6月26日参照>>)のところで書かせていただいた、倭寇の後半に登場する中国人自身による倭寇の集団を率いていたのです。
この時、鉄砲を気に入った興信は、さらに十挺の銃と三十貫の弾薬を王から購入したという事なので、やっぱりこれも見本持参のビジネスという事なのか?
(そら、スーパーの肉売り場の横で、オバチャンが肉を焼いて配るはずやww)
・・・で、その興信の息子の26世・興信が、本来、伝わったとされる天文十二年に起こった肥前相神ノ浦の戦いで、鉄砲を使用したという事なので、これが本当なら、こっちが初という事になりますが、あくまで非公式なので・・・
ところで、そんな鉄砲・・・最盛期には全国に30万挺はあったと言われるほど戦国武将に大人気だったわけですが、徳川家康が天下を取って太平の世となってからは、その膨大な数の鉄砲はどうなっちゃったのか?
まったく、噂を聞かないので、平和の中じゃ無用の長物として無くなっちゃったのかと思いきや、これがなかなか・・・皆、意外と鉄砲を持ってたんですね~
江戸幕府は、各藩に「君とこは○○石やから○○挺」と、石高に応じて一定の数の鉄砲を、むしろ常備するように義務づけていますし(そのほうが管理しやすい)、民間でも、狩猟に鉄砲を使っていたのはご存知の通り・・・
あの島原の乱(2月28日参照>>)の時には、秋月藩の黒田家が鉄砲を使用していますし、大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)の時も、大塩が持っていた大砲に対して、幕府は鉄砲で応戦してます。
・・・と、そうです。
この二つの乱は、すでにブログに書かせていただいておりますので、お気づきでございましょうが、島原の乱は大坂夏の陣から約20年後の3代将軍・徳川家光の時代。
そして、大塩の乱は、黒船が来航する15年前の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の時代。
つまり、江戸時代のはじめのほうと終わりのほう・・・その間、誤解から鉄砲自殺をしちゃった福知山城主の稲葉紀通さん(12月7日参照>>)なんかもいましたが、幕府や藩の持つ鉄砲を総動員して戦うような大きな合戦はなかったわけです。
・・・て事で、要は、江戸時代を通じて、鉄砲はたくさん保持されていたわけですが、実践に使われる事がほとんどなく、ただ、持ってただけ・・・なので、この間、技術的にはほとんど進歩がなく、幕末の長州征伐(6月14日参照>>)のところで書かせていただいたように、直前の外国との交戦で痛い目を見た事で、いち早く最新鋭の武器に切り替えた長州に、多くの藩が太刀打ちできない・・・てな状況になってしまったわけなのです。
以上、本日は、鉄砲伝来記念として、イロイロ書かせていただきました~
この後は、おふざけで家電の取説風に書いた【火縄銃・取扱説明書】もお楽しみください>>
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コメント
早いところでは、「1510年説」なんてのもありますからねえ。
何にせよ、国内に製造技術が無かったから普及が進まなかっただけで、ブツ自体は早くから流入していたんじゃないか、と思ってるんですが。
むしろ1543年は「製法」が伝来した年だったのかもしれませんね。
「取扱説明書」読みました
さすが大手メーカー(国友ウェポンマシナリー?ネゴロファイアーテック?サカイ・アームズ?)添付のものだけに、一般ユーザー向けに大変親切かつ平易に書かれていますね。
(すごいお仕事を請け負ってらっしゃるようで・・・)
ただ実際に野外で使用するなら、併せて織田軍教育隊発行のマニュアルを入手した方が良い、とも聞きました。
分解整備の詳細とか基本的な射撃操錬法とか、いろいろ載ってるみたいです。
・・・ええと。
悪ふざけというのも、なかなかに難しいものですね(笑)
投稿: 黒燕 | 2009年8月26日 (水) 00時20分
黒燕さん・・・
ノッっていただいてありがとうございます。
鉄砲の図を描いているうちに、「何だか、家電製品みたいだな・・・」と思い始めたら止まらなくなってしまいました。
投稿: 茶々 | 2009年8月26日 (水) 12時39分